婚約破棄されましたが、私はもう必要ありませんので

ふわふわ

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第十話 違いという名の現実

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第十話 違いという名の現実

 辺境公爵領での業務が本格的に動き始めてから、さらに数日が経過していた。

 マルグリット・フォン・ルーヴェンは、朝の光が差し込む執務室で、前日に届いた報告書に目を通している。北部街道補修の前倒し決定は、すでに各部署へ伝達され、現場では準備が始まっていた。

 紙の上の数字が、少しずつ「人の動き」に変わっていく。
 その過程を、彼女は静かに追っていた。

「……早いですね」

 王宮であれば、決裁が下りてから実行に移るまで、さらに数段階の手続きと確認が必要だった。
 だが、ここでは違う。

 判断が下れば、即座に動く。
 動きながら修正する。
 その前提が、最初から共有されている。

 そこへ、控えめなノックが響いた。

「失礼します」

 入ってきたのは、若い文官だった。まだ経験は浅いが、真面目そうな青年だ。

「街道補修に関して、現場から追加の提案がありまして……マルグリット様にご意見を伺いたいと」

「分かりました。資料を」

 差し出された書類に目を通しながら、マルグリットは小さく頷く。

「合理的ですね。資材の調達先を分散させれば、遅延のリスクも減ります」

「……採用してよろしいでしょうか」

「はい。ただし、予算配分の再確認は必要です。ここを調整すれば、問題ありません」

 青年は目を輝かせた。

「ありがとうございます! すぐに修正案をまとめます」

 彼が部屋を出ていくのを見送りながら、マルグリットはふと考える。

 ――王宮では、こうしたやり取りはなかった。

 若い文官が意見を出すことは、形式上は許されていても、実際には“空気を読む”ことが求められた。
 上の判断に逆らわず、目立たず、責任を負わない。

 だがここでは、違う。

 意見を出せば、内容で判断される。
 身分や年齢ではない。

 その日の昼前、フェリクス・フォン・グランツから呼び出しがあった。

「少し時間はあるか」

「はい」

 執務室に入ると、フェリクスは地図を机に広げていた。

「街道補修に合わせて、物流拠点の配置も見直す」

 指で示された地点は、いずれも要所だ。

「こちらは、私も検討していました」

 マルグリットは頷き、補足する。

「補修後の交通量増加を見越せば、倉庫機能を分散させたほうが効率的です」

「同意見だ」

 フェリクスは短く答える。

「王宮では、こうした話はどうだった」

 不意に向けられた問いに、マルグリットは一瞬だけ間を置いた。

「……議題に上がるまでに時間がかかりました。関係者が多く、調整が優先されます」

「つまり、決められない」

「はい」

 フェリクスは鼻で小さく息を吐く。

「それで国が回っていたのが、不思議だな」

「……回っていたのではなく、回していた人間がいました」

 言葉が、自然と口をついて出た。

 フェリクスは、視線だけを向ける。

「あなたか」

「私一人ではありません。ただ……歪みは、個人の負担で支えられていました」

「それが、限界を迎えた」

「はい」

 フェリクスは、それ以上深く追及しなかった。
 ただ、地図に視線を戻す。

「ここでは、そうはさせない」

 それは、約束のようでもあり、宣言のようでもあった。

 午後、マルグリットは城下町へ足を運んだ。

 街道補修の準備が始まり、職人たちが集まっている。
 彼女は遠くから様子を見守り、必要以上に口を出さない。

「……あの方が、最近来た顧問様か」

 小声で囁く声が、風に乗って聞こえた。

「王都から来たって聞いたぞ」

「でも、偉そうじゃないな」

 その言葉に、マルグリットは気づかれないように微笑む。

 評価されるのは、立場ではない。
 結果だ。

 一方、王宮では――。

「また、判断が遅れています」

 側近の報告に、ロイド・ヴァルシュタインは眉をひそめた。

「何度言えば分かる。先に進めろ」

「進めるための判断が、出ていないのです」

「……なぜだ」

 側近は、言葉を選びながら答える。

「殿下のご指示を待つ案件が多すぎます。以前は……」

 そこで、言葉が止まる。

「以前は、何だ」

「……マルグリット様が、殿下に代わって整理されていました」

 沈黙が落ちる。

 ロイドは、書類の山を見つめながら、初めて“違い”をはっきりと意識した。

 彼女がいなくなったことで生じたのは、単なる人手不足ではない。
 判断の質と速度、そのものの低下だった。

「……辺境公爵領では、どうだ」

「動きが早いと聞いております。街道整備も、すでに着手しているとか」

 ロイドは、唇を噛みしめた。

 ――なぜ、彼女はあちらで力を発揮し、こちらでは重荷だったのか。

 答えは、薄々分かっている。
 だが、認めるには遅すぎた。

 夜、マルグリットは執務を終え、部屋で一人、灯りを落とした。

 疲労はある。
 だが、心は不思議と静かだった。

「……ここでは、違いますね」

 王宮との違い。
 それは、働き方だけではない。

 判断の重さを、誰か一人に押しつけないこと。
 責任を、役職とともに引き受けること。

 そして――
 必要とされた理由を、きちんと示されること。

 マルグリット・フォン・ルーヴェンは、確信していた。

 自分は、正しい場所を選んだのだと。

 その違いは、もう戻れないほど明確で、
 同時に、彼女を静かに前へ進ませる現実でもあった。

 歯車は、ここでは噛み合っている。
 無理なく、自然に。

 それこそが、彼女が求めていた――
 本当の「働く場所」だった。
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