婚約破棄されましたが、私はもう必要ありませんので

ふわふわ

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第三十四話 呼ばれない名前

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第三十四話 呼ばれない名前

 辺境公爵領に、季節外れの嵐が来た。

 夜半から降り続いた雨は、川の水位を一気に押し上げ、
 朝には、下流の農地が一部、浸水の危険域に入った。

「……水位、想定より上がっています」

 役所の臨時対策室で、報告が上がる。

「堤防は?」

「持ちます。ただし、このまま雨が続けば、越水の恐れがあります」

 判断を急ぐ必要があった。

 だが、誰も口にしない。

 ――マルグリット様に聞こう。
 ――あの方なら、決めてくれる。

 その名前は、出なかった。

「対策案を出そう」

 自治組織の責任者の一人が、前に出る。

「下流の一部農地を、一時的に水を逃がす区域に指定する。
 被害は出るが、集落は守れる」

「補償は?」

「事前規定どおり。
 即日で支払い手続きを回す」

 別の者が続ける。

「住民への通達は、今すぐ出します。
 避難が必要な区域も、限定的です」

 判断は、揃った。

 迅速で、現実的で、
 そして――
 誰か一人の決断ではなかった。

 午前中には、対策は実行に移された。
 農地の一部は水に浸かったが、家屋被害は出なかった。

 午後、雨は弱まり、
 夕方には、川の水位も下がり始める。

「……被害、最小限で済みました」

 対策室に、安堵の空気が広がった。

 そのとき、ようやく一人がぽつりと呟く。

「……マルグリット様に、報告を」

 報告は必要だ。
 だが、判断は、もう終わっている。

 夕刻、マルグリット・フォン・ルーヴェンは、簡潔な報告書を受け取った。

 経過。
 判断。
 結果。

 彼女は、最後まで読み、静かに一行だけ記した。

「対応、適切です。
 事後処理に集中してください」

 それだけだった。

 フェリクス・フォン・グランツが、感慨深そうに言う。

「……呼ばれなかったな」

「はい」

 マルグリットは、頷いた。

「そして、それが一番の成功です」

 嵐の最中、
 彼女の名前は呼ばれなかった。

 だが、判断は止まらず、
 被害は抑えられ、
 混乱も起きなかった。

 夜、城下町。

 酒場では、昼間の嵐が話題になっている。

「ひどい雨だったな」

「でも、被害は少なかった」

「役所の動き、早かったな」

 誰も、特定の名前を挙げない。

 それでいい。

 夜、城の回廊。

 マルグリットは、窓から雨上がりの街を見下ろしていた。

「……呼ばれない名前」

 小さく呟く。

 それは、忘れられたという意味ではない。
 “呼ばなくても大丈夫”という意味だ。

 かつての彼女は、
 呼ばれることでしか、役割を証明できなかった。

 今は違う。

 呼ばれなくても、
 世界は正しく動く。

 それを見届けられた今日という日は、
 何よりも、確かな答えだった。

 マルグリット・フォン・ルーヴェンは、静かに灯りを落とす。

 名前が呼ばれない夜は、
 不安ではなく、安らぎを運んできた。

 それが、
 彼女が築いた仕組みの、
 揺るぎない証だった。
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