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第12話 焔華の過去
しおりを挟む焔華がまだ幼かった頃。
彼女の母――炎狐(えんこ)は、狐族の中でも“最強”と呼ばれる存在だった。
その力と知恵は他の妖怪を圧倒し、彼女の名を聞くだけで震え上がる者もいた。
だが、焔華にとっての“母”は――まるで別の姿をしていた。
「母上!! 今日は稽古を頼みたい! わしをもっと強くしてくれ!!」
幼い焔華が、真剣な顔で炎狐の前に立つ。
その小さな瞳には、母の背中が“強さ”そのものとして映っていた。
だからこそ、どんな時も修行に全力だった。
しかし――。
「えぇ~、今からお昼寝しようと思ってたのに~。」
炎狐はふわりとした声で言い、畳の上にごろりと寝転がった。
長い金色の尻尾がふさりと広がり、光を受けて柔らかく揺れる。
その姿に、焔華は思わず眉をひそめた。
「母上っ!! 強くなるためには修行が必要なんじゃ! お昼寝なんてしてる場合ではないぞ!」
焔華の必死の訴えにも、炎狐はのんびりと笑う。
「でもね、焔華ちゃん。強さって、力だけじゃないのよ~。
お昼寝も“心の修行”なの~。」
「そんな修行あるかぁぁぁ!! 母上、起きんかい!!」
焔華が腕を引っ張るが、炎狐はまるで動じず。
むしろ、ふわりと尻尾を持ち上げ、焔華の頬を優しく撫でた。
「まぁまぁ、力を抜くのも大事よ~。ほら、こうして……。」
そのまま炎狐は尻尾で器用に焔華を包み込み、くるりと自分の隣へ座らせた。
焔華は抗議の声を上げようとするが、柔らかな尻尾に包まれると、なぜか力が抜けてしまう。
「……母上、ずるいのじゃぁ……。」
炎狐はくすりと笑い、優しく娘の頭を撫でた。
「ふふふ。いつかわかるわよ、焔華ちゃん。
力むよりも、流れに身を任せた方が強くなれる時もあるの。」
焔華は頬をぷくりと膨らませたまま、母のふわふわの尻尾に包まれ、静かに息をついた。
その温もりが心地よく、まぶたが自然と重くなる。
――そして、いつの間にか眠ってしまっていた。
しばらくして、部屋に差し込む夕日が二人を照らす。
焔華はハッと目を覚ました。
「はっ!? もう夕方ではないか!! 母上! 稽古が……!」
慌てて飛び起きる焔華に、炎狐はのんびりと笑いながら言った。
「まぁまぁ、焦らなくてもいいのよ~。
ほら、焔華ちゃん。稽古はまた明日ね~。
でもその代わり……“お団子を焼く修行”なら付き合ってあげるわ~。」
「団子作りじゃと!? それ、修行ではなく“おやつ作り”ではないか!!」
焔華は眉をひそめて抗議したが、次の瞬間には尻尾をぶんぶん振っていた。
「……でも、団子は食べたいのぅ! よし、やるぞ!」
炎狐は満足げに微笑み、焔華を台所へと誘った。
火加減を調えながら、二人で串を回し、香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がっていく。
「母上……わし、いつか母上みたいに強くなる!」
焔華の瞳は真剣だった。
その言葉に、炎狐は柔らかな笑みを浮かべる。
「そうねぇ~。でもね、焔華ちゃん。
強くなるには、まず“お団子を焦がさずに焼ける”ようにならないとね~。」
「団子焼きが強さにつながるのか……!?
わしにはまだその境地がわからん!!」
炎狐はくすくす笑い、焔華の頭をぽんと撫でた。
夕陽の中で二人の笑い声が重なり、金色の毛並みが柔らかく光っていた。
――――――――――
――――それは、本当にただの穏やかな日だった。
里の広場に子供の妖狐たちが集まり、尻尾を揺らしながら走り回り、笑い声が満ちていた。
「なぁ、焔華ってさぁ……喋り方、なんか変だよな?」
「『じゃよ』とか言いすぎ~! おばあちゃんみたい~!」
ケラケラ笑う子狐たち。
焔華はぴん、と耳を立て、拳をぐっと握る。
「な、なんじゃと!? これは……“強者の語り口”じゃ!
歴戦の風格というやつじゃ!! カッコいいに決まっとる!!」
「へぇ?でも炎、出せないんだろ?」
――その一言は、鋭い刃のようだった。
そう、焔華は里の中でただひとり、炎をまだ出せなかった。
「……で、できるわい!!」
「じゃあ今やってみろよ~!」
焔華は両手を突き出し、気合いを込める。
「ふんぬぬぬぬぬ……!! ――はあッ!!」
――ぷすっ。
手のひらから上がったのは、炎ではなく、弱々しい煙だけだった。
「ぶはっ!!」「なにそれ!!煙狐~!!」「弱っ!!」
子供たちの笑い声が広場に響く。
その音が、焔華の胸に深く刺さる。
「“炎狐(えんこ)”の娘なのにさぁ、これってどうなの?」
「才能なかったんじゃね?」
焔華はぎゅっと拳を握った。
悔しさで、喉がぎゅっと詰まる。
「そ、それは……母上が……なかなか教えてくれんだけじゃ……」
思い浮かぶのは、母ののんびりとした声。
『焔華ちゃんは、まだ火を扱うのは早いわ~。
周りと比べて焦る気持ちはわかるけれどね~。』
『でもね、ゆっくりでいいの。
花だって、咲く時期はみんな違うのよ~。』
その声は、いつだって優しくて、あったかかった。
……だけど、同時に。
「(わしだけ……置いていかれてるんじゃないか……?)」
胸の奥に、小さな影が生まれた。
母の言葉を信じたい。
でも――周りは笑う。
できない自分が、悔しい。
「ほら!見ろよ!」
意地悪な子狐が、手のひらに小さな炎を灯した。
ぱっ……と、赤い火が揺れる。
その火は小さいくせに、やけに誇らしげに燃えていた。
「こういうのを“炎”って言うんだぜ。
焔華には無理だろ。だって――」
にやりと口角を吊り上げる。
「“炎狐の娘なのに、弱い”んだから。」
その瞬間。
焔華の胸の奥で、ぱん、と何かが弾けた。
「――なんじゃと?」
声が震える。
指先が震える。
心臓が、きゅうっと痛む。
「わしは……弱くなど、ない……!!
母上の娘じゃ……ぞ……!!」
その言葉は、叫びではなかった。
必死に、すがるような声だった。
でも――それで十分だった。
胸の奥底に沈んでいた“熱”に、火がついた。
バチッ……!
空気が震えた。
焔華の小さな身体の中で、
得体の知れない炎が目覚めた。
それは、子供の頃から眠り続けていた――
焔華の血に宿る“九尾の神獣”としての力。
「……っ!!」
炎が、焔華の手から 溢れ出た。
火花ではない。
奔流だった。
そして――焔華の怒りに反応した炎は、
目の前で焔華を嘲笑っていた子狐へと向かった。
「ぎゃああああああああああああ!!!!!」
炎は、呼吸より速く、迷いなく。
子狐の身体を包み込み、燃やし始めた。
「死んじゃう!!誰か水を――!!」
「離れろ!!触るな!!火が移る!!」
周囲は一瞬で悲鳴と混乱に飲まれる。
「や、やめ……!!なんじゃこれ……止まらん……!!」
しかし炎は、焔華の意思とは真逆に膨れ上がっていく。
「焔華、やめて!!」
「殺す気か!!あいつを死なせる気か!!」
周囲の叫びが、焔華の胸をえぐる。
「わ、わかっておるっ……!!
そんなつもりでは、ない……!!」
否定。
叫び。
願い。
でも――焦りは、炎に油を注ぐ。
焔華の瞳に滲んだ“恐怖”が、
炎の魔力をさらに煽った。
ボウッ!!!
炎が跳ね、まとわりつき、周囲へと飛び散る。
「ぎゃあああああああああああッ!!」
子狐たちの悲鳴。
転げ回る影。
焦げる匂い。
「焔華!!謝るから止めろ!!」
「熱い熱い熱い!!死ぬ!!死ぬ!!」
「なにしてんだよ!!殺す気かよ!!」
「ち、違う――!!
わしは……そんな……つもりじゃ……ない……っ!!」
焔華の声は、泣き叫ぶように掠れていた。
でも――
炎は、止まらなかった。
炎は感情だった。
感情は止められなかった。
燃える。
燃えていく。
止まらない。
泣き声。
悲鳴。
焦げた毛の匂いが、鼻を刺す。
「焔華!!何をしている!!」
「正気か!!お前は同族を――!」
駆け寄ってきた大人の妖狐たちが、焼けただれた子狐を見て息を呑む。
「こいつ……!!」
「おい!!止まれ!!」
大人たちは反射的に火の術を放つ。
――ゴッ!!
「ひっ……!!」
焔華は怯えて後ずさった。
だが、その“怯え”こそが――炎をさらに暴走させる。
焔華の全身が、ふたたび炎に包まれた。
――ボゥッ!!!
焔華の背から、炎でできた九本の尾が噴き出す。
揺らめくたびに、尾は空気を裂き、火焔を四方へ射出した。
「なっ……!!」
「炎の密度が違う………………!!!!」
大人たちが放った炎の妖術。
焔華の炎は――それを呑み込んだ。
そして。
「う、うゎぁぁぁぁぁ!!!!」
焔華の炎が、大人たちをも襲う。
世界が、炎色に染まった。
赤。朱。橙。
すべてが溶けて、境界が消えていく。
「いやじゃ……いやじゃいやじゃいやじゃ!!
誰か!!誰か止めてくれぇぇぇ!!!」
叫びは炎に呑まれた。
声は燃え、空気に溶けて消える。
視界は赤い。
耳鳴りは火の咆哮。
自分の手が、自分の意思を裏切って燃え続ける。
「助けて……いやじゃ……もう……やめ……っ……」
焔華の瞳に涙が滲んだその瞬間――
「――――焔華ちゃん!!」
澄んだ声音が、火炎の世界へ割り込んだ。
炎狐がいた。
燃え盛る土の上を、火傷を負いながら踏みしめ、
顔を歪めることなく、ただ焔華へと歩く。
「母上……!!
わし、どうすればいいんじゃ……!!
止まらん……止められんのじゃ……っ!!」
九本の炎の尾が荒れ狂う。
焔華の涙が蒸発して消える。
それでも炎狐は迷わない。
彼女はそっと焔華を―― 抱きしめた。
炎が皮膚を焼く音がする。
それでも腕は緩まない。
「大丈夫よ、焔華ちゃん。」
優しく、やわらかく――
まるで炎なんて存在しないように。
「深呼吸して。ゆっくりでいいの。
怖かったわね……苦しかったわね……
でも、私がここにいるわ。」
焔華は震えながら、母の胸に顔を埋める。
「母上……っ……
母上まで燃えてしまう……!」
炎狐は微笑む。
涙と火傷で濡れた顔で、それでも――美しい笑み。
炎狐は焔華の背にもう片方の手を添え、
自らの妖力を流し込む。
――ぼうっ……
荒れ狂っていた炎が、少しずつ、少しずつ萎んでいく。
炎は消えた。
夜の風が吹き抜け、焦げた匂いとすすだけが残った。
焔華は、母の腕の中で泣き続けた。
――――――――――
被害を受けた者たちの怒りは、決して収まらなかった。
「うちの子を……焼き殺されたんだ……! “子供の過ち”で済むと思うな……!!」
「死傷者六名。火傷は生涯残る。誰が責任を取る?」
「炎狐の娘だろうと関係ない! 危険なものは排除するしかない!」
「あれを放っておけば、次に燃えるのは里全体だ! 追放どころじゃない――殺さねば我らが危うい!!」
狐族の集会場は、憤怒に満ちていた。
叫び、泣き、嘆く声が重なり、空気は刺すように張りつめる。
炎狐は、その中心で何度も頭を下げていた。
「……償います。どれほどの年月がかかろうとも。
どうか、どうか……娘の命だけは……」
深く、深く、額が地面に擦り切れるほどに。
しかし、その必死の祈りは、燃え上がった憎しみを鎮められない。
「炎狐よ。お前は理解しているはずだ。」
長老の声は静かで、どこまでも冷たかった。
「焔華が顕現させたあの力――“神狐憑依”。
歴代でも四人しか現れなかった、妖狐の中でも特別な力だ。」
「だが制御できぬ神狐は、ただの災厄。
共同体にとって、致命的な脅威となる。」
「残念だが――排除せねばならぬ。」
集会場の空気が、一瞬で凍りつく。
「……排除……?」
長老が呟いた。
「焔華の――処刑である。」
その言葉は、刃のように会場の隅々まで刺さった。
膝をつく者。
歯を食いしばる者。
悲鳴を上げる者。
沈黙する者。
「焔華はまだ幼い!」
「力が暴走したのは、心が追いつかなかっただけだ!」
「時間を与えれば、きっと制御できるようになる!」
そう訴える声も確かにあった。
だが――長老の表情は微動だにしない。
「もし再び暴走したら、また命が奪われる。
もう、悲しみを増やすわけにはいかぬ。」
「炎狐。母としてではなく――族として判断せよ。」
炎狐は、強く唇を噛みしめた。
瞳に宿るのは、怒りでも憎しみでもない。
絶望だった。
――――――――――
「焔華ちゃん。お引越しするわよ~。」
その言葉は、あまりに軽やかだった。
「……ひ、引越し……?」
焔華は目を瞬かせながら聞き返す。
「そうそう。二人きりでのんびり暮らせる、す~っごく良い場所があるの。
ね? そこへ行きましょう?」
「……母上は……いいのか?」
焔華の問いは震えていた。
炎狐はいつもの調子で、ふわりと微笑む。
「私は焔華ちゃんがいれば、それだけで幸せだから~。」
その声に嘘はなかった。
ただ――言わなかった。
“本当は、それ以外の全部を手放した”ということを。
辿り着いたのは、山深くの洞窟だった。
炎狐は木を集め、火を焚き、わずかな食料を探す。
それが、二人の新しい日常になった。
夜。
焔華は焚火の揺らめく橙を見つめながら、膝を抱えた。
「……わしのせいじゃ……。
わしがいなければ、母上は……もっと楽に生きられたのに……」
そのつぶやきに、炎狐はそっと焔華の隣に座った。
優しく、静かに頭を撫でる。
「焔華ちゃん。そんなこと、絶対に思わなくていいわ。」
声はあくまで柔らかい。
しかしその奥には、鋼の強さが宿っていた。
「あなたがいるから、私は強くなれたの。
あなたを守りたいと思えるから、生きていられるの。」
「でも、わし……皆に嫌われて……母上まで里を追われて……」
焔華の涙が頬をつたう。
炎狐はその涙を、ふわりと自分の尻尾で包み込んだ。
「焔華ちゃん。あなたは悪くないわ。
私が信じてる。それで――もう十分なの。」
焔華の涙がぽろぽろと落ちる。
その雫は、火の光を受けて小さくきらめいた。
「……母上は、強いのぅ……」
震える声で言いながら、焔華は気づいていた。
母は里を追われた。
自分を守るために、すべてを背負った。
本当は――一番傷ついているのは、母上のはずなのに。
それでも。
炎狐は、いつも通りの優しい笑みを浮かべていた。
「……やっぱり、母上は……最強じゃ……」
その言葉は子供の強がりなんかじゃない。
焔華にとって、
母は世界で一番、揺るがない存在だった。
焔華は小さく、ぎゅっと母の着物を掴んだ。
炎のように強く。
陽だまりのように温かく。
それが――焔華にとっての「炎狐」だった。
洞窟の入り口から、夜の風がそっと吹き込む。
焔華は外の空を見上げ、ぽつりと呟いた。
「また……団子が食べたいのぅ……。」
その言葉に、炎狐は尻尾をふわりと揺らし、いつも通りののんびりした声で応えた。
「そうね~。私も食べたいわ~。
焼きたてのお団子に、とろ~り甘いタレをつけて……想像しただけで幸せねぇ。」
「……また、一緒に食べられる日……来るのじゃろうか……?」
焔華は不安げに、母の袖をぎゅっと握った。
炎狐はその手を、そっと包み込んで言う。
「来るわよ、焔華ちゃん。
来ないはずがないじゃない。」
たおやかに、優しく、揺るがない声で。
「その日が来るまで――
一緒に、少しずつでいいから、頑張りましょうね。」
焔華は小さく、こくんと頷いた。
――――――――――――
夜は深く、洞窟には焚き火の柔らかな光と、二人の静かな寝息だけがあった。
焔華は炎狐の腕の中で眠り、その尻尾に包まれていた。
――その姿は、世界で一番穏やかで、何よりも幸せな「親子」だった。
しかし、その静寂を裂くかのように、炎狐の耳がピクリと動く。
微かな足音。風に紛れた気配。
彼女はすっと目を開けると、焔華をそっと抱き寄せ、立ち上がった。
「……母上……?」
焔華が眠たげに目をこする。
炎狐は、いつものふわりとした笑みを浮かべた。
だが――その瞳の奥には、鋼の光が宿っていた。
「焔華ちゃん、起こしちゃってごめんね~。ちょっと外を見てくるだけよ。いい子にして待っててね。」
炎狐はそう言って、いつものように優しく焔華の頭を撫でた。
その手はふわりと温かく、焔華は思わず目を細める。
――けれど。
炎狐が立ち上がり、洞窟の入り口へ向けて振り返った瞬間。
焔華は見てしまった。
母の表情が、変わる瞬間を。
今まで一度も見せたことのない、
柔らかさの欠片もない、鋭く研ぎ澄まされた眼差し。
まるで、外の闇を睨み返す炎そのもの。
焔華の胸が、きゅっと縮んだ。
「……母上?」
呼びかけても、炎狐は振り返らなかった。
ただ、静かに尻尾だけをひと振りして言った。
「――いい子にしててね。」
その声だけは、優しかった。
――――――――――
外は冷たい夜気に満ちていた。
その中に――狐族の影が、幾十も重なって立っていた。
その数、五十。
そして最前に立つは、長老。
「炎狐。焔華を引き渡せ。」
長老の声は、夜の空気より冷たかった。
炎狐は、一歩も退かなかった。
その姿は、ただの母ではなく――かつて最強と謳われた“炎狐”そのもの。
「――断るわ。」
声は、焔ではなく刃のように鋭かった。
「焔華は私の娘。
だれも、触れさせない。」
次の瞬間、地を蹴る音。
狐族たちは一斉に襲いかかった。
夜空に炎が走り、影がぶつかり、火花が散る。
戦いは熾烈を極めた。
――――――――――
夜が明けた頃、焔華はゆっくりと瞼を持ち上げた。
いつもの温もりが隣に――ない。
「……母上?」
呼んでも返事はない。
胸に不安がポツリと落ち、それは瞬く間に全身に広がる。
焔華は洞窟を飛び出した。
朝靄のかかる山の中を、必死に、息が切れるまで走る。
「母上……!どこじゃ……母上……!!」
そして――見つけてしまった。
母は、膝をついたまま、俯いていた。
「……は……母上……?」
焔華の足は、その場から動かなくなった。
そこにある光景が、あまりにも冷酷すぎて。
周囲には、ばらばらに倒れ伏した狐族たちの死体。
斬られた痕。焼け焦げた毛皮。乾いた血の色。
夜半に繰り広げられた激闘の痕跡が、あまりにも生々しく残っていた。
焔華は、崩れ落ちるように母へ駆け寄る。
「母上っ!!」
抱きしめた母の体は、もう温かくなかった。
まるで深い冬の雪のように、静かで、冷たかった。
「うそ……じゃろ……?」
声が震える。
喉がつまって、呼吸すら苦しい。
「母上……返事してくれ……!!なぁ……母上……!!」
返事はない。
風が枝を揺らす音だけが、あまりにも無慈悲に響く。
「あ……ぁ……」
焔華の涙が、ぽたぽたと炎狐の頬に落ちる。
炎狐の顔は、苦しみのない――まるで微笑んでいるかのような表情だった。
それが焔華の胸をえぐった。
「私の……せいじゃ……!」
焔華は地面を拳で叩いた。
爪が割れ、血がにじんでも痛みがない。
「わしが……力を抑えられなかったから……!」
焔華の震える視界に映るのは――
母の周囲に倒れる五十を超える同胞の亡骸。
母は、焔華を守るためだけに戦い、
そして、仲間を手にかけ、
最後に――力尽きた。
「母上は……こんな結末……望んでなかったじゃろ……!」
焔華は顔を覆って、震えながら叫んだ。
「なんで……なんでわしなんかを……守ったんじゃ……」
大地にひれ伏すようにして泣き崩れる焔華の背に、太陽が昇り始める。
朝の光は無情に照らし出し、夜の戦いが残した傷跡を鮮明に映し出した。
――――――――――――
あの日を境に、焔華の時間は止まった。
「私のせいで、母上は命を失った……」
そう考えるたび、胸の奥がじくじくと焼けるように痛んだ。
「私がいなければ、母上は……もっと穏やかに、生きられたはずじゃ……」
悲しみは、やがて形を変える。
焔華の中に、静かに、しかし確実に――ひとつの“思い込み”が根を張っていった。
「母上は、私を守るために命を使い果たした。
それはつまり……私が、生まれてこなければよかったということではないか……」
その考えが根を深く伸ばし、
焔華は、母の優しい笑顔を思い出せなくなっていった。
思い返すのは――
最後に見た母の横顔。
炎を睨み返すような、鋭い、鋼のような表情。
焔華の記憶からは、尻尾に包まれて笑ってくれた母も、
団子を焼きながらのんびり語ってくれた声も、
少しずつ、霞の向こうに消えていった。
「きっと母上も……わしを憎んでいたんじゃろう……」
そう呟く声は、あまりに小さく、弱かった。
焔華にとって、母の死は“喪失”ではなかった。
罰だった。
自分という存在そのものが、誰かを燃やし、奪い、失わせる。
焔華は、そう信じてしまったのだ。
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