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第8話:この記憶が、君の幸せになるように
しおりを挟む朝の光が、静かに差し込んでいた。
窓辺に吊るした薄布がふわりと揺れ、縫いかけの衣が、やさしく風に撫でられる。
手元には、昨夜セスに渡された糸巻きが転がっていた。これでまた、一枚、彼のための服が縫える。
針を持つ指先は、震えていた。けれど、それはもう、昨日までのような不安の震えではなかった。
ただ、胸がいっぱいで。あたたかくて。
もう、“あの運命“を思い出す必要なんてないのだと思えた。
カラン——。
扉の鈴が、軽やかに鳴った。
振り返れば、そこには——
「……セス?」
「来るって分かってただろ。昨日、あんなこと言っといて」
不貞腐れたような言い方のくせに、その顔は少し赤く、目元が心なしか腫れていた。
俺と同じくらい泣いていたんだな、と思ったら、ふと笑みがこぼれた。
「どうしたの?」
「来た理由、言わないと分からない?」
言って、セスは一歩踏み出す。
そして俺の手を、まるで何かから救い上げるように、しっかりと握った。
「もう、隠れるな。逃げるなよ。……お前がいなくなったら、俺は……また、大騒ぎするからな。今回の件で学んだ。お前は思い込みが激しすぎて、放っておいたらまずいことになる」
その声の真剣さに、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
言いかけた言葉が喉で絡まり、それでも、何とか口を開く。
「……で、でも、本当に俺でいいの? セスなら、もっと素敵な人がたくさんいるよ。……俺なんか、その幸せを遠くから祈るだけのちっぽけな立場で——」
「違う」
遮るように。けれど、その声はとても優しく。
「お前は、俺の中で、一番大事な存在だ。……最初から、ずっとな。だから、お前は堂々と俺の隣にいろ」
そのまなざしが、何よりの答えだった。
俺は、黙って頷いた。
午後、礼拝堂の中庭。
緑の香りに包まれた空間に、俺とセス、そして王子の姿があった。
「来てくれて、ありがとう」
王子は、変わらぬ上品な微笑みを浮かべていた。けれど、その目だけが、ほんの少しだけ寂しげに揺れている。
「彼と、上手くいったようだね。……本当に、よかった」
「……ごめんなさい」
口に出した途端、後悔した。けれど——
「謝らなくていいんだよ、リセルくん」
王子は、そっと視線をセスへ向ける。
「君は幸運だね、セス。こんなにも誰かを想って、想われること。……それは、決して当たり前のことではないのだから」
「……ああ」
短く、けれど深く頷いたセスに、王子は一歩、歩み寄る。
「だから、どうか。私の分まで、彼の幸せを守ってやってくれ」
そして最後に、俺を見つめるその目は、まるで祝福の祈りを込めたように澄んでいた。
「君が選んだ人が、君を選んでくれたんだ。これからは、自分を卑下して身を引くのではなく、自分が幸せになれるように生きなさい。……君たちの幸せな未来を、心から祈っている」
その言葉に、自然と涙が込み上げてきて、止めることができなかった。
夜。
あの丘の、あの木の下。
月は静かに輝き、草の上には、ふたつの影。
「なあ、リセル」
「……うん?」
「お前さ、ずっと“別れのための思い出”を作ろうとしてただろ?」
不意に言われて、目を逸らしかけた瞬間、セスの手が俺の頬に触れた。
「……俺は、そんなのいらないからな。今までの思い出よりも、これからを一緒に作っていきたい。泣いても、喧嘩しても、笑っても。全部、お前と一緒に」
言葉のひとつひとつが、胸に刺さるように届く。
そしてその痛みが、こんなにも優しいことに、今、初めて気づいた。
「……でも、俺、怖かったんだ」
掠れた声で絞り出すように言った。
「セスにとって、俺は……ただの幼馴染でしかないんじゃないかって。離れても平気な存在なんじゃないかって……思ってた」
「——ったく」
そっと、でも強く抱き寄せられる。
セスの体温が、全部を否定してくれるようで、泣きそうになった。
「俺にお前のこと、何回好きって言わせるつもりだ。理由なんか、意味なんか、どうでもいい。……俺の隣にいてほしいのは、お前だけなんだよ。リセルじゃなきゃ、意味がないんだからな」
鼓動が伝わる距離で、肩をぎゅっと抱かれて、もう逃げ場なんてなかった。
でも、それが嬉しかった。心から、嬉しかった。
「……セス」
名前を呼ぶと、彼は少し照れたように笑って、俺の髪を撫でた。
「今日が終わって、明日が来ても、お前の隣にいたい。……これから、ずっと」
涙がこぼれて、止まらなかった。
けれどそれはもう、哀しみの涙じゃなかった。
「……うん」
ただ一言、それだけで精一杯だった。
それでもセスは笑って、そっと俺の唇にキスをした。
この人と、未来を紡いでいこう。
たとえどんな結末が待っていようと、この選択だけは、きっと悔やまない。
俺は、ずっと欲しかったものをやっと手にした。
それは名前でも、立場でもなく。
たった一人の「好きな人の隣」という場所だった。
いつか、もしもまた苦しい夜が来ても。
この夜を思い出せば、乗り越えていける。——きっと、ふたりなら。
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