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第2章 スパダリ修行は夜も忙しい!?〜嫉妬と媚薬と婚約騒動〜
第10話:王女の来訪と「理想の夫婦」
しおりを挟むオルディス公爵邸の気温は、ここ数日で急降下していた。
季節は初夏だというのに、屋敷の中だけ真冬並みの寒波が吹き荒れているのだ。
原因は明白。当主であるシリル・ヴァン・オルディス閣下のご機嫌が、最悪だからである。
「……おい、リアン。どうにかしてくれよ」
「厨房の水道管が凍って破裂したんだ。このままじゃ料理が出せない」
「俺が廊下を歩いてたら、閣下と目が合っただけで足が凍りついたんだぞ!」
使用人たちが涙目で俺に訴えかけてくる。
俺――リアン・アークライトは、申し訳なさで小さくなるしかなかった。
「ごめん、みんな。俺も頑張ってるんだけど……」
あの日。執務室で「結婚おめでとう!」と叫んで追い出されて以来、シリル様は俺を完全無視していた。
朝の起こし係も解任(鍵をかけられた)。
食事も別々。
執務室に入ろうとすれば、「今は忙しい」と執事長を通して追い返される。
俺は、公爵邸の中で「空気」のような存在になっていた。
(……そんなに怒ることないじゃないか)
俺は廊下の隅で膝を抱えた。
俺はただ、師匠の幸せを願っただけだ。
王女様との婚約なんて、願ってもない良縁だ。公爵家の繁栄のためにも、断る理由なんてないはずだ。
それなのに、なぜあんなに傷ついた顔をしたのか。
なぜ、「私の前から消えろ」なんて言ったのか。
ズキリ。
胸の奥が痛む。
拒絶されたショックだろうか。それとも、ここ数日の寒さで風邪でも引いたか。
この痛みは、心臓の鼓動に合わせて鈍く響き、俺の息を苦しくさせた。
「リアン様。……そろそろお時間です」
執事長が声をかけてきた。
そうだ。今日は、例のロズタリア王国の王女、エリス殿下が屋敷を訪問される日だ。
俺は筆頭補佐官として、お出迎えの列に並ばなければならない。
たとえ無視されていても、これは仕事だ。
俺は頬をパンと叩き、気合を入れた。
「よし! 行こう。……師匠のパートナーとして相応しい女性か、俺がしっかり見極めないと!」
そう、俺は面接官だ。
スパダリを目指す者として、師匠の隣に立つ女性が「プロ彼女(スパダリの妻)」として合格ラインに達しているか、チェックする義務がある。
胸の痛みを「使命感」というラベルで上書きし、俺は玄関ホールへと向かった。
◇◇◇
正午。
王家の紋章が入った豪華な馬車が、公爵邸のロータリーに到着した。
ファンファーレが鳴り響き、ドアが開かれる。
降りてきたのは、まさに「物語のヒロイン」だった。
「初めまして。エリス・ロズタリアですわ」
鈴を転がすような愛らしい声。
蜂蜜色の巻き髪に、大きなエメラルドグリーンの瞳。
ピンク色のドレスを身に纏ったその姿は、満開の薔薇のように華やかで、見る者すべてを魅了するオーラを放っていた。
(うわぁ……可愛い)
俺は整列した後ろの方で、感嘆のため息をついた。
文句なしの美少女だ。
身分、容姿、愛嬌。どれをとっても完璧だ。
「ようこそお越しくださいました、エリス王女殿下」
出迎えたのは、シリル様だ。
今日の彼は、いつもの「俺専用の甘い師匠」ではない。
氷の仮面を被った、冷徹で美しい「公爵」の顔をしている。
礼儀正しく一礼し、エリス王女の手を取ってエスコートする姿は、まるで一枚の絵画のようだ。
「……お似合いだな」
ポツリと漏れた言葉は、誰にも聞かれることなく空気に溶けた。
美男美女。白とピンクのコントラスト。
並んで歩く二人の姿は、どこからどう見ても「理想のカップル」だった。
俺が隣にいた時の「ちぐはぐ感(スパダリと凡庸な世話係)」とは大違いだ。
ズキン。
まただ。胸が痛い。
今度は、針で刺されたように鋭く痛んだ。
(なんだこれ。不整脈か? 最近カフェイン摂りすぎたかな)
俺は胸をさすりながら、二人の後を追った。
これから応接間でお茶会だ。筆頭補佐官である俺は、給仕とお酌をしなければならない。
◇◇◇
応接間にて。
最高級の茶葉と菓子が並べられたテーブルを挟み、シリル様とエリス王女が向かい合って座っている。
「シリル様。噂には聞いておりましたが、本当にお美しいですわね」
「恐縮です」
「わたくし、この国に来るのを楽しみにしておりましたの。シリル様に……いえ、オルディス公爵家の方々にお会いできると聞いて」
王女様は上目遣いでシリル様を見つめ、扇子で口元を隠しながら恥ずかしそうに微笑んだ。
あざとい。だが可愛い。
男ならイチコロのテクニックだ。
(ほうほう、積極性も合格ラインだな。師匠は奥手だから、これくらいグイグイ来る子の方がいいかもしれない)
俺は壁際で控ながら、心の中で採点表をつけていた。
しかし、シリル様の反応は鈍い。
「はあ」「そうですか」と、必要最低限の相槌しか打たない。
表情筋が死んでいる。絶対零度の微笑みだ。
(師匠、もっとデレてくださいよ! 相手は王女様ですよ!)
俺はハラハラした。
これでは縁談が流れてしまう。
俺は気を利かせて、お茶のお代わりを注ぎに行った。
「失礼いたします」
二人の間に割って入り、ポットを傾ける。
その時、エリス王女がチラリと俺を見た。
「あら? こちらの方は?」
「……私の筆頭補佐官、リアン・アークライトです」
シリル様が短く答えた。
俺を見る目は冷たい。まるで「余計なことをするな」と言いたげだ。
「まあ、補佐官? ずいぶんと可愛らしい方ですのね。てっきり、使用人の少年かと思いましたわ」
王女様はコロコロと笑った。
悪気はないのだろうが、「頼りなさそう」と言われたも同然だ。
ムッとしたが、ここで怒るのは三流だ。
俺は笑顔を貼り付けて言った。
「恐れ入ります。若輩者ですが、公爵様のサポートをさせていただいております」
そして、ここぞとばかりにシリル様をプッシュした。
「殿下、シリル様は一見クールに見えますが、実はとても情が深くてお優しい方なんですよ。身内にはとことん甘いですし、一度懐に入れた相手は命がけで守ってくれます。まさにスパダリ……いえ、理想の旦那様候補です!」
「まあ、素敵!」
王女様が目を輝かせた。
よし、掴みはオッケーだ。俺のプレゼン能力を見よ。
俺は得意げにシリル様を見た。
「どうですか師匠、ナイスアシストでしょう?」と目配せをする。
しかし。
シリル様は、俺を見ていなかった。
彼はカップの縁を見つめたまま、凍りつくような低い声で言った。
「……リアン。下がりなさい」
「え?」
「君の仕事は給仕ではない。使用人に任せて、部屋を出て行け」
拒絶。
明確な、拒絶の言葉だった。
場の空気が凍りついた。エリス王女も驚いたように目を丸くしている。
「で、でも、俺は補佐官として同席を……」
「必要ないと言っている」
シリル様が顔を上げた。
その瞳には、怒りすら浮かんでいなかった。
あるのは、底なしの「虚無」と「諦め」。
そして、深く傷ついた子供のような色が、一瞬だけよぎった。
「君は……そんなに私を、誰かに押し付けたいのか?」
「っ……」
言葉に詰まった。
違う。押し付けたいわけじゃない。
俺はただ、師匠に幸せになってほしいだけで……。
でも、俺の行動は、彼にとっては「厄介払い」に見えたのだろうか。
「失礼……いたしました」
俺は震える声で謝罪し、深く一礼して部屋を出た。
背後で、重厚な扉が閉まる音がした。
その音が、俺とシリル様の世界を分断する断絶の音のように聞こえた。
◇◇◇
廊下に出た俺は、壁に背中を預けてズルズルと座り込んだ。
息が苦しい。
胸が痛くて、立っていられない。
「なんでだよ……」
涙が滲んでくる。
俺はスパダリを目指しているはずだ。
尊敬する師匠が良い相手を見つけて、結婚する。それは喜ばしいことだ。
俺は笑顔で祝福し、二人の新居を用意し、子供が生まれたらベビーシッターをする。それが「最高の補佐官」としての未来予想図だったはずだ。
なのに。
あの部屋で、王女様に向けて微笑む(作り笑いだけど)シリル様を見たとき。
俺の居場所はここじゃないと、突きつけられた気がした。
――君のお世話ができるのは、私だけだ。
――君は私の酸素だ。
かつてシリル様がくれた甘い言葉たちが、頭の中をぐるぐると回る。
あれは全部、幼馴染への戯言だったのか?
本当の「パートナー」が現れたら、俺は用済みなのか?
「……嫌だ」
口をついて出た本音に、俺自身が驚いた。
嫌だ。
シリル様の隣に、俺以外の誰かが座るのは嫌だ。
シリル様に「あーん」をするのが、あの王女様になるのは嫌だ。
シリル様が寝ぼけて抱きつく相手が、俺じゃなくなるのは嫌だ。
「っ、なんだよこれ……!」
俺は頭を抱えた。
これは独占欲だ。師匠を取られたくないという、子供じみた弟子としての独占欲だ。
そうに決まっている。
男同士で、しかも主従関係で、それ以上の感情なんてあるはずがない。
「……リアン様?」
通りかかったメイドが、心配そうに声をかけてきた。
俺は慌てて涙を拭い、立ち上がった。
「な、なんでもない! ちょっと目にゴミが入って……」
「お顔色が優れませんよ。少し休まれた方が……」
「大丈夫。仕事があるから」
俺は逃げるようにその場を去った。
休んでいる暇なんてない。
俺は筆頭補佐官だ。シリル様に「出て行け」と言われたとしても、給料をもらっている以上、働かなければならない。
この胸の痛みを誤魔化すには、仕事に没頭するしかなかった。
◇◇◇
その日の夜。
歓迎の晩餐会が終わった後、シリル様は自室に戻ってきた。
俺はいつものように、着替えの手伝いをするために部屋で待機していた。
ガチャリ。
ドアが開き、シリル様が入ってくる。
疲労の色が濃い。ネクタイを緩める仕草さえ、どこか投げやりだ。
「お疲れ様でした、師匠。お着替え、手伝います」
俺が近づくと、シリル様は俺を見ずに手で制した。
「いらない」
「でも、お疲れでしょう? マッサージも……」
「触るな」
冷たい声。
シリル様は俺を避け、自分で上着を脱いでソファに放り投げた。
「今日は一人で寝る。君は自分の部屋に戻れ」
「……師匠」
「コネクティングドアには鍵をかける。朝も起こしに来なくていい」
拒絶のフルコースだ。
俺は唇を噛み締めた。
ここで引き下がったら、本当に俺たちの関係が終わってしまう気がした。
だから、俺は勇気を出して一歩踏み出した。
「待ってください。……俺、何か間違ったことをしましたか?」
「…………」
「王女様とのことを応援したのが、そんなに気に障ったんですか? でも、公爵家のためを思えば……」
「公爵家のため?」
シリル様が振り返った。
その瞳に、ゆらりと暗い炎が灯っていた。
「君は、私の気持ちなどどうでもいいと言うんだな」
「違います! 師匠の幸せを一番に考えて……」
「なら、なぜ私を捨てるような真似をする!」
怒号が響いた。
俺はビクリと竦み上がった。
シリル様が俺に詰め寄る。
壁際に追い詰められ、逃げ場を失う。
「私は言ったはずだ。君以外はいらないと。君だけが私の酸素だと」
「そ、それは……仕事上の、パートナーとして……」
「まだそんなことを言っているのか!」
ダンッ!
壁を叩く音が耳元で炸裂した。
シリル様の顔が目の前にある。怒りで歪んでいるが、その目は泣き出しそうに潤んでいた。
「君は残酷だ、リアン。……無自覚な善意で、私の心を切り刻む」
「し、師匠……」
「もういい。君がそこまで『良い補佐官』でありたいなら、望み通りにしてやる」
シリル様は、冷え切った声で告げた。
「明日から、エリス王女の観光案内は君に任せる。二度と私の視界に入るな」
それは、事実上の「クビ」宣告に等しかった。
俺の役割(シリル様の世話)を剥奪し、屋敷の外へ追いやる命令。
「……わかり、ました」
俺は絞り出すように答えた。
これ以上、何を言っても彼を怒らせるだけだ。
俺は深く一礼し、逃げるように自分の部屋へ戻った。
コネクティングドアが閉まり、向こう側からカチャリと鍵がかかる音がした。
その音が、俺の心の何かを決定的に壊した気がした。
ベッドに潜り込んでも、寒くて震えが止まらない。
隣の部屋にシリル様がいるはずなのに、数千キロも離れているように感じる。
俺は枕を抱きしめ、胸の痛みに耐えながら、眠れない夜を過ごした。
この時の俺はまだ知らなかった。
エリス王女の可憐な笑顔の裏に、とんでもない「本性」が隠されていることを。
そして、俺が彼女の案内役を任されたことが、さらなる悲劇(と、ある意味での転機)の引き金になることを。
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