【8話完結】勇者の「便利な恋人」を辞めます。~世界を救うより、自分の幸せを守ることにしました~

キノア9g

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第6話:勇者の称号よりも欲しいもの

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 安宿の薄暗い部屋で、ガウルは膝を抱えて座り込んでいた。
 床には空になった酒瓶が転がり、食べ残しのパンが乾燥して固くなっている。
 カーテンは閉め切られ、昼間だというのに部屋の中は夜のように暗い。

「……ガウル様、いい加減にしてください」

 部屋に入ってきた聖女リリアが、鼻をつまみながら言った。
 彼女の目には、かつてのような熱っぽい思慕の色は欠片もない。あるのは、汚物を見るような軽蔑と、諦めだけだ。

「ギルドから呼び出しが来ています。昨日の『依頼放置』の件で、違約金が発生すると。……それに、カイが『もうやってられない』って」
「……カイが、なんだ?」
「パーティーを抜けるそうです。私だって……もう限界です」

 リリアの声が震えた。
 無理もない。この数日、ガウルは依頼をすっぽかし、昼から酒を煽り、エリアスのいる王城の方角を睨みつけることしかしていないのだから。
 勇者パーティーは、事実上の解散状態だった。

「出ていけよ」

 ガウルは顔も上げずに呟いた。

「え?」
「どいつもこいつも、うるせえんだよ。金ならやるよ。違約金でも手切れ金でも、好きに持ってけ」

 ガウルは腰に下げていた革袋を投げつけた。中から金貨がこぼれ落ちる。かつてエリアスが管理し、少しずつ貯めていたパーティーの共有資産の残りだ。

「……最低ですね」

 リリアは金貨を拾おうともせず、冷たく言い放った。

「貴方は勇者様だと思っていました。でも、エリアスさんがいなくなったら、ただの駄々っ子じゃないですか。……幻滅しました」

 バタン、と乱暴にドアが閉まる音がした。
 静寂が戻る。
 ガウルは乾いた笑い声を漏らした。

「はは……最低、か。そうだな」

 どうでもよかった。
 リリアがいなくなろうが、カイが消えようが、痛くも痒くもない。
 彼らがいたところで、エリアスの代わりにはならなかったのだから。
 ガウルは震える手で、胸元から一枚の紙を取り出した。昨夜、酒場の酔っ払いから奪い取った、王都のゴシップ新聞だ。

 そこには、デカデカとこう書かれていた。

『聖域の守護公爵シグルド、異例の求婚か!? お相手は新任の魔導師団長エリアス氏!』

 記事には、シグルドがエリアスに贈った指輪の推定価格や、二人が並んで歩く「お似合いの姿」が詳細に記されていた。
 公爵家の夜会で、シグルドがエリアスの腰に手を回し、エリアスが恥ずかしそうに頬を染めていたという目撃談まである。

「……ふざけんな」

 ガウルは新聞を握り潰した。
 頬を染めていた? エリアスが?
 俺の前では、いつも疲れた顔をして、事務的な報告しかしなかったくせに。
 
「あいつは、俺のことが好きなんだ。五年間も尽くしてくれたんだぞ。ポっと出の男になびくわけがねえ……」

 ガウルはブツブツと呟きながら立ち上がった。
 そうだ。あの指輪だ。
 エリアスは言っていた。「シグルド様は魔力循環の指輪をくれた」と。
 つまり、物は言いようだ。エリアスは物欲に負けただけだ。
 あいつは昔からそうだ。俺が市場で買った安い串焼き一本で、あんなに喜んでたじゃねえか。……もっと高い肉を食わせてやれば、俺の足元に這いつくばって感謝するに決まってる。

「……金だ。金が要る」

 手元の金貨はリリアに投げてしまった。
 今のガウルには、宿代を払う金すらない。
 だが、ガウルの頭には狂気じみた名案が閃いていた。

 彼は部屋の隅に立てかけてあった「それ」を手に取った。
 白銀の鞘に収められた、伝説の直剣。
 魔王の喉元を突き刺し、世界を救った聖剣『エクスカリバー』。
 国宝どころではない。人類の至宝だ。

「……これなら、買えるだろ」

 ガウルは聖剣を背負い、よろめく足取りで部屋を出た。
 勇者の称号? 世界平和?
 そんなものでは、冷えたスープも温められないし、荒れた指先を治すこともできない。
 今のガウルにとって、この剣はエリアスの「ご機嫌取り」の道具以下の価値しかなかった。

               
 ◇◇◇

 王都の大通りにある、最高級の魔道具店。
 その店主は、カウンター越しに冷や汗を流していた。

「あ、あの……お客様? 本気でございますか?」
「ああ。これで店にある一番高い指輪をよこせ。……いや、指輪だけじゃない。首飾りも、腕輪もだ。エリアスの魔力を守れるやつ全部だ」

 ガウルはカウンターの上に、ドンと聖剣を置いていた。
 鞘からわずかに覗く刀身が、神々しい光を放っている。
 店主は鑑定スキル持ちだ。一目でそれが贋作ではなく、本物の聖剣であることを見抜いていた。

「こ、これは国宝級……いえ、値段などつけられません! こんなものを売却しては、勇者協定に違反しますし、何より国家反逆罪に……!」
「うるせえな!」

 ガウルがカウンターを蹴り飛ばした。
 殺気。
 かつて魔王を屠った英雄の、理性のタガが外れた暴力的な威圧感に、店主は腰を抜かした。

「俺は勇者だぞ。俺の剣をどうしようが俺の勝手だろ。……それとも何か? この剣は、俺の恋人より価値があるって言うのか?」

 店主はヒッと息を飲んだ。
 目の前の男は、正気ではない。
 英雄の覇気など微塵もなく、あるのはただの「飢え」だ。欲しいものを手に入れるためなら、世界を敵に回しても構わないという、破滅的な欲望。

「……わ、わかりました。ですが、現金での買い取りは不可能です。あまりに額が大きすぎて……」
「だから、物々交換でいいって言ってんだろ! 早く出せよ、俺を待たせる気か?」

 ガウルがさらに踏み込むと、店主は悲鳴を上げた。

「ひ、ひぃっ! わ、わかりました! 全部、全部差し上げますから命だけは……!」

 結局、店主は震える手で、店の金庫に眠っていた『竜の心臓(ドラゴンハート)』を使ったネックレスや、古代遺跡から発掘された『精霊王の指輪』など、国が傾くほどの財宝を次々と並べた。
 それらは本来、王族の婚儀に使われるような品々だ。

「へへ……すげえ。これなら……」

 ガウルは聖剣を店主に押し付け、宝石の山を鷲掴みにした。
 キラキラと輝く宝石たち。
 シグルドの指輪なんて目じゃない。これだけあれば、エリアスは一生魔力枯渇なんて起こさないし、一生遊んで暮らせる。

「待ってろよ、エリアス。……俺の方が、すげえんだ」

 ガウルは店を飛び出した。
 背中から聖剣の重みが消えたが、彼の心は羽のように軽かった。
 これで勝てる。
 これで取り戻せる。
 論理など破綻していた。ただ、「すごい物を渡せば愛が戻る」という、幼児のような万能感だけが彼を突き動かしていた。

               
 ◇◇◇

 その日の夕方。
 王城の門前に、異様な男が現れたという報告が、エリアスの執務室に届いた。

「……師団長。門の前に、その……不審者が」
「不審者?」

 部下の騎士が困惑した顔で言う。

「はい。全身に宝石をジャラジャラとぶら下げた、薄汚い男が……『エリアスに会わせろ』と叫んでおりまして。あの、あれは恐らく……元・勇者ガウルかと」

 エリアスは書類の手を止めた。
 ため息が出る。まだ諦めていなかったのか。

「追い返してください。業務の妨害です」
「それが……『これを渡すまでは帰らない』と、国宝級の魔道具を見せびらかして騒いでおりまして。野次馬も集まってきています」

 魔道具?
 ガウルにそんな金があるはずがない。エリアスが抜けた後の彼らの懐事情は把握している。日々の食事代にも困っていたはずだ。
 嫌な予感がした。
 エリアスは立ち上がり、窓から正門の方を見下ろした。

 そこには、夕日の中で異様にギラつく男がいた。
 首には重そうな金のネックレスを何本も巻き、指という指に巨大な宝石のついた指輪をはめ、両腕にもブレスレットを重ね付けしている。
 まるで、悪趣味な成金か、正気を失ったピエロだ。
 だが、エリアスの優れた視力は、その装飾品の一つ一つが、とんでもない魔力を秘めた一級品であることを見抜いた。

「……あれは、『竜の心臓』の首飾り……? それに、『精霊王の指輪』……?」

 国を一つ買えるほどの価値がある。
 それを、あのガウルが? どうやって?
 エリアスの視線が、ガウルの背中――いつも背負っていた鞘のある場所へ向かう。
 
 ない。
 あの白い鞘が、ない。

「……まさか」

 エリアスの背筋が凍った。
 売ったのか。
 聖剣を。
 世界を救った証を。勇者の魂とも言えるあの剣を、ただの金に換えたのか?

「エリアスー!!」

 下から、ガウルの叫び声が聞こえた。
 彼は満面の笑みを浮かべて、両手を広げていた。

「見ろよ! これ、全部お前にやるよ! シグルドの指輪なんか捨てて、これ着けろよ! 俺の方がすごいだろ!? 俺の方が、お前を大事にできるだろ!?」

 純粋で、無邪気で、そして決定的に壊れた笑顔。

 エリアスは恐怖を感じた。
 以前のガウルは、無神経で傲慢なだけだった。だが、今の彼は違う。
 手段と目的が完全に入れ替わっている。
 「エリアスを取り戻す」という目的のためなら、自分自身のアイデンティティ(勇者)すらドブに捨てる。
 それは「愛」と呼ぶにはあまりにも重く、歪で、粘着質な執着だった。

「……彼は、壊れてしまったのか」

 エリアスはカーテンを閉めた。
 直視できなかった。
 かつて愛した男が、あんな哀れな怪物に成り果てた姿を。

「……シグルド公爵を呼んでください。彼一人では手に負えません」

 エリアスの声は震えていた。
 拒絶すればするほど、ガウルは追いかけてくる。
 常識も、立場も、プライドも捨てて。
 それは、エリアスが求めていた「尊重」とは正反対の、「束縛」という名の地獄の釜の蓋が開いた瞬間だった。

 門の外で、ガウルはまだ叫んでいた。

「エリアス! 愛してるぞ! なあ、出てきてくれよ! これを見れば、きっとお前も笑ってくれるからさあ!」

 その声は、夕闇の王都に虚しく、そして不気味に響き渡っていた。
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