【8話完結】勇者の「便利な恋人」を辞めます。~世界を救うより、自分の幸せを守ることにしました~

キノア9g

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第7話:その愛は、痛みと等しく

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 その日、王都の空が裂けた。
 予兆はなかった。快晴の空に突如として黒い亀裂が走り、そこから溢れ出した瘴気が『聖域』の多重結界を紙のように引き裂いたのだ。

「緊急警報! 第一、第二結界消滅! 上空より正体不明の熱源接近!」
「魔導師団は防衛ラインへ! 市民の避難誘導を最優先しろ!」

 王城の司令室は怒号に包まれていた。
 映像水晶に映し出されたのは、雲海を割り、王都へ急降下してくる巨影――神話級の災厄、『古の魔竜(エンシェント・ドラゴン)』だった。
 かつてガウルたちが倒した魔王軍の幹部すら、赤子に見えるほどの絶望的なプレッシャー。

「……シグルド様! 第三結界も持ちません!」

 城壁の上で、エリアスは叫んだ。
 彼は師団長として、部下五十名の魔力を束ねて巨大な光の障壁を展開していた。だが、魔竜が吐き出す黒炎のブレスを受けるたび、障壁には蜘蛛の巣のようなヒビが入っていく。

「くっ……! 私が前線で注意を引く! エリアス、君は結界の維持に専念してくれ!」

 シグルドがマントを翻し、飛翔魔法で空へ舞い上がる。
 彼は氷の大魔法を放ち、魔竜の迎撃に向かった。
 だが、エリアスの表情は険しかった。
 魔竜の狙いは、この国で最も高純度な魔力を放つ場所――つまり、結界のキーストーンであるエリアス自身だ。

「ガアアアアアッ!!」

 魔竜が咆哮する。
 シグルドの氷槍を翼の一振りで粉砕し、その巨体が一直線に城壁へ――エリアスへと突っ込んできた。

「しまっ……総員、対ショック防御!!」

 エリアスは杖を掲げ、全魔力を障壁の一点に集中させた。
 逃げることはできない。自分が退けば、背後の市街地が焼き払われる。
 
 ――死ぬか。
 
 冷徹な計算が、エリアスの脳裏をよぎった。
 このブレスの直撃を受ければ、結界ごと蒸発する。
 だが、市民が避難する時間は稼げるはずだ。
 元・冒険者としての悲しい性(さが)か、彼は自分の命を天秤にかけることに躊躇がなかった。

「来い……!」

 エリアスは覚悟を決め、目を見開いた。
 迫りくる黒い炎。視界が闇に染まる。

 その時だった。

「――俺のエリアスに、触るなあああああっ!!」

 耳をつんざくような絶叫と共に、横合いから「何か」が飛び出してきた。
 砕けた結界の隙間を埋めるように、エリアスの前に滑り込んだ影。

 ガウルだった。

 聖剣はない。鎧もない。
 身につけているのは、薄汚れたシャツと、悪趣味な宝石のジャラジャラとした残骸だけ。
 手には、どこかの衛兵が落としたであろう、刃こぼれした安物の鉄剣が握られていた。

「ガウル!?」

 エリアスの叫びも虚しく、ガウルは城壁の縁で踏み止まり、魔竜のブレスの真正面に立ちはだかった。
 魔法障壁も、聖なる加護もない。
 ただの生身の肉体。

「うおおおおおおおおっ!!」

 ガウルは鉄剣を振り下ろした。
 魔竜のブレスと、ただの鉄塊が衝突する。
 勇者スキル『限界突破(リミット・オーバー)』。筋肉と骨格を崩壊させながら、一瞬だけ神域の力を発揮する捨て身の技。
 だが、聖剣なき今、それは自殺行為と同義だった。

 ジュッ、と嫌な音がした。
 鉄剣が瞬時に融解し、黒炎がガウルの体を飲み込む。

「が、あアアアアアッ!!」

 断末魔のような悲鳴。
 皮膚が焼け、筋肉が炭化していく。
 それでも、ガウルは笑っていた。
 焼ける喉を震わせ、歓喜に満ちた声で叫び続けた。

「へへ……見てるか……エリアス……! すげえだろ……俺……!」

 彼は痛みすら、エリアスへのアピール材料だと思っていた。
 すごいことをすれば、褒めてもらえる。
 こんなに凄い熱に耐えれば、また自分を見てもらえる。

「燃えてる……俺、お前のために……燃えてるぞ……! 役に立ってるだろ……? いい子だろ……?」

 狂っていた。
 英雄的な自己犠牲などではない。
 それは、「ママ見て」と叫びながら危険に飛び込んでしまう子供のような、無垢で残酷な自己顕示欲だった。
 だが――。

「――あ、づ……」

 限界を超えた熱量が、ガウルの脳内麻薬を焼き尽くした。
 狂気じみた万能感が、物理的な激痛によって強制的に剥がれ落ちていく。

「痛ぇ……熱……痛い、痛い痛い痛いッ!!」

 鉄剣が完全に蒸発し、炎が直接肉を焼く。
 思考が白く弾けた。
 宝石も、見栄も、エリアスへの執着も、すべてが苦痛の中で消し飛んだ。

 やがてシグルドの追撃魔法が魔竜の頭部を直撃し、怪物は軌道を逸らして墜落した。
 黒炎が止む。
 
 後に残ったのは、焦げ付いた肉の臭いと、身を焦がす残熱。
 そして、遅れてやってきた一つの冷たい事実だけ。

 ――エリアスはずっと、こんな痛みに耐えていたのか?

 地面に崩れ落ちながら、ガウルは思った。
 ガウルが魔力を湯水のように使うたび。「俺は無敵だ」と笑って剣を振るうたび。
 エリアスは背後で、魔力回路が焼き切れる音を聞きながら、今の自分と同じ激痛を涼しい顔をして耐えていたのか。

「……うそ、だろ……」

 ガウルの視界が暗転していく。
 もう、かっこつける余裕などなかった。
 ただ、あまりの痛みに、そしてその痛みを無言で背負い続けていたエリアスの強さに、魂が震えた。

「ごめん……ごめんな、エリアス……!」

 それは、今までの「戻ってこい」という要求ではなかった。
 許しを請う言葉ですらなかった。
 ただ、自分のあまりの愚かさと、罪の重さに押し潰された男の、懺悔だった。

「俺は、お前の隣に立つ資格なんて……最初から、なかったのか……」

「ガウル!!」

 エリアスは杖を放り出し、駆け寄った。
 酷い有様だった。
 金色の髪は焼け焦げ、皮膚はただれ、服は肌に焼き付いている。あの自慢げに見せびらかしていた宝石類も、熱で溶けて肉に食い込んでいた。

「すぐに治します! 『最高位治癒(ヒール・マキシマ)』!」

 エリアスは震える手をかざし、光を溢れさせた。
 だが、傷は塞がらない。炭化した皮膚は再生を拒むように黒く張り付き、エリアスの魔力を弾いていく。

「な……なんで、治らないんですか……っ!」
「……さ、わ……るな……」

 錯乱するエリアスの手を、黒く炭化したガウルの手が弱々しく押し返した。
 ガウルの喉から、ヒューヒューとかすれた音が漏れる。

「シグルドって奴なら……お前を、幸せにできる……。だから、もう……俺のことは、捨ててくれ……」

 ガウルはそこで力尽き、ガクリと意識を失った。
 エリアスは息を飲んだ。

 あのプライドの塊だったガウルが。
 自分が世界で一番偉いと信じて疑わなかった男が。
 狂気的なまでの執着を見せた果てに、最後には自分の存在そのものを「不要」だと切り捨てた。

 胸の奥で、凍りついていた何かが、ピキリと音を立てて砕けた。

「……バカな人」

 エリアスの瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
 こんな姿を見せられて、見捨てられるわけがない。
 聖剣を売り払ってまで自分への貢物を買い、最後には肉の盾となって、子供のように褒め言葉をねだりながら焼かれていった。
 その狂気的なまでの「重さ」が、今はどうしようもなく、エリアスの空洞だった心に突き刺さっていた。

「シグルド様!」

 エリアスは空から降りてきた公爵に向かって叫んだ。

「彼を……このバカな男を、助けてください! お願いします!」
「……エリアス」

 シグルドは、黒焦げになった元勇者を見下ろし、そして複雑そうに眉を寄せた。
 彼にもわかったのだろう。
 この男が、ただの愚か者から、愛する者のために全てを投げ打つ「男」に変わったことが。

「……最高位のポーションを手配しよう。彼が生き延びられるかは、彼の生命力次第だがね」

               
 ◇◇◇

 三日後。
 王城の病室で、ガウルは目を覚ました。
 全身を包帯で巻かれ、身動き一つ取れない状態だ。
 
「……生きてる、のか?」

 掠れた声で呟く。
 死ねばよかったのに、と思った。
 あれほど無様にエリアスの前で泣き言を漏らして、おめおめと生き残るなんて、恥の上塗りだ。

「目が覚めましたか」

 窓際から声がした。
 逆光の中に、エリアスが立っていた。
 騎士団の軍服ではなく、簡素なシャツ姿で、リンゴを剥いている。

「……エリアス。なんで、ここに」
「看病です。他に誰がやるんですか。リリアさんたちもいないのに」

 エリアスは淡々と言い、小さく切ったリンゴをガウルの口元に差し出した。
 ガウルは戸惑った。
 怒鳴られるか、軽蔑されると思っていた。

「……食えない。俺なんかが、お前の手料理を……」
「ただのリンゴです。魔法も使っていません。……さあ、口を開けてください」

 拒否を許さぬ強い口調に押され、ガウルは口を開けた。
 甘酸っぱい味が広がる。
 それだけで、涙が出そうになった。

「ガウル。あなた、聖剣を売ったそうですね」
「……ああ」
「勇者の資格も剥奪されるでしょう。賠償金も莫大です。あなたはもう、英雄でも何でもない。ただの無一文の無職です」

 エリアスの言葉は容赦がなかった。
 ガウルは目を伏せた。

「わかってる。……怪我が治ったら、どっかの鉱山で働いて……いや、この体じゃまともに働けねえか……」

 ガウルは包帯だらけの自分の体を見て自嘲した。
 聖剣もなく、五体満足ですらない。もはや彼に冒険者としての価値などない。
 二度とお前の前には現れない、そう言おうとした時だった。

「誰が出ていけと言いました?」

 え?
 ガウルが顔を上げると、エリアスは呆れたようにため息をついていた。

「シグルド様と話がつきました。あなたの身柄は、私が引き取ります」
「は……? 引き取るって……」
「私の『専属護衛』として雇います。給金は借金の返済に充てますから、手取りはありませんけどね」

 エリアスは、包帯だらけのガウルの手に、そっと自分の手を重ねた。
 その指には、まだシグルドの指輪がはめられている。だが、エリアスの視線は真っ直ぐにガウルを捉えていた。

「あの時、あなたは私を守りましたね。……勇者としてではなく、ただのガウルとして」

 エリアスの手が、ガウルの頬を優しく撫でる。

「魔法も、称号も、聖剣もない。そんなボロボロのあなたになら……私は、もう少しだけ人生を賭けてみてもいいと思いました」

 ガウルの心臓が止まりそうだった。
 許された?
 いや、違う。
 新しい契約が提示されたのだ。

「……いいのか? 俺なんかが、そばにいて」
「『そばにいて』ではありません。『そばにいなさい』です」

 エリアスは少し意地悪く微笑んだ。

「これからは、私が主人で、あなたが従者です。私の言うことは絶対。ワガママも聞いてもらいますし、夜中の呼び出しにも応じてもらいます。……覚悟はありますか?」

 ガウルは震える声で答えた。
 それは、世界を救う誓いよりも重く、そして甘美な誓いだった。

「……ああ。俺の命も、魂も、全部お前にやる。お前の犬にでも、足置きにでもなってやる」

 ガウルの目には、暗い情熱の炎が灯っていた。
 かつての傲慢な光ではない。
 主人を崇拝し、主人のためなら喉笛をも食いちぎる、忠実で狂信的な番犬の目。

「一生、離さないでくれ。……エリアス」

 その執着に満ちた瞳を見て、エリアスは満足げに頷いたように見えた。
 こうして、勇者と魔導師の物語は終わり――狂犬と主人の、歪だが幸福な共依存生活が幕を開けた。
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