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第7話:その愛は、痛みと等しく
しおりを挟むその日、王都の空が裂けた。
予兆はなかった。快晴の空に突如として黒い亀裂が走り、そこから溢れ出した瘴気が『聖域』の多重結界を紙のように引き裂いたのだ。
「緊急警報! 第一、第二結界消滅! 上空より正体不明の熱源接近!」
「魔導師団は防衛ラインへ! 市民の避難誘導を最優先しろ!」
王城の司令室は怒号に包まれていた。
映像水晶に映し出されたのは、雲海を割り、王都へ急降下してくる巨影――神話級の災厄、『古の魔竜(エンシェント・ドラゴン)』だった。
かつてガウルたちが倒した魔王軍の幹部すら、赤子に見えるほどの絶望的なプレッシャー。
「……シグルド様! 第三結界も持ちません!」
城壁の上で、エリアスは叫んだ。
彼は師団長として、部下五十名の魔力を束ねて巨大な光の障壁を展開していた。だが、魔竜が吐き出す黒炎のブレスを受けるたび、障壁には蜘蛛の巣のようなヒビが入っていく。
「くっ……! 私が前線で注意を引く! エリアス、君は結界の維持に専念してくれ!」
シグルドがマントを翻し、飛翔魔法で空へ舞い上がる。
彼は氷の大魔法を放ち、魔竜の迎撃に向かった。
だが、エリアスの表情は険しかった。
魔竜の狙いは、この国で最も高純度な魔力を放つ場所――つまり、結界のキーストーンであるエリアス自身だ。
「ガアアアアアッ!!」
魔竜が咆哮する。
シグルドの氷槍を翼の一振りで粉砕し、その巨体が一直線に城壁へ――エリアスへと突っ込んできた。
「しまっ……総員、対ショック防御!!」
エリアスは杖を掲げ、全魔力を障壁の一点に集中させた。
逃げることはできない。自分が退けば、背後の市街地が焼き払われる。
――死ぬか。
冷徹な計算が、エリアスの脳裏をよぎった。
このブレスの直撃を受ければ、結界ごと蒸発する。
だが、市民が避難する時間は稼げるはずだ。
元・冒険者としての悲しい性(さが)か、彼は自分の命を天秤にかけることに躊躇がなかった。
「来い……!」
エリアスは覚悟を決め、目を見開いた。
迫りくる黒い炎。視界が闇に染まる。
その時だった。
「――俺のエリアスに、触るなあああああっ!!」
耳をつんざくような絶叫と共に、横合いから「何か」が飛び出してきた。
砕けた結界の隙間を埋めるように、エリアスの前に滑り込んだ影。
ガウルだった。
聖剣はない。鎧もない。
身につけているのは、薄汚れたシャツと、悪趣味な宝石のジャラジャラとした残骸だけ。
手には、どこかの衛兵が落としたであろう、刃こぼれした安物の鉄剣が握られていた。
「ガウル!?」
エリアスの叫びも虚しく、ガウルは城壁の縁で踏み止まり、魔竜のブレスの真正面に立ちはだかった。
魔法障壁も、聖なる加護もない。
ただの生身の肉体。
「うおおおおおおおおっ!!」
ガウルは鉄剣を振り下ろした。
魔竜のブレスと、ただの鉄塊が衝突する。
勇者スキル『限界突破(リミット・オーバー)』。筋肉と骨格を崩壊させながら、一瞬だけ神域の力を発揮する捨て身の技。
だが、聖剣なき今、それは自殺行為と同義だった。
ジュッ、と嫌な音がした。
鉄剣が瞬時に融解し、黒炎がガウルの体を飲み込む。
「が、あアアアアアッ!!」
断末魔のような悲鳴。
皮膚が焼け、筋肉が炭化していく。
それでも、ガウルは笑っていた。
焼ける喉を震わせ、歓喜に満ちた声で叫び続けた。
「へへ……見てるか……エリアス……! すげえだろ……俺……!」
彼は痛みすら、エリアスへのアピール材料だと思っていた。
すごいことをすれば、褒めてもらえる。
こんなに凄い熱に耐えれば、また自分を見てもらえる。
「燃えてる……俺、お前のために……燃えてるぞ……! 役に立ってるだろ……? いい子だろ……?」
狂っていた。
英雄的な自己犠牲などではない。
それは、「ママ見て」と叫びながら危険に飛び込んでしまう子供のような、無垢で残酷な自己顕示欲だった。
だが――。
「――あ、づ……」
限界を超えた熱量が、ガウルの脳内麻薬を焼き尽くした。
狂気じみた万能感が、物理的な激痛によって強制的に剥がれ落ちていく。
「痛ぇ……熱……痛い、痛い痛い痛いッ!!」
鉄剣が完全に蒸発し、炎が直接肉を焼く。
思考が白く弾けた。
宝石も、見栄も、エリアスへの執着も、すべてが苦痛の中で消し飛んだ。
やがてシグルドの追撃魔法が魔竜の頭部を直撃し、怪物は軌道を逸らして墜落した。
黒炎が止む。
後に残ったのは、焦げ付いた肉の臭いと、身を焦がす残熱。
そして、遅れてやってきた一つの冷たい事実だけ。
――エリアスはずっと、こんな痛みに耐えていたのか?
地面に崩れ落ちながら、ガウルは思った。
ガウルが魔力を湯水のように使うたび。「俺は無敵だ」と笑って剣を振るうたび。
エリアスは背後で、魔力回路が焼き切れる音を聞きながら、今の自分と同じ激痛を涼しい顔をして耐えていたのか。
「……うそ、だろ……」
ガウルの視界が暗転していく。
もう、かっこつける余裕などなかった。
ただ、あまりの痛みに、そしてその痛みを無言で背負い続けていたエリアスの強さに、魂が震えた。
「ごめん……ごめんな、エリアス……!」
それは、今までの「戻ってこい」という要求ではなかった。
許しを請う言葉ですらなかった。
ただ、自分のあまりの愚かさと、罪の重さに押し潰された男の、懺悔だった。
「俺は、お前の隣に立つ資格なんて……最初から、なかったのか……」
「ガウル!!」
エリアスは杖を放り出し、駆け寄った。
酷い有様だった。
金色の髪は焼け焦げ、皮膚はただれ、服は肌に焼き付いている。あの自慢げに見せびらかしていた宝石類も、熱で溶けて肉に食い込んでいた。
「すぐに治します! 『最高位治癒(ヒール・マキシマ)』!」
エリアスは震える手をかざし、光を溢れさせた。
だが、傷は塞がらない。炭化した皮膚は再生を拒むように黒く張り付き、エリアスの魔力を弾いていく。
「な……なんで、治らないんですか……っ!」
「……さ、わ……るな……」
錯乱するエリアスの手を、黒く炭化したガウルの手が弱々しく押し返した。
ガウルの喉から、ヒューヒューとかすれた音が漏れる。
「シグルドって奴なら……お前を、幸せにできる……。だから、もう……俺のことは、捨ててくれ……」
ガウルはそこで力尽き、ガクリと意識を失った。
エリアスは息を飲んだ。
あのプライドの塊だったガウルが。
自分が世界で一番偉いと信じて疑わなかった男が。
狂気的なまでの執着を見せた果てに、最後には自分の存在そのものを「不要」だと切り捨てた。
胸の奥で、凍りついていた何かが、ピキリと音を立てて砕けた。
「……バカな人」
エリアスの瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
こんな姿を見せられて、見捨てられるわけがない。
聖剣を売り払ってまで自分への貢物を買い、最後には肉の盾となって、子供のように褒め言葉をねだりながら焼かれていった。
その狂気的なまでの「重さ」が、今はどうしようもなく、エリアスの空洞だった心に突き刺さっていた。
「シグルド様!」
エリアスは空から降りてきた公爵に向かって叫んだ。
「彼を……このバカな男を、助けてください! お願いします!」
「……エリアス」
シグルドは、黒焦げになった元勇者を見下ろし、そして複雑そうに眉を寄せた。
彼にもわかったのだろう。
この男が、ただの愚か者から、愛する者のために全てを投げ打つ「男」に変わったことが。
「……最高位のポーションを手配しよう。彼が生き延びられるかは、彼の生命力次第だがね」
◇◇◇
三日後。
王城の病室で、ガウルは目を覚ました。
全身を包帯で巻かれ、身動き一つ取れない状態だ。
「……生きてる、のか?」
掠れた声で呟く。
死ねばよかったのに、と思った。
あれほど無様にエリアスの前で泣き言を漏らして、おめおめと生き残るなんて、恥の上塗りだ。
「目が覚めましたか」
窓際から声がした。
逆光の中に、エリアスが立っていた。
騎士団の軍服ではなく、簡素なシャツ姿で、リンゴを剥いている。
「……エリアス。なんで、ここに」
「看病です。他に誰がやるんですか。リリアさんたちもいないのに」
エリアスは淡々と言い、小さく切ったリンゴをガウルの口元に差し出した。
ガウルは戸惑った。
怒鳴られるか、軽蔑されると思っていた。
「……食えない。俺なんかが、お前の手料理を……」
「ただのリンゴです。魔法も使っていません。……さあ、口を開けてください」
拒否を許さぬ強い口調に押され、ガウルは口を開けた。
甘酸っぱい味が広がる。
それだけで、涙が出そうになった。
「ガウル。あなた、聖剣を売ったそうですね」
「……ああ」
「勇者の資格も剥奪されるでしょう。賠償金も莫大です。あなたはもう、英雄でも何でもない。ただの無一文の無職です」
エリアスの言葉は容赦がなかった。
ガウルは目を伏せた。
「わかってる。……怪我が治ったら、どっかの鉱山で働いて……いや、この体じゃまともに働けねえか……」
ガウルは包帯だらけの自分の体を見て自嘲した。
聖剣もなく、五体満足ですらない。もはや彼に冒険者としての価値などない。
二度とお前の前には現れない、そう言おうとした時だった。
「誰が出ていけと言いました?」
え?
ガウルが顔を上げると、エリアスは呆れたようにため息をついていた。
「シグルド様と話がつきました。あなたの身柄は、私が引き取ります」
「は……? 引き取るって……」
「私の『専属護衛』として雇います。給金は借金の返済に充てますから、手取りはありませんけどね」
エリアスは、包帯だらけのガウルの手に、そっと自分の手を重ねた。
その指には、まだシグルドの指輪がはめられている。だが、エリアスの視線は真っ直ぐにガウルを捉えていた。
「あの時、あなたは私を守りましたね。……勇者としてではなく、ただのガウルとして」
エリアスの手が、ガウルの頬を優しく撫でる。
「魔法も、称号も、聖剣もない。そんなボロボロのあなたになら……私は、もう少しだけ人生を賭けてみてもいいと思いました」
ガウルの心臓が止まりそうだった。
許された?
いや、違う。
新しい契約が提示されたのだ。
「……いいのか? 俺なんかが、そばにいて」
「『そばにいて』ではありません。『そばにいなさい』です」
エリアスは少し意地悪く微笑んだ。
「これからは、私が主人で、あなたが従者です。私の言うことは絶対。ワガママも聞いてもらいますし、夜中の呼び出しにも応じてもらいます。……覚悟はありますか?」
ガウルは震える声で答えた。
それは、世界を救う誓いよりも重く、そして甘美な誓いだった。
「……ああ。俺の命も、魂も、全部お前にやる。お前の犬にでも、足置きにでもなってやる」
ガウルの目には、暗い情熱の炎が灯っていた。
かつての傲慢な光ではない。
主人を崇拝し、主人のためなら喉笛をも食いちぎる、忠実で狂信的な番犬の目。
「一生、離さないでくれ。……エリアス」
その執着に満ちた瞳を見て、エリアスは満足げに頷いたように見えた。
こうして、勇者と魔導師の物語は終わり――狂犬と主人の、歪だが幸福な共依存生活が幕を開けた。
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