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2、犬との出会い
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十一歳になったノエルはその日の夕方、最近咲いたばかりの珍しい黄金リコリスの様子を見るために、屋敷の裏庭へ向かっていた。昨日から、今日の午後まで嵐が続き、せっかく咲いた十年花が皆ダメになっているのではないかと心配したからだ。
真っ黒の雲には切れ間が見えて、ようやく風もやんできた頃である。
リコリスは無事だったが、それより庭の隅っこに何かが丸まっているのを見つけて、関心はそちらに移った。
何だろうと近づいてみると、全身泥まみれの小さな人間だった。どうも子供らしいが、とにかくドロドロで何がどうなっているのかわからず、酷い有様である。嵐に巻き込まれたのだろうか。行くあてのない孤児が、敷地内に迷い込んだのだろうか?
「どうした。大丈夫か?」
体を揺すってみると、生きている。誰かを呼んで来ようとしたノエルだったが、服を引っ張られた。
「すぐに出て行く……。誰にも言わないで……。奴らに見つかってしまったら、私は……」
子供は怯えきっていて、何者かを恐れるように縮こまりながら周囲を見回している。ふむ、よくわからないがワケアリらしいな、とノエルは悩んだ。
この子は自分がここにいることを知られたくないらしいが、こんな状態で放り出すわけにはいかない。そこでノエルは妙案を思いついた。
「じゃあ、私の部屋に行こう。お前を犬ということにして匿うんだ。それならいいだろう? 臆病な犬だから誰にも会わせない。これならバレないぞ」
「で、でも……」
一応ノエルはその子供に、家は? 親は? と質問してみたが、黙って首を横に振るだけである。真っ黒に汚れた頬には涙の筋があって、何とも哀れであった。
その子の手を引いて、誰にも見つからないよう自分の部屋へと駆け込む。
拾った犬が汚れているから洗いたい、湯を沸かして浴槽に運んでほしいと使用人に伝えているところで、父親に見つかった。
「ノエル。犬を飼ってはいけないと言っているはずだぞ」
とにかく息子に甘い男爵だったが、彼は亡き妻の遺言で、犬を飼わないでほしいと伝えられていてそれを守り続けているのだった。
「野良犬です、父上。この嵐で酷い状態になっていたんです。一時的に面倒を見てやって、後は外に放しますから。これなら飼っているとは言えないでしょう? 保護ですよ、保護」
そうしてどうにか父を説き伏せたノエルは、浴室に子供を連れて行って、問答無用で裸にした。犬が怯えるので誰も入って来ないよう厳命しているが、誰かに覗かれないとも限らないから、さっさと洗ってしまわないとならない。女の子のようだから申し訳ないが、一刻を争うのである。
首から、金の指輪を通した鎖をさげている。身なりに似合わず高級そうだが、形見だろうか。しかしそれよりも、ノエルはある事実に注目した。
「あれ? お前、男じゃないか」
裸にすれば性別は明らかである。痩せた体の少年は恥じらうように腕を体に巻きつけていたが、同性とわかれば遠慮がなくなってノエルはせっせと彼を洗い始めた。
「待って、待って……」
「喋るなよ、お前は犬なんだぞ。何か言いたければ、ワンとかくーんとかで済ますんだな。待て、傷だらけじゃないか……。手当ても必要だな」
少年が着ていたボロ布同然の服は脇に抱え、彼の全身に布をかけて隠して四つん這いで廊下を歩かせた。
再び部屋に戻ると少年を手当てして、やっと一息ついたのだった。
それからノエルは少年を部屋から出さず、何日も世話をし続けた。使用人達に「犬がいる」と思いこませるため、「おすわり! お手!」と芸を仕込んでいるふりをして声をあげる。
少年はおろおろしながらも、律儀に付き合って座ったり、お手をしていた。
(ああ、本当に犬みたいじゃないか。いいなぁ、私はずっと犬が飼いたかったんだ)
ノエルは甘やかされすぎて育っているため、多少傲慢なところがあった。人間を犬扱いする無礼さに考えは至らない。少年が怒らないものだから、調子に乗ってどんどん犬として接し、少年の方もそれに従っていた。
「腹を上に向けて寝てみろ」
「こうですか……?」
ノエルの古着のぶかぶかのシャツを着た少年は、床の上でひっくり返る。ノエルは少年の腹に顔を押し当てた。犬と違って被毛はないが、動物の腹にはこうするものだと思っているノエルはやってみたくて仕方がない。
「薄い腹だな。もっと食べなくちゃいけないぞ!」
少年は何故か顔を真っ赤にしていたが、どういう意味かはわからなかった。
一度少年が「ノエル様は、本当に綺麗なお顔をしていらっしゃいますね」と褒めてきたことがある。ノエルは領民や使用人から容姿を褒めちぎられて育ってきたため、そういった賛辞は聞き慣れていた。
「そうだろう。私はロマリス国一の美少年なのさ」
ノエルは「野良犬」の少年を保護している間は部屋に誰も立ち入らせず、部屋の掃除も自分でこなした。犬扱いとは言え犬食いさせるのはさすがにやり過ぎと思ったので、少年用のスプーンを用意してそれで食事はさせていた。
犬を飼ったら是非ともやってみたかったのが、一緒に寝ることである。
ノエルは床で寝ようとする少年を、寝台に引っ張り込んだ。
「私は犬なので……、床で寝ますから……」
最初は床に敷いた布の上で寝ていたのだ。警戒しているせいだと思っていたのだが、そうではく、どうも遠慮していたらしい。
「床は冷えるだろうが。いいから、一緒に寝よう」
向かい合って寝ると、少年はやたらと目を泳がせていた。保護してから一ヵ月経って、やっと傷の具合も良くなってきている。彼の服をめくりあげて傷の様子を確認したノエルは、前から気になっていたことを尋ねてみた。
「なあ、お前はどこから来たんだ? やっぱり、教えてくれないのか?」
問われた少年は、悲しげな顔をして視線をそらせた。いつも部屋の隅で丸まっているし、窓の外をやたらと気にしているので、余程怖い目に遭ったのだろう。時々泣きそうになりながら膝を抱えているのも気になる。
「……わかった、もう聞かないよ。嫌なことは思い出さなくていい」
ノエルは少年の額に唇を押し当てた。驚いている少年に、ノエルは言う。
「父上がよく、私の頭にこうして口づけしてくれるんだ。愛してるよっていう意味だ。こうされると、気持ちが少し落ち着くだろう?」
少年は目をうるませながらノエルを見ていたが、ふと顔を動かした。唇を、ノエルの唇に触れさせる。ノエルが驚いて目を見開くと、少年はうろたえた。
「あ、ご、ごめんなさい。つい……」
「いや、いいさ。お前は犬だものな。犬がご主人様の口に触れるのは普通だ」
領民が犬と戯れているところをよく見ているから知っている。懐いている犬は、人の顔をべろべろ舐めるのだ。
ノエルは少年に腕と足を絡ませて、しっかりと抱きついた。
「ノ、ノ、ノエル様……っ?!」
「あったかいなぁ、お前は。よしよし、いい子だ」
硬直している少年の頭をわしわしとなで回し、ノエルは可愛がる。犬との理想の生活である。正確には全く犬ではないのだが、「犬の温もりを感じながら寝る」という夢が叶って嬉しかった。
以降、ノエルはこれを気に入って、毎日少年と共に寝た。少年もどんどん大胆になってきて抱きついてきたり、唇で顔に触れてきたりしていたが、ノエルは何も疑問に思わなかった。何故ならこの少年は、ノエルにとって犬だからだ。
ずっと室内にいては体に悪かろうと思って、二人でこっそり外出した日もある。その日夕暮れの野原を散歩しながら、少年は思い詰めたようにノエルに声をかけた。
「あの……その、私の、名前ですが……私の、名前は……レオ……」
「レオというのか! そうか。教えてくれてありがとう!」
ノエルは大喜びでレオ少年の手を握った。名前を教えてくれるということは、信用してくれた証だろう。この犬は大分自分に懐いてきたようだ。しかし野良犬だし、いつかは手放さなければならないのが惜しい。
「レオ、お座り!」
指示すると、レオはきちんと従って腰を落とした。
「お手!」
ノエルの目を見つめながら、レオはお手もする。
「次はごろんだ、ごろん」
仰向けに寝転んだレオの腹に顔を埋めて、ノエルは笑い声をあげた。レオも幸せそうに微笑んでいる。
「お前は私の自慢の犬だよ、レオ」
「ありがとうございます。私も、ずっと、あなたの犬でいたい……」
そう呟いたレオだったがしかし、ノエルに拾われて二ヵ月目の朝、ミラリア男爵邸から忽然と姿を消し、それきり姿を見ることはなかったのだった。
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