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ザキーラ家の馬車に戻るとエレノアは仰向けに寝かされていた。その額と頬が擦り切れて血が滲んでいる。馬車の脇に転がされた捕縛済みの不審者二名をしっかり目に焼き付けて、もう一度彼女を見下ろした。
もっと早く察してやれればこんなことにはならなかっただろうに。
「じきに支部の応援がやって来る。弟の方を頼む」
顔に擦り傷を負った彼らはマグラに礼を述べると扉の前に立ち、車内のアデルに声を掛け始めた。その向こうでは馬車に背中を預けて座り込んだ御者が布で鼻血を拭っている。大事はなさそうだ。
乗馬服の細い身体をそっと抱き上げて近くの壁際まで連れて行く。極力頭を動かさないよう、腰を下ろして痛々しい顔を見続けているうちに複数の足音が迫ってくる。ルークを筆頭とした仲間たちのものだ。
広場に姿を現した彼らは素早く周囲を観察し、まっすぐマグラの元にやってきた。腕の中にいるエレノアを見下ろす団員たちは痛ましい表情を浮かべる。
「マグラ、詳しく教えてくれ」
「エレノアと護衛、御者が襲われた。弟ごと馬車を盗むつもりだったらしい。そこに転がってる二人が実行犯で、あっちに護衛を襲って逃走した二人を捕縄してある。それと、あれだ」
順々に指差し、最後に荷馬車を示す。
「逃げた奴らが気にしていた。荷台に二名乗ってる。聴取しようとしたら一人が逃げる素振りを見せて、もう一人は荷物を投げて抵抗したから意識だけ奪っておいた」
それぞれが頷くと瞬時に散開する。実行犯を連行する者、逃走犯の元へ走る者、アデルの無事を確かめる者、荷馬車へ歩を進める者。そんな中、ルークはまだマグラの元に留まったままだ。
「誘拐事件の線が濃いか?」
「誘拐にしては下手過ぎる。荷馬車の奴らが仲間だとしたら、弟を荷馬車に放り込んで逃げた方が早い」
「確かにな。あの大きさの荷馬車なら管理簿に登録してあるかもしれん。照会を――」
「おいルーク、来てくれ!」
脇から声が掛かる。マグラに軽く手を挙げてルークが向かった先は荷馬車の側、中身を撒き散らかした袋を検分している団員の元だ。同じように屈み込んだルークは転がる品々をしばらく見つめ、そして叫んだ。
「誰か支部長に伝達を!」
即座に一名の団員が走り去り、ルークがこちらに戻ってくる。
「弟くんの安全確保と御者の治療でここを離れるがお前はどうする?」
「エレノアが目覚めるまでここにいる」
「わかった。治療院の医師に話を通しておくから必要なら呼んでくれ」
ルークに連れられて馬車を降りたアデルの表情は強張っている。そんな彼に傷が見えないよう、エレノアの頭を優しく抱え込む。「姉さま」と唇が動いたので「大丈夫だ」と声を掛けてやった。忌まわしき匂いの持ち主だが似たもの姉弟のあの顔にはどうも弱い。
現場検証を行う団員と護衛の立てる物音だけが広場に響くようになった。抱き込んだ頭の持ち主はまだ目を覚まさない。徐々に滲んだ血が固まり始める気配だ。
(よくもこんな痕を……綺麗にしてやらないと)
歯ぎしりしたい気持ちをグッと飲み込んで、頬の傷にそっと舌を這わせてみた。
閉じたままの瞼がピクリを反応を見せる。目覚めが近いのかもしれない。
「痛いの……」
舐め続けていると、いよいよエレノアが譫言のように声を発した。動かす舌に益々力が籠もる。
「いや、痛い……」
「エレノア、エレノア」
事件のことを夢に見ているのだろうか。下から上へとエレノアの頬に舌を往復させている合間に名前を呼んで安心させてやる。もにょもにょとはっきりしない声で呟く彼女の腕がふいにゆるゆると持ち上がった。そうしてマグラの髪の間から覗く三角の耳をするりと握る。
「!!」
奇声は踏み止まれたが、臀部の尻尾がピンと天に伸びているのが見なくてもわかる。こんな形とは言え、彼女に触れてもらえる日が来るとは。
もう一度「エレノア」と囁いて舌を押し付けると、左右に首を揺らした彼女が「止めて!」と叫んで覚醒した。
「え、マグラさん?」
「エレノア」
ようやく覗かせた深海を思わせる瞳にはマグラの顔だけが映り込んでいる。意識も明瞭なようで心底ホッとした。しかし不自然なほどに身体に強張りを感じたので、見えない場所に怪我を負っているのかもしれない。
「傷が痛む?」
「傷? あの、さっきから頬が痛くて」
「可哀想に。擦り傷が出来てる」
やはり頬が痛いのか。柔肌にまたうっすらと滲んできた血を再び舐め取ってやった。
「えっ、ちょ、ちょっと。ど、どうして舐めていらっしゃるのでしょう」
「消毒しなくちゃいけない」
「消毒……消毒?」
ぼんやりと考え事をするようにエレノアが視線を彷徨わせたとき、頭部の耳が音を拾った。
「荷馬車の二人の意識が回復した。襲撃事件の仲間だと認めたから捕縛して連行だ」
「荷物はこちらで回収しますか?」
「ああ、詰所に運んでくれ。関係者も召集する」
少なくともこの件に関しては片が付いたということだ。
耳の毛の流れに沿うようにするりとエレノアの指が離れていくのを感じ、咄嗟に尻尾を巻き付けてその腕を引き止めた。
「マグラさん、もしかして……?」
尻尾と耳とを青い視線が行き交う。そして最後にマグラの顔を見つめた。
「猫、の獣人、ですか?」
「そうだ」
ポカンと開いた唇も零れ落ちそうに見開かれた瞳も、彼女が無事な何よりの証だ。嬉しいので額も舐めておく。
「大丈夫だ。弟も使用人も無事だし、今しがた犯人は一人残らず捕縛が終わった」
マグラに告げられ意識を切り替えたエレノアは周囲を見渡すと頬を真っ赤に染め上げた。置かれている現状が恥ずかしいのか、隠すようにマグラの胸に頭を傾ける仕草に周囲の団員への優越感が満たされる。肝心の彼らが見ないように努めていることにマグラは気付かなかったが。
その後、手近な団員に言付けて医師を呼んでもらう。額と頬の傷に治療をしてもらい、頭部へのダメージも問題ないことがわかると、弟の待つ治療院へ向かうことにした。その際、抱き上げていくと提案したマグラの案は、仲間の計らいにより手配されていた馬車によって脆くも打ち壊された。
もっと早く察してやれればこんなことにはならなかっただろうに。
「じきに支部の応援がやって来る。弟の方を頼む」
顔に擦り傷を負った彼らはマグラに礼を述べると扉の前に立ち、車内のアデルに声を掛け始めた。その向こうでは馬車に背中を預けて座り込んだ御者が布で鼻血を拭っている。大事はなさそうだ。
乗馬服の細い身体をそっと抱き上げて近くの壁際まで連れて行く。極力頭を動かさないよう、腰を下ろして痛々しい顔を見続けているうちに複数の足音が迫ってくる。ルークを筆頭とした仲間たちのものだ。
広場に姿を現した彼らは素早く周囲を観察し、まっすぐマグラの元にやってきた。腕の中にいるエレノアを見下ろす団員たちは痛ましい表情を浮かべる。
「マグラ、詳しく教えてくれ」
「エレノアと護衛、御者が襲われた。弟ごと馬車を盗むつもりだったらしい。そこに転がってる二人が実行犯で、あっちに護衛を襲って逃走した二人を捕縄してある。それと、あれだ」
順々に指差し、最後に荷馬車を示す。
「逃げた奴らが気にしていた。荷台に二名乗ってる。聴取しようとしたら一人が逃げる素振りを見せて、もう一人は荷物を投げて抵抗したから意識だけ奪っておいた」
それぞれが頷くと瞬時に散開する。実行犯を連行する者、逃走犯の元へ走る者、アデルの無事を確かめる者、荷馬車へ歩を進める者。そんな中、ルークはまだマグラの元に留まったままだ。
「誘拐事件の線が濃いか?」
「誘拐にしては下手過ぎる。荷馬車の奴らが仲間だとしたら、弟を荷馬車に放り込んで逃げた方が早い」
「確かにな。あの大きさの荷馬車なら管理簿に登録してあるかもしれん。照会を――」
「おいルーク、来てくれ!」
脇から声が掛かる。マグラに軽く手を挙げてルークが向かった先は荷馬車の側、中身を撒き散らかした袋を検分している団員の元だ。同じように屈み込んだルークは転がる品々をしばらく見つめ、そして叫んだ。
「誰か支部長に伝達を!」
即座に一名の団員が走り去り、ルークがこちらに戻ってくる。
「弟くんの安全確保と御者の治療でここを離れるがお前はどうする?」
「エレノアが目覚めるまでここにいる」
「わかった。治療院の医師に話を通しておくから必要なら呼んでくれ」
ルークに連れられて馬車を降りたアデルの表情は強張っている。そんな彼に傷が見えないよう、エレノアの頭を優しく抱え込む。「姉さま」と唇が動いたので「大丈夫だ」と声を掛けてやった。忌まわしき匂いの持ち主だが似たもの姉弟のあの顔にはどうも弱い。
現場検証を行う団員と護衛の立てる物音だけが広場に響くようになった。抱き込んだ頭の持ち主はまだ目を覚まさない。徐々に滲んだ血が固まり始める気配だ。
(よくもこんな痕を……綺麗にしてやらないと)
歯ぎしりしたい気持ちをグッと飲み込んで、頬の傷にそっと舌を這わせてみた。
閉じたままの瞼がピクリを反応を見せる。目覚めが近いのかもしれない。
「痛いの……」
舐め続けていると、いよいよエレノアが譫言のように声を発した。動かす舌に益々力が籠もる。
「いや、痛い……」
「エレノア、エレノア」
事件のことを夢に見ているのだろうか。下から上へとエレノアの頬に舌を往復させている合間に名前を呼んで安心させてやる。もにょもにょとはっきりしない声で呟く彼女の腕がふいにゆるゆると持ち上がった。そうしてマグラの髪の間から覗く三角の耳をするりと握る。
「!!」
奇声は踏み止まれたが、臀部の尻尾がピンと天に伸びているのが見なくてもわかる。こんな形とは言え、彼女に触れてもらえる日が来るとは。
もう一度「エレノア」と囁いて舌を押し付けると、左右に首を揺らした彼女が「止めて!」と叫んで覚醒した。
「え、マグラさん?」
「エレノア」
ようやく覗かせた深海を思わせる瞳にはマグラの顔だけが映り込んでいる。意識も明瞭なようで心底ホッとした。しかし不自然なほどに身体に強張りを感じたので、見えない場所に怪我を負っているのかもしれない。
「傷が痛む?」
「傷? あの、さっきから頬が痛くて」
「可哀想に。擦り傷が出来てる」
やはり頬が痛いのか。柔肌にまたうっすらと滲んできた血を再び舐め取ってやった。
「えっ、ちょ、ちょっと。ど、どうして舐めていらっしゃるのでしょう」
「消毒しなくちゃいけない」
「消毒……消毒?」
ぼんやりと考え事をするようにエレノアが視線を彷徨わせたとき、頭部の耳が音を拾った。
「荷馬車の二人の意識が回復した。襲撃事件の仲間だと認めたから捕縛して連行だ」
「荷物はこちらで回収しますか?」
「ああ、詰所に運んでくれ。関係者も召集する」
少なくともこの件に関しては片が付いたということだ。
耳の毛の流れに沿うようにするりとエレノアの指が離れていくのを感じ、咄嗟に尻尾を巻き付けてその腕を引き止めた。
「マグラさん、もしかして……?」
尻尾と耳とを青い視線が行き交う。そして最後にマグラの顔を見つめた。
「猫、の獣人、ですか?」
「そうだ」
ポカンと開いた唇も零れ落ちそうに見開かれた瞳も、彼女が無事な何よりの証だ。嬉しいので額も舐めておく。
「大丈夫だ。弟も使用人も無事だし、今しがた犯人は一人残らず捕縛が終わった」
マグラに告げられ意識を切り替えたエレノアは周囲を見渡すと頬を真っ赤に染め上げた。置かれている現状が恥ずかしいのか、隠すようにマグラの胸に頭を傾ける仕草に周囲の団員への優越感が満たされる。肝心の彼らが見ないように努めていることにマグラは気付かなかったが。
その後、手近な団員に言付けて医師を呼んでもらう。額と頬の傷に治療をしてもらい、頭部へのダメージも問題ないことがわかると、弟の待つ治療院へ向かうことにした。その際、抱き上げていくと提案したマグラの案は、仲間の計らいにより手配されていた馬車によって脆くも打ち壊された。
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