8 / 12
第8話 守るべきものは、もう残っていなかった
しおりを挟む王太子アルフォンスは、その夜、一睡もできなかった。
天蓋付きの寝台に横たわりながら、天井の装飾を見つめ続けている。
目を閉じれば、昼間の光景が鮮明に蘇った。
淡い光。
癒えない傷。
記録官の、淡々とした声。
――治癒速度、従来報告の六割以下。
「……馬鹿な」
呟きは、虚しく空気に溶ける。
あれは、偶然だ。
体調不良だったのだろう。
緊張して、本来の力が出なかっただけだ。
そう思おうとすればするほど、心の奥で、別の声が囁く。
――本当に、そうか?
アルフォンスは、身体を起こした。
机の上には、書類が積まれている。
再検証の暫定報告。
過去の聖女記録との照合資料。
どれも、重い。
「……なぜ、今になって」
答えは、分かっている。
婚約破棄。
リリアーナ・フォン・エルヴェイン。
彼女を切り捨てた、その瞬間から――
歯車は、逆回転を始めた。
*
翌朝。
王太子執務室には、重苦しい空気が漂っていた。
「殿下」
神殿代表が、深々と頭を下げる。
「聖女マリエルに関する件……神殿としても、見解をまとめねばなりません」
その言葉は、柔らかい。
だが、意味するところは一つ。
――守りきれない。
「……まだ、結論は出ていない」
アルフォンスは、低く答えた。
「正式な報告は――」
「もちろんです」
神殿代表は、にこやかに微笑む。
「ですが……王国の“象徴”に疑念が生じたままでは、信徒たちが不安に陥ります」
象徴。
その言葉が、胸に刺さる。
聖女は、信仰の柱だ。
そして王太子は――
その聖女を“選んだ存在”。
切り離せば、無傷では済まない。
だが、抱え続ければ――
もっと深く、沈む。
「……少し、考えさせてくれ」
アルフォンスは、そう言うしかなかった。
*
「殿下……」
午後。
執務室を訪れたのは、マリエルだった。
白い衣。
憔悴した顔。
かつて“慈愛”と呼ばれた微笑みは、影を帯びている。
「……どうして、呼ばれたのかしら」
不安を隠しきれない声。
アルフォンスは、彼女を見つめた。
――この女のために、自分は、何を失った?
「……再検証の結果は、聞いているな」
「……はい」
マリエルは、俯いた。
「でも……私は……」
「“奇跡”は、起きなかった」
遮るように、言う。
冷たい声だった。
「以前のようには」
マリエルの肩が、震える。
「……殿下」
縋るような視線。
「私は……あなたのために……」
その言葉を聞いた瞬間。
アルフォンスの脳裏に、別の声が浮かんだ。
『どうか、お幸せに』
あの日。
断罪の場で、リリアーナが残した言葉。
怒りも、涙もなく。
ただ――距離を置くような、静かな声。
「……マリエル」
アルフォンスは、重く口を開いた。
「一つ、聞く」
「……はい」
「お前は……本当に、すべての癒やしを、自分一人で行ったのか?」
空気が、凍りついた。
「……それは……」
マリエルの視線が、泳ぐ。
「……補助は……ありました……でも……」
「誰の?」
沈黙。
それは、答えだった。
アルフォンスは、ゆっくりと目を閉じる。
――ああ。
自分は、最初から、見ないようにしていただけだ。
*
その夜。
王太子は、兄弟のいない静かな回廊を歩いていた。
目指すのは――
国王の執務室。
「……入れ」
父王の声。
扉を開くと、そこには――
すでに、監察官と重臣が揃っていた。
「アルフォンス」
国王は、静かに言う。
「選べ」
それだけ。
説明は、なかった。
だが、選択肢は明白だった。
一つ。
聖女マリエルを守り、王太子としての信頼を失う道。
一つ。
聖女を切り捨て、すべてを“誤りだった”と認める道。
アルフォンスは、拳を握りしめる。
思い出すのは――
いつも自分を信じていた少女の背中。
守れなかった。
いや――守らなかった。
「……私は」
声が、かすれる。
「王太子として……王国の安定を、最優先します」
沈黙。
それは――
“切る”という選択だった。
国王は、短く頷く。
「よかろう」
それだけで、すべてが決まった。
*
翌日。
マリエルは、神殿からの正式な通達を受け取った。
――聖女位、一時停止。
――調査終了まで、公の場への露出を禁ずる。
「……そんな……」
紙が、指先から滑り落ちる。
守られるはずだった。
選ばれたはずだった。
なのに。
*
一方。
私は、屋敷の庭で、静かに花を見ていた。
「……風向きが、変わりました」
ユリウス兄様が、そう告げる。
「え……?」
「王太子は、切った」
短い言葉。
でも、その意味は――
あまりにも重い。
「……そう、ですか」
それだけ言って、私は俯いた。
勝った、という気持ちはない。
ただ――
戻れない場所が、確かに増えただけだ。
「リリアーナ」
アルベルト兄様の声。
「次は……お前が、呼ばれる」
胸が、静かに鳴る。
裁きは、もう“準備”ではない。
王太子は、選んだ。
守るべきものを、切り捨てるという形で。
そして次に問われるのは――
誰が、真実を語るのか。
19
あなたにおすすめの小説
ヒロインの味方のモブ令嬢は、ヒロインを見捨てる
mios
恋愛
ヒロインの味方をずっとしておりました。前世の推しであり、やっと出会えたのですから。でもね、ちょっとゲームと雰囲気が違います。
どうやらヒロインに利用されていただけのようです。婚約者?熨斗つけてお渡ししますわ。
金の切れ目は縁の切れ目。私、鞍替え致します。
ヒロインの味方のモブ令嬢が、ヒロインにいいように利用されて、悪役令嬢に助けを求めたら、幸せが待っていた話。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
わたしはくじ引きで選ばれたにすぎない婚約者だったらしい
よーこ
恋愛
特に美しくもなく、賢くもなく、家柄はそこそこでしかない伯爵令嬢リリアーナは、婚約後六年経ったある日、婚約者である大好きな第二王子に自分が未来の王子妃として選ばれた理由を尋ねてみた。
王子の答えはこうだった。
「くじで引いた紙にリリアーナの名前が書かれていたから」
え、わたし、そんな取るに足らない存在でしかなかったの?!
思い出してみれば、今まで王子に「好きだ」みたいなことを言われたことがない。
ショックを受けたリリアーナは……。
悪役令嬢の慟哭
浜柔
ファンタジー
前世の記憶を取り戻した侯爵令嬢エカテリーナ・ハイデルフトは自分の住む世界が乙女ゲームそっくりの世界であり、自らはそのゲームで悪役の位置づけになっている事に気付くが、時既に遅く、死の運命には逆らえなかった。
だが、死して尚彷徨うエカテリーナの復讐はこれから始まる。
※ここまでのあらすじは序章の内容に当たります。
※乙女ゲームのバッドエンド後の話になりますので、ゲーム内容については殆ど作中に出てきません。
「悪役令嬢の追憶」及び「悪役令嬢の徘徊」を若干の手直しをして統合しています。
「追憶」「徘徊」「慟哭」はそれぞれ雰囲気が異なります。
「可愛げがない」と婚約破棄された公爵令嬢ですが、領地経営をしていたのは私です
希羽
恋愛
「お前のような可愛げのない女との婚約は破棄する!」
卒業パーティの会場で、婚約者である第二王子デリックはそう宣言し、私の義妹ミナを抱き寄せました。 誰もが私が泣き崩れると思いましたが――正直、せいせいしました。 だって、王子の領地経営、借金返済、結界維持、それら全ての激務を一人でこなしていたのは「可愛げのない」私だったのですから。
「承知しました。では、あとはミナと二人で頑張ってください」
私は手切れ金代わりに面倒な仕事を全て置いて国を出ました。 すると、国境で待っていたのは、隣国ガルガディア帝国の冷徹皇太子ことクライド様。なぜか彼は私を溺愛し、帝国で最高の地位と環境を与えてくれて……。
この度、皆さんの予想通り婚約者候補から外れることになりました。ですが、すぐに結婚することになりました。
鶯埜 餡
恋愛
ある事件のせいでいろいろ言われながらも国王夫妻の働きかけで王太子の婚約者候補となったシャルロッテ。
しかし当の王太子ルドウィックはアリアナという男爵令嬢にべったり。噂好きな貴族たちはシャルロッテに婚約者候補から外れるのではないかと言っていたが
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる