『後宮薬師は名を持たない』

由香

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第一章:後宮に棲む毒

第2話 あやかしの診立て

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 翌朝、後宮は何事もなかったかのように目を覚ました。

 皇妃・静華が倒れた夜の騒ぎは、まだ薄闇のうちに封じられ、女官たちは噂話ひとつ漏らさぬよう口を噤んでいる。後宮とはそういう場所だ。
 事件は起きても、起きなかったことになる。

 蘇玉玲は、薬庫の一角で薬草を刻みながら、鼻先をかすめる匂いに神経を研ぎ澄ませていた。

(……まだ、残っている)

 微かだが、確かに。
 昨夜嗅いだ、あの苦く鉄臭い香の余韻が、空気の底に沈んでいる。

 後宮全体が、ひとつの巨大な香炉のようだ――そう思うことがある。
 焚かれ、混ざり、残り続ける匂いは、嘘や恐怖と同じで、完全には消えない。

「玉玲」

 名を呼ばれ、顔を上げる。

 年若い女官が立っていた。下級妃付きの者だが、今日はどこか落ち着かない。

「静華さまのご容態、少し落ち着かれたそうです」

「……そう」

 胸の奥で、かすかな安堵が広がる。

 助かる――玄曜はそう言った。
 その言葉が本当だったことに、玉玲はほっとしていた。

「ただ……」

 女官は声を潜める。

「香を替えたのに、またおかしなことが起きているのです。香炉が……夜になると、鳴くと」

 玉玲の手が止まった。

「鳴く?」

「ええ。獣のような、子どものような……誰も姿は見ていません。でも、確かに音がする、と」

(あやかし……)

 昨夜の影が、脳裏によみがえる。

 女官は言い淀み、周囲を気にしながら続けた。

「宦官殿が……玉玲を呼べと」

 玄曜。

 名を聞くだけで、胸の奥がひやりとする。
 忘れろ、と言われたはずなのに――忘れられるわけがなかった。

 玉玲は小さく頷き、薬箱を抱えた。



 静華の寝殿は、昼間でも薄暗かった。

 香を焚くのを禁じられたため、空気は澄んでいるはずなのに、どこか重い。
 玉玲は一歩足を踏み入れただけで、違和感を覚えた。

(……音)

 確かに、聞こえる。

 耳ではなく、鼻の奥で。
 匂いが、鳴いている。

「来たか」

 柱の陰から、玄曜が姿を現した。

 相変わらず黒衣。
 無駄のない所作で近づいてくる姿は、宦官というより、武人に近い。

「香炉だ」

 示された先には、新しく置かれた白磁の香炉があった。
 蓋は閉じられ、香は焚かれていない。

 ――それなのに。

 玉玲は、ぞくりとした。

「……中に、何かいます」

「分かるか」

「はい」

 香炉に近づくほど、匂いは強くなる。
 昨夜のものとは違う。より幼く、未熟で、しかし確かに悪意を孕んだ気配。

 玉玲は香炉の前に膝をついた。

「これは……香そのものではありません。香を“巣”にして生まれた、小さなあやかしです」

「生まれた?」

「長く同じ香を焚き続けると、思念が溜まります。恐れ、嫉妬、祈り……それらが形を持つことがある」

 後宮では、特に。

 玉玲はそっと蓋に手を伸ばしかけ、止めた。

「開けると、暴れます」

「では、どうする」

 玄曜の問いに、玉玲は一瞬、迷った。

「……薬で、眠らせます」

「祓わないのか」

「祓えば消えます。でも――」

 玉玲は、香炉に向かって静かに言った。

「このあやかしは、まだ“害”を為していません。ただ、ここに居たいだけです」

 玄曜は、玉玲をじっと見つめた。

 その視線に、値踏みするような冷たさはない。
 あるのは、純粋な興味――いや、もっと深い何かだった。

「お前は、あやかしを憐れむのか」

「……分かりません」

 正直な答えだった。

「ただ、薬師として……無駄に殺す必要はないと、教えられました」

 母の声が、胸の奥で響く。

 ――治せぬものを殺すのが、薬師の役目ではない。

 玉玲は調合した香包を取り出し、香炉の傍に置いた。
 甘く、柔らかな匂いが広がる。

 やがて。

 ――くぅ。

 確かに、何かが眠りにつく音がした。

「……鳴き止んだな」

「はい。今夜には消えます」

 玄曜はしばらく香炉を見つめ、やがてぽつりと呟いた。

「優しい薬師だ」

 その言葉に、玉玲は顔を上げた。

「だが、後宮では……」

 玄曜は視線を逸らす。

「優しさは、毒になる」

 玉玲の胸が、きしんだ。

 彼自身が、その毒に侵されているように見えたからだ。

「宦官殿」

「玄曜だ」

「……玄曜様」

 呼び直すと、彼の眉がわずかに動いた。

「昨夜、香炉の影を……どうなさいましたか」

 一歩、踏み込んだ問い。
 命を縮めかねない一言。

 玄曜はしばらく沈黙し、やがて低く答えた。

「喰った」

 淡々とした声音。

「俺の役目だ」

 それ以上、説明はなかった。

 玉玲は、それ以上問わなかった。
 問えば、戻れなくなると直感したからだ。

 だが――

 玄曜が去り際に、ふと足を止める。

「……お前」

「はい」

「俺の近くにいると、危ない」

 そう言って、振り返らずに歩き去った。

 残された玉玲は、香炉の前でしばらく動けなかった。

 危ないのは、彼なのか。
 それとも――彼に惹かれ始めている、自分なのか。

 その夜。

 玉玲は再び夢を見た。

 鬼の角を持つ男が、血に濡れた香炉の前に立っている。

『優しいな、薬師』

 夢の中で、彼は初めて笑った。

 それが、なぜかとても――哀しかった。




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