『後宮薬師は名を持たない』

由香

文字の大きさ
6 / 13
第二章:香と血の後宮

第6話 宦官の仮面

しおりを挟む

 後宮では、宦官の過去を問うてはならない。

 彼らは名を捨て、血を断ち、個を削がれた存在だ。
 過去を持たぬ者として扱われる。

 だが――玄曜の過去は、最初から隠されていた。



 毒壺の一件から、数日が経った。

 後宮は不気味なほど静かで、香の匂いも薄い。
 嵐の前触れのような静けさだった。

 玉玲は薬庫で帳簿を整理していたが、集中できずにいた。

(……呼ばれる)

 理由は分からない。
 だが、確信だけがあった。

 その予感は、日暮れとともに現実になる。

「玉玲」

 薬庫の戸口に立つ、黒衣の影。

「玄曜様……?」

「来い」

 短い命令。
 だが、そこに拒絶はなかった。



 連れて行かれたのは、後宮の最奥――立ち入りを禁じられた旧殿だった。

 人の気配はなく、香も焚かれていない。
 空気は澄んでいるが、どこか冷たい。

「……ここは」

「昔の“処理場”だ」

 玄曜の声は、淡々としていた。

「あやかしが暴れ、人が死に、記録に残せないものを――消す場所」

 玉玲の胸が、きしむ。

「俺は、ここで育った」

 初めて、彼は自分のことを語った。



 殿の中央には、何もない。

 ただ、床に刻まれた無数の傷と、消えない染み。

「……宦官では、ないのですね」

 玉玲は、ずっと胸にあった疑問を口にした。

「身体は、そう作られた」

 玄曜は、静かに答える。

「だが……完全ではない」

 その言葉の意味を、玉玲は理解した。

 彼は、“去勢された宦官”ではない。
 そう扱われるために、造られた存在。

「鬼神の血が混じれば、子は残らない。欲も、情も、抑えられる」

「……失敗作だ」

 自嘲にも似た声。

「俺は、残りすぎた」

 感情も。
 記憶も。
 ――そして、欲も。



 玉玲は、そっと一歩近づいた。

「だから……喰い続けているのですね」

「ああ」

 玄曜は、壁に手をつく。

「喰えば、静かになる。考えずに済む。……人でなくなれる」

 月光が、彼の横顔を照らす。

 その影に、一瞬――角が揺れた。

「だが」

 玄曜は、低く言った。

「お前がいると……戻る」

 玉玲の喉が、鳴る。

「人に、ですか」

「……ああ」

 短い肯定。



 沈黙が落ちる。

 破れば、何かが壊れる。
 だが、破らねば、先へ進めない。

 玉玲は、意を決した。

「玄曜様」

「……何だ」

「もし」

 声が、わずかに震える。

「もし、あなたが“役目”を終えたら……どうなさるのですか」

 問いは、刃だった。

 玄曜は、すぐには答えなかった。

「……終わらない」

「それは」

「俺が、そう作られた」

 断定。

 だが、その声音の奥に――疲労が滲んでいた。



 玉玲は、胸元の香包を取り出した。

「これは、私の薬です」

 玄曜が、ちらりと見る。

「眠りを深くするだけの、弱いものですが……」

 玉玲は、そっと差し出した。

「今夜は、喰わないでください」

 一瞬、時間が止まる。

「……命令か」

「お願い、です」

 玄曜の指が、わずかに動く。

 そして――香包を、受け取った。

「……一度だけだ」

 それだけ言って、目を閉じる。

 玉玲は、初めて気づいた。

 彼の睫毛が、驚くほど長いことに。



 しばらくして、玄曜は静かに息を整えた。

 鬼の気配が、薄れている。

「……効いた」

「よかった」

 玉玲は、小さく笑った。

「人の薬でも、効くのですね」

「……お前の薬だからだ」

 不意に、玄曜がこちらを見る。

 距離が、近い。

 息が、かかる。

 触れれば――戻れなくなる。

 だが、彼は触れなかった。

「玉玲」

 低く、確かな声。

「俺は、お前を――」

 言葉が、途中で途切れる。

 代わりに、彼は視線を逸らした。

「……後宮から、逃がす」

 玉玲は、目を見開いた。

「なぜ……」

「ここにいれば、お前は」

 玄曜は、歯を食いしばる。

「俺と同じになる」

 それが、彼なりの――愛だった。



 夜更け。

 玉玲は自室に戻り、胸を押さえた。

 香包の残り香が、指に移っている。

(……逃げる、か)

 その言葉を、心の中で繰り返す。

 だが、同時に浮かんだのは――

 闇の中で、一人立ち続ける玄曜の背だった。

 後宮は、まだ彼を放さない。
 そして、彼自身も。

 だが。

 仮面は、確かにひび割れていた。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。 すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。 だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。 イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。 変わり果てた現実を前に、 夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。 深い後悔と悲しみに苛まれながら、 失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。 しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。 贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。 そして、母の心を知っていく子供たち。 イネスが求める愛とは、 そして、幸せとは――。

「君の回復魔法は痛い」と追放されたので、国を浄化するのをやめました

希羽
恋愛
「君の回復魔法は痛いから」と婚約破棄され、国外追放された聖女エレナ。しかし彼女の魔法は、呪いを根こそぎ消滅させる最強の聖なる焼却だった。国を見限って辺境で薬草カフェを開くと、その技術に惚れ込んだ伝説の竜王やフェンリルが常連になり、悠々自適なスローライフが始まる。 一方、エレナを追放した王国はパニックに陥っていた。新しく迎えた聖女の魔法は、ただ痛みを麻痺させるだけの「痛み止め」に過ぎず、国中に蔓延する呪いを防ぐことができなかったのだ。 原因不明の奇病、腐り落ちる騎士の腕、そして復活する魔王の封印。 「頼む、戻ってきてくれ!」と泣きつかれても、もう遅い。 私の店は世界最強の竜王様が警備しているので、王家の使いだろうと門前払いです。 ※本作は「小説家になろう」でも投稿しています。

『雪嶺後宮と、狼王の花嫁』

由香
キャラ文芸
後宮に降る雪は、呪いではなく嘆きだった。 巫女として献上された少女セツナは、 封じられた狼王の“花嫁”としての前世を思い出す。 人と妖、政と信仰の狭間で、 彼女が選ぶのは従属ではなく均衡。 雪嶺を舞台に描く、異種婚姻×後宮伝承譚。

美男美女の同僚のおまけとして異世界召喚された私、ゴミ無能扱いされ王城から叩き出されるも、才能を見出してくれた隣国の王子様とスローライフ 

さら
恋愛
 会社では地味で目立たない、ただの事務員だった私。  ある日突然、美男美女の同僚二人のおまけとして、異世界に召喚されてしまった。  けれど、測定された“能力値”は最低。  「無能」「お荷物」「役立たず」と王たちに笑われ、王城を追い出されて――私は一人、行くあてもなく途方に暮れていた。  そんな私を拾ってくれたのは、隣国の第二王子・レオン。  優しく、誠実で、誰よりも人の心を見てくれる人だった。  彼に導かれ、私は“癒しの力”を持つことを知る。  人の心を穏やかにし、傷を癒す――それは“無能”と呼ばれた私だけが持っていた奇跡だった。  やがて、王子と共に過ごす穏やかな日々の中で芽生える、恋の予感。  不器用だけど優しい彼の言葉に、心が少しずつ満たされていく。

《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。

ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」 その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。

幻獣保護センター廃棄処理係の私、ボロ雑巾のような「ゴミ幻獣」をこっそり洗ってモフっていたら、実は世界を喰らう「終焉の獣」だった件について

いぬがみとうま🐾
ファンタジー
「魔力なしの穀潰し」――そう蔑まれ、幻獣保護センターの地下で廃棄幻獣の掃除に明け暮れる少女・ミヤコ。 実のところ、その施設は「価値のない命」を無慈悲に殺処分する地獄だった。 ある日、ミヤコの前に運ばれてきたのは、泥と油にまみれた「ボロ雑巾」のような正体不明の幻獣。 誰の目にもゴミとしか映らないその塊を、ミヤコは放っておけなかった。 「こんなに汚れたままなんて、かわいそう」 彼女が生活魔法を込めたブラシで丹念に汚れを落とした瞬間、世界を縛る最凶の封印が汚れと一緒に「流されてしまう。 現れたのは、月光を纏ったような美しい銀狼。 それは世界を喰らうと恐れられる伝説の災厄級幻獣『フェンリル・ヴォイド』だった……。

一級魔法使いになれなかったので特級厨師になりました

しおしお
恋愛
魔法学院次席卒業のシャーリー・ドットは、 「一級魔法使いになれなかった」という理由だけで婚約破棄された。 ――だが本当の理由は、ただの“うっかり”。 試験会場を間違え、隣の建物で行われていた 特級厨師試験に合格してしまったのだ。 気づけばシャーリーは、王宮からスカウトされるほどの “超一流料理人”となり、国王の胃袋をがっちり掴む存在に。 一方、学院首席で一級魔法使いとなった ナターシャ・キンスキーは、大活躍しているはずなのに―― 「なんで料理で一番になってるのよ!?  あの女、魔法より料理の方が強くない!?」 すれ違い、逃げ回り、勘違いし続けるナターシャと、 天然すぎて誤解が絶えないシャーリー。 そんな二人が、魔王軍の襲撃、国家危機、王宮騒動を通じて、 少しずつ距離を縮めていく。 魔法で国を守る最強魔術師。 料理で国を救う特級厨師。 ――これは、“敵でもライバルでもない二人”が、 ようやく互いを認め、本当の友情を築いていく物語。 すれ違いコメディ×料理魔法×ダブルヒロイン友情譚! 笑って、癒されて、最後は心が温かくなる王宮ラノベ、開幕です。

お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます

菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。 嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。 「居なくていいなら、出ていこう」 この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし

処理中です...