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第二章:香と血の後宮
第6話 宦官の仮面
しおりを挟む後宮では、宦官の過去を問うてはならない。
彼らは名を捨て、血を断ち、個を削がれた存在だ。
過去を持たぬ者として扱われる。
だが――玄曜の過去は、最初から隠されていた。
*
毒壺の一件から、数日が経った。
後宮は不気味なほど静かで、香の匂いも薄い。
嵐の前触れのような静けさだった。
玉玲は薬庫で帳簿を整理していたが、集中できずにいた。
(……呼ばれる)
理由は分からない。
だが、確信だけがあった。
その予感は、日暮れとともに現実になる。
「玉玲」
薬庫の戸口に立つ、黒衣の影。
「玄曜様……?」
「来い」
短い命令。
だが、そこに拒絶はなかった。
*
連れて行かれたのは、後宮の最奥――立ち入りを禁じられた旧殿だった。
人の気配はなく、香も焚かれていない。
空気は澄んでいるが、どこか冷たい。
「……ここは」
「昔の“処理場”だ」
玄曜の声は、淡々としていた。
「あやかしが暴れ、人が死に、記録に残せないものを――消す場所」
玉玲の胸が、きしむ。
「俺は、ここで育った」
初めて、彼は自分のことを語った。
*
殿の中央には、何もない。
ただ、床に刻まれた無数の傷と、消えない染み。
「……宦官では、ないのですね」
玉玲は、ずっと胸にあった疑問を口にした。
「身体は、そう作られた」
玄曜は、静かに答える。
「だが……完全ではない」
その言葉の意味を、玉玲は理解した。
彼は、“去勢された宦官”ではない。
そう扱われるために、造られた存在。
「鬼神の血が混じれば、子は残らない。欲も、情も、抑えられる」
「……失敗作だ」
自嘲にも似た声。
「俺は、残りすぎた」
感情も。
記憶も。
――そして、欲も。
*
玉玲は、そっと一歩近づいた。
「だから……喰い続けているのですね」
「ああ」
玄曜は、壁に手をつく。
「喰えば、静かになる。考えずに済む。……人でなくなれる」
月光が、彼の横顔を照らす。
その影に、一瞬――角が揺れた。
「だが」
玄曜は、低く言った。
「お前がいると……戻る」
玉玲の喉が、鳴る。
「人に、ですか」
「……ああ」
短い肯定。
*
沈黙が落ちる。
破れば、何かが壊れる。
だが、破らねば、先へ進めない。
玉玲は、意を決した。
「玄曜様」
「……何だ」
「もし」
声が、わずかに震える。
「もし、あなたが“役目”を終えたら……どうなさるのですか」
問いは、刃だった。
玄曜は、すぐには答えなかった。
「……終わらない」
「それは」
「俺が、そう作られた」
断定。
だが、その声音の奥に――疲労が滲んでいた。
*
玉玲は、胸元の香包を取り出した。
「これは、私の薬です」
玄曜が、ちらりと見る。
「眠りを深くするだけの、弱いものですが……」
玉玲は、そっと差し出した。
「今夜は、喰わないでください」
一瞬、時間が止まる。
「……命令か」
「お願い、です」
玄曜の指が、わずかに動く。
そして――香包を、受け取った。
「……一度だけだ」
それだけ言って、目を閉じる。
玉玲は、初めて気づいた。
彼の睫毛が、驚くほど長いことに。
*
しばらくして、玄曜は静かに息を整えた。
鬼の気配が、薄れている。
「……効いた」
「よかった」
玉玲は、小さく笑った。
「人の薬でも、効くのですね」
「……お前の薬だからだ」
不意に、玄曜がこちらを見る。
距離が、近い。
息が、かかる。
触れれば――戻れなくなる。
だが、彼は触れなかった。
「玉玲」
低く、確かな声。
「俺は、お前を――」
言葉が、途中で途切れる。
代わりに、彼は視線を逸らした。
「……後宮から、逃がす」
玉玲は、目を見開いた。
「なぜ……」
「ここにいれば、お前は」
玄曜は、歯を食いしばる。
「俺と同じになる」
それが、彼なりの――愛だった。
*
夜更け。
玉玲は自室に戻り、胸を押さえた。
香包の残り香が、指に移っている。
(……逃げる、か)
その言葉を、心の中で繰り返す。
だが、同時に浮かんだのは――
闇の中で、一人立ち続ける玄曜の背だった。
後宮は、まだ彼を放さない。
そして、彼自身も。
だが。
仮面は、確かにひび割れていた。
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