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第三章:母の禁薬
第7話 処刑された薬師
しおりを挟む処刑された薬師の名は、記録に残らない。
後宮の帳簿にあるのは、ただ一行。
――「禁薬に関与。極刑」
それ以上でも、それ以下でもない。
*
その日、玉玲は呼び出されていた。
場所は、薬庫ではない。
妃の殿でもない。
内廷の記録殿――後宮の中枢だ。
(……なぜ、今)
胸騒ぎが、はっきりと形を持っていた。
記録殿は冷えていた。
紙と墨の匂いの奥に、長年染みついた――恐怖の匂いがある。
「入れ」
声の主は、年配の宦官だった。
玄曜とは違う。人間で、権力に慣れた声。
「蘇玉玲だな」
「……はい」
「お前の母について、確認がある」
その一言で、世界が軋んだ。
*
机の上に、古い帳簿が置かれる。
「二十年前、後宮薬師が一人、処刑された」
宦官は淡々と告げる。
「罪状は、皇族に対する禁薬の調合」
玉玲の喉が、乾く。
「その薬師が、お前の母だ」
確認ではない。
宣告だった。
「……はい」
「否定はしないか」
「事実ですから」
宦官は、ふむ、と低く唸った。
「ならば聞こう。あの女は、何を作っていた」
玉玲は、視線を下げたまま答える。
「……人と、あやかしの境界を、越える薬です」
室内の空気が、張り詰める。
「正確には」
玉玲は、言葉を選びながら続けた。
「越えないための薬でした」
*
宦官の眉が、ぴくりと動く。
「どういう意味だ」
「当時、皇帝陛下――いえ、先帝は」
玉玲は、夢で見た光景を思い出す。
「すでに、あやかしに近づいていました」
香と毒。
呪と血。
後宮は、それを止められなかった。
「母は、完全な“あやかし化”を防ぐための薬を作っていました」
宦官が、鼻で笑う。
「結果、処刑された」
「はい」
「失敗作だったのだろう」
玉玲は、首を横に振った。
「……いいえ」
ゆっくりと、顔を上げる。
「成功していました」
宦官の目が、鋭くなる。
「ならば、なぜ――」
「完成させなかったからです」
沈黙。
「母は、選ばなかった」
玉玲の声は、震えていた。
「帝を救うために、別の誰かを犠牲にすることを」
その言葉の重さに、宦官は一瞬、言葉を失った。
*
「……愚かな女だ」
やがて、そう吐き捨てる。
「後宮では、選ばねばならぬ」
「はい」
玉玲は、はっきりと答えた。
「だから、母は――薬師でした」
宦官は、玉玲をじっと見つめる。
「お前も、同じ道を歩くか」
問いではない。
試しだ。
玉玲は、胸の奥で深く息を吸う。
「……分かりません」
正直な答え。
「でも」
目を逸らさずに続ける。
「選ばされるなら、自分で選びます」
*
記録殿を出ると、廊下に玄曜が立っていた。
最初から、そこにいたかのように。
「……聞かれたな」
「はい」
短いやり取り。
だが、二人には十分だった。
「母のこと、すべて話しました」
「そうか」
玄曜は、それ以上問わない。
「……後悔は」
「ありません」
玉玲は、少しだけ微笑んだ。
「母の選択を、否定したくありませんから」
玄曜は、しばらく玉玲を見つめていた。
その目に浮かぶのは、怒りでも悲しみでもない。
――決意。
「玉玲」
「はい」
「次に来るのは、薬師の裁きではない」
低い声。
「帝の裁きだ」
玉玲の背筋が、冷たくなる。
「……帝が、動くのですね」
「ああ」
玄曜は、夜の奥を見据えた。
「夢ではない。現実で」
*
その夜。
玉玲は、母の夢を見なかった。
代わりに、夢の中で――玉座を見た。
香に満ちた殿。
玉座に座る影は、人の形をしている。
だが、その背後に――巨大な“何か”が蠢いていた。
目が、こちらを向く。
『薬師の娘よ』
声が、直接、頭に響く。
『お前も、選ぶがいい』
玉玲は、逃げなかった。
ただ、静かに答える。
「……はい」
目覚めたとき、夜明け前だった。
胸の奥に、恐怖はある。
だが、それ以上に――覚悟があった。
母が、そうだったように。
そして。
後宮の歯車は、薬師一人では止められない場所へと、確実に進み始めていた。
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