『後宮薬師は名を持たない』

由香

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第三章:母の禁薬

第9話 皇子の異変

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 皇子が倒れたという知らせは、夜の後宮を引き裂く悲鳴のようだった。



 殿の前には、すでに人垣ができていた。

 女官、宦官、近侍――
 誰もが口を噤み、ただ怯えた目で扉を見つめている。

 玉玲は、鼻を押さえた。

(……濃い)

 香でも毒でもない。
 血が、燃える匂い。

「近づくな」

 玄曜が、低く言った。

 彼の身体から、抑えきれない鬼気が滲み出ている。

「中は……もう、人の気配じゃない」



 扉が開かれた瞬間。

 玉玲は、息を呑んだ。

 寝台の上で、皇子が身をよじっている。
 まだ十にも満たぬ少年。

 白い肌の下で、何かが蠢いていた。

「……皇子殿下」

 呼びかけても、返事はない。

 代わりに、低い唸り声。

 その背後に――影が揺れている。

(あやかし……いいえ)

 玉玲は、はっきりと理解した。

「これは、“なりかけ”です」

「帝と同じか」

「……同じ道、です」

 だが、違う点が一つ。

「まだ、戻れます」



 女官の一人が、震える声で言った。

「助かるのですか……?」

 玉玲は、答えなかった。

 代わりに、玄曜を見る。

「……鬼血丹を使えば」

 彼の瞳が、揺れた。

「助かる」

 だが――

「完全な人には、戻れません」

 殿内が、凍りついた。

「どういうことだ」

 老宦官が詰め寄る。

「鬼血丹は、“境界を固定する薬”です」

 玉玲の声は、静かだった。

「今の皇子殿下を、人でも鬼でもない――半端な存在として、生かす」

「それが、救いか!」

「……それしか、ありません」



 沈黙。

 やがて、誰かが言った。

「ならば、殺せばよい」

 あまりにも簡単な言葉。

 玉玲の胸が、強く締め付けられる。

「“完全な鬼”になる前に」

 玄曜の手が、ぎゅっと握られる。

「それが、後宮の選択だ」

 玉玲は、少年を見る。

 苦しみ、怯え、何も理解できずにいる皇子。

(……母なら)

 母は、選ばなかった。

 では――私は?



 玉玲は、懐から小さな丹を取り出した。

 淡く紅に光る、鬼血丹。

 殿内の視線が、一斉に集まる。

「……私が、使います」

 老宦官が、眉を吊り上げる。

「お前が、責任を負えるのか」

「はい」

 玉玲は、まっすぐ答えた。

「この子が生きるなら」

 一瞬、言葉を切る。

「……私が、鬼に近づいても」

 玄曜が、息を呑んだ。

「玉玲……!」

「大丈夫です」

 振り返らずに言う。

「私は、“境界に立つ者”ですから」



 鬼血丹を、舌に乗せる。

 溶ける。

 次の瞬間。

 ――熱。

 胸の奥で、何かが弾けた。

「……っ!」

 玉玲の膝が、崩れ落ちる。

 同時に、皇子の身体から影が引き剥がされる。

 黒い何かが、悲鳴を上げ――

 玄曜が、それを喰った。



 静寂。

 皇子の呼吸が、次第に落ち着いていく。

 人の匂いが、戻ってきた。

「……助かった」

 誰かが、呟いた。



 玉玲は、床に座り込んでいた。

 視界が、霞む。

 身体が、重い。

 玄曜が、すぐそばに跪く。

「……無茶をしすぎだ」

「……成功、しましたね」

 玉玲は、かすかに笑った。

 だが――

「玉玲」

 玄曜の声が、低くなる。

「お前……」

 彼女の瞳が、一瞬だけ――赤く光った。



 その夜。

 後宮では、「皇子は奇跡的に回復した」とだけ伝えられた。

 真実を知る者は、少ない。

 そして。

 玉玲は、自室で一人、鏡を見つめていた。

 映る自分は、確かに自分だ。

 だが、胸の奥に――

(……鳴いている)

 鬼の血が、目を覚ましている。

 扉の外で、玄曜が立っている気配がした。

 入ってこない。

 近づきすぎれば、壊れてしまうと知っているから。

 玉玲は、そっと囁いた。

「……まだ、戻れますよね」

 返事はない。

 ただ、夜の底で――
 帝の気配が、はっきりと目を覚ましつつあった。




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