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第7章「温室栽培」
113話
しおりを挟むクスクスと、頭上からユリウスの笑い声が降ってくる。絶望に打ちひしがれている私を見て嘲笑っているのだ。
最初から私のお願いを聞く気がないのなら、変に希望を持たせるようなことを言わないで欲しかった。
暗い淵に引きずり込まれるように、スルスルと現実感が喪失していく。絶え間なく頭に降り注いでいるはずのシャワーの音さえ、何処か遠くの世界から聞こえてくるよう。
考える力を失ってしまった私は、シャワーヘッドから吹き出す温水が小さな渦を描きながら排水口に吸い込まれていく様子をただ呆然と眺めることしかできなかった。そんな私にユリウスは、まるで絵本の読み聞かせをするような穏やかな口調で語り始めた。
「僕はですね、常日頃から家族以外の人間はどうでもいいと思っています。」
―……どうでもいい…。
胸にちくりとした痛みを覚える。
赤の他人である私が、どうなろうとも知ったことではない、と。
分かっていたことだというのに、ショックを受けている自分自身に驚いた。
「――…ですが、」
「…ッ、」
言葉を区切ったユリウスは、両手で私の首筋をするりと撫でてきた。まるで、皮膚の下に流れる頸動脈をなぞるかのように。
あの時のように首を絞められるのかと身を強ばらせたが、それ以上力を込めてくることはなかった。
「貴女が姉としてお願いをするのであれば、僕は喜んで従いますよ。」
「…は、」
それは一体どういう意味だろうか。
言葉の意味を飲み込もうとするが、ショックを受けたままの頭では思うように働いてくれない。
彼の真意を確かめようと、鏡に映るユリウスを見て私は戦慄した。
彼は口元に笑みを浮かべていたが、目が一切笑っていなかったのだ。その瞳は、ガラス玉のように無機質で明確な感情を読み取ることはできない。
私の視線に気付いたのか、ユリウスはくすりと嗤う。そして鏡越しに私を見据えたまま、その形の良い唇を私の耳元に寄せ、吐息のような声でそっと囁いた。
「さぁ、僕に教えてください。貴女は僕の姉ですか?それとも……他人ですか?」
甘く優しい声が耳腔を舐め、思わず身震いする。
姉か、それとも他人か。
少し前までの私だったら、迷うことなく〝姉〟と即答していただろう。だが、彼がアルベルト様だとわかった今では……
呆然と固まったままの私にしびれを切らしたのか、ユリウスは返答を催促するかのように、私の首に添えている両手に力を込めた。
「―っ、」
決して強い力ではない。だが、その手はいとも容易く私の命を奪うことが出来る。文字通り、私の命は彼に握られているのだ。
選択肢は私にあるように振舞っているが、実際の答えはたった1つしか示されていない。
ならば、私の答えは……
「…ぁ、姉…です。」
私の答えに、ユリウスは双眸を細めた。
「誰の、ですか?」
「…あっ、アルベルト様の…」
「僕の姉上は、弟をアルベルト様とは呼びません。」
「っ、」
冷たい眼差しに、身体が震え上がる。どうやら私は間違えてしまったようだ。
働かない頭の中から必死に答えを探す。答え、答え、答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え答え…………
……答えは、どこ…?
「……忘れて、しまいましたか?姉上は僕のことをユーリって呼んでいました。」
思わぬ助け舟にはっとする。
忘れた訳では無い。忘れられるはずがない。だが、それが答えとは思わなかった。
「…ユーリ…?」
「えぇ、そうです。難しく考える必要はありませんよ。いつものように「お願い、ユーリ。やめて」と言えば良いだけなのですから。」
「…ぅ、…」
どうして彼はこんなにも姉弟という関係に固執しているだろう。この関係を続けることに、何か意味があるのだろうか。
もしや、これも罠?私を騙して、油断させるつもり?
だが、今の私は罠だと分かっいたとしても、彼に従うしか道はなかった。
「……お願い、ユーリ。もう、やめて…。」
私の口から出た声は笑ってしまうほど震えていた。その蚊の鳴くような声は、シャワーの音で掻き消されてしまったが、彼の耳には届いたようで…
「はい、僕の姉上。貴女がそう望むのなら。」
そう言ってユリウスは蠱惑的に微笑んだ。
彼から漂う凄絶な色香に当てられ、くらりと目眩がする。
そして悟った。
人を惑わす存在は、いつの時代も美しいことを。
呆然と鏡越しにユリウスを見つめていると、彼はおもむろに立ち上がり、濡れた前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。普段隠れている額があらわになり、心臓が跳ねる。見てはいけないものを見てしまったような、そんな感覚に囚われた。それでも目を逸らすことが出来ずにいると、彼は突然服を脱ぎ捨て始めた。
「―なっ、」
ぎょっとした私は慌てて下を向く。だが、脳内には、ユリウスの艶かしい肌の色が焼き付いてしまった。
シャワーの音に混じる衣擦れの音が、より一層心臓をおかしくさせ呼吸を乱し、水をたっぷりと吸い込んだ上着やシャツがピシャリとタイルに落ちてくる度に心臓が止まりそうになった。いや、いっそのこと止まって欲しい。そう思ってしまうほどに、この状況は私の許容範囲を超えてしまっていた。
そして、とうとうベルトとトラウザーズが落ちてきた時、私は悲鳴のような疑問を投げつけた。
「な、何で、服を脱いでいるの…!?」
「何でって…。僕は貴女と違って、服を着たまま身を清めるような特殊な趣味はありませんので。」
私だって、そんな趣味はない…!
だが、今の私はそれを言えるような勇気を持ち合わせてはいなかった。
ただただ全身を茹でたこのように赤く染め、震えることしかできない。
「そんなに恥ずかしがるような間柄じゃないでしょう。少し前までは一緒に入っていたじゃないですか。」
頭上なら降ってくる声は酷く楽しげだ。
彼の言う通り、小さい頃は一緒にお風呂に入っていたが、あの頃と今では状況がかなり違う。もしや、彼の中では私の存在は小さい子供のままなのだろうか。先程から彼に羞恥というものが微塵も感じられない。
私が狼狽している間に、ユリウスは身体を洗い終えたらしく、脱ぎ捨てた衣服を拾い集めていた。
「姉上。」
その声に、ビクリと肩が震える。
また何かされるのかと身構えたが、予想に反して彼の気配は遠ざかっていった。
「僕はもう出ますね。姉上はゆっくり温まってから出てきて下さい。」
ガチャリと背後から扉が開く音がする。
「ごゆっくり。」
その言葉を最後に、扉は静かに閉められた。
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