私は貴方を許さない

白湯子

文字の大きさ
216 / 237
第11章

209話

しおりを挟む


馬小屋に現れた男の名は、フリッツ=フェルシュング。
かつて僕を馬小屋に放り込んだあの伯爵であった。

フリッツは馬に埋もれていた僕の腕を乱暴に引っ張り上げ、そのままズルズルと雪の上を引き摺って伯爵邸へと連れ帰った。

雪に晒されて続けていた足は既に感覚を失っていた。だから、廊下の床から飛び出していた釘や木片が皮膚を裂いても、痛みはただ鈍く、遠かった。

ドタドタとした足取りで連れて行かれたのは、冷えきった浴室だった。石造りの浴室は外のように寒く、息をするたびに白い吐息が宙に溶けた。
フリッツはその冷たい床に僕の体を乱暴に放り投げた。

悲鳴を上げる暇もなく、フリッツは辛うじて身にまとっていたボロきれのような服を剥ぎ取り、そして桶に張られた冷水を容赦なく僕に浴びせ始めた。

氷の刃で全身を貫かれたようだった。肺が締め付けられ、心臓が止まりそうになる。だが、そんな僕のことなどお構いなしに、今度は手にしたデッキブラシで僕の身体を擦り始めた。


「くっそ……馬糞の臭いがこびりついていやがる。」


苛立った様子のフリッツは、何かの洗剤のような液体を僕の身体に浴びせ、さらに強くブラシで肌を擦った。


「ったく、手間かけさせやがって……!」


硬い毛が身体の上を往復するたび、弱った肌が悲鳴をあげた。目や傷口に洗剤が入り、激痛が走る。

果てしない拷問のような時間は、ようやく終わりをむかえた。
汗だくで僕を洗い終えたフリッツは、濡れ雑巾のような僕の身体を脱衣場へと放り投げた。

ぐしゃりと床に倒れた視界の端に、誰かの足が映った。


「そんな乱暴になさらないで、伯爵様。これ以上痣が増えたら、商品にならないでしょう?」
「おぉ、すまんすまん。ガリーナ。」


その名に、思わず顔を上げた。そこにいたのは、タオルを手にした一人の女――ガリーナ=フェルシュング、僕の実の母だった。

ガリーナは僕の姿を見下ろしながら、どこか卑しげな笑みを浮かべていた。


「あら、思っていたより整った顔をしているじゃない」


そう言って、僕の身体をタオルで吹き始めたガリーナは、僕の耳元にそっと顔を寄せた。


「あの人に、よく似てる。」


その囁きはフリッツには届かなかった。
僕から顔を離し、ガリーナはうっそりと微笑む。
僕の瞳のさらに奥を見つめているような眼差しに、ぞくりと背筋が震えた。



❖❖❖❖❖


身体を乱暴に清められた後、ガリーナの手によって僕は真っ白なドレスを着させられた。


「昔ペティーナが着ていたドレスがピッタリだわ。」


絡まり、汚れてバラバラだった髪の毛を肩ぐらいに切り揃えたガリーナは僕をひとりがけの椅子に座られた。
目の前には鏡。
そこに映っていたのは、やせ細って虚ろな目をした一体の人形だった。
知らない誰かの顔。
この時、僕は初めて自分の顔を見た。

着飾った僕を、フリッツとガリーナは満足げに見下ろしていた。そして手にしていたパンの欠片と水を無理やり僕の口に押し込み、「これで十分だろう」と言わんばかりの態度で部屋を後にした。

先ほどまでの時間は、ただただ押し寄せる出来事に身を任せることで精一杯だった。抗う余地も、考える隙もなかった。ただ、されるがまま。

だが、静寂が訪れたことで、ようやく思考が自分の中に戻ってきた。すると、途端にあらゆる疑問と恐怖が堰を切ったように胸の奥から湧き上がってきた。

――これは、何だ?

――なぜ、こんな格好を……なぜ、こんな目に?

――あの二人の目的は...?

どれも答えの見つからない問いばかり。
狭い世界しか知らない頭の中は混乱しきっていた。

そのときだった。

ギィ――と、鉄の軋むような音が静寂を引き裂いた。
その音とともに現れたのは、分厚い脂肪に覆われた見知らぬ男だった。
巨体がぬっと狭い部屋に入り込み、その背後で扉がバタン、と重たく閉まる音が響いた。

口元に気味の悪い笑みを浮かべ、顔面を脂で光らせた男は僕を見た瞬間、目を見開いた。
まるで獲物を見つけた猛獣のように、男は息を荒くしながら、うっとりとした声を漏らした。


「あぁ、なんて可愛らしい……まるで天使だぁ……」


その声には、飢えたような欲望の渇きが滲んでいた。
男は脂肪に埋もれた目を爛々と輝かせながら、獲物に狙いを定めるように、まるまると肥えた芋虫のような指を僕の頬にゆっくり伸ばした。

冷たい恐怖が、喉の奥に貼りついた。
動けない。
声も出せない。

僕は―――







❖❖❖❖❖❖❖❖❖❖


❖❖❖❖❖❖


❖❖❖❖


❖❖







窓の外では、弱まった雪がしんしんと降り続けていた。

外は音のない白い世界が広がっているのだろうか。

そんな事を考えながら、飽きずにずっと馬小屋の小窓から雪を眺めていた少年に、僕はこう言った。


「外の世界も馬小屋と同じ灰色の世界だったよ。」


揺れる視界の中、鏡の中の人形が、助けを求めるように僕をじっと見続けていた。



















しおりを挟む
感想 473

あなたにおすすめの小説

愛される日は来ないので

豆狸
恋愛
だけど体調を崩して寝込んだ途端、女主人の部屋から物置部屋へ移され、満足に食事ももらえずに死んでいったとき、私は悟ったのです。 ──なにをどんなに頑張ろうと、私がラミレス様に愛される日は来ないのだと。

前世と今世の幸せ

夕香里
恋愛
【商業化予定のため、時期未定ですが引き下げ予定があります。詳しくは近況ボードをご確認ください】 幼い頃から皇帝アルバートの「皇后」になるために妃教育を受けてきたリーティア。 しかし聖女が発見されたことでリーティアは皇后ではなく、皇妃として皇帝に嫁ぐ。 皇帝は皇妃を冷遇し、皇后を愛した。 そのうちにリーティアは病でこの世を去ってしまう。 この世を去った後に訳あってもう一度同じ人生を繰り返すことになった彼女は思う。 「今世は幸せになりたい」と ※小説家になろう様にも投稿しています

遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。

沼野 花
恋愛
私は、夫にも子供にも選ばれなかった。 その事実だけを抱え、離縁を突きつけ、家を出た。 そこで待っていたのは、最悪の出来事―― けれど同時に、人生の扉がひらく瞬間でもあった。 夫は愛人と共に好きに生きればいい。 今さら「本当に愛していたのは君だ」と言われても、裏切ったあなたを許すことはできない。 でも、子供たちの心だけは、必ず取り戻す。 妻にも母にもなれなかった伯爵夫人イネス。 過去を悔いながらも、愛を手に入れることを決めた彼女が辿り着いた先には――

番を辞めますさようなら

京佳
恋愛
番である婚約者に冷遇され続けた私は彼の裏切りを目撃した。心が壊れた私は彼の番で居続ける事を放棄した。私ではなく別の人と幸せになって下さい。さようなら… 愛されなかった番。後悔ざまぁ。すれ違いエンド。ゆるゆる設定。 ※沢山のお気に入り&いいねをありがとうございます。感謝感謝♡

(本編完結)無表情の美形王子に婚約解消され、自由の身になりました! なのに、なんで、近づいてくるんですか?

水無月あん
恋愛
本編は完結してます。8/6より、番外編はじめました。よろしくお願いいたします。 私は、公爵令嬢のアリス。ピンク頭の女性を腕にぶら下げたルイス殿下に、婚約解消を告げられました。美形だけれど、無表情の婚約者が苦手だったので、婚約解消はありがたい! はれて自由の身になれて、うれしい! なのに、なぜ、近づいてくるんですか? 私に興味なかったですよね? 無表情すぎる、美形王子の本心は? こじらせ、ヤンデレ、執着っぽいものをつめた、ゆるゆるっとした設定です。お気軽に楽しんでいただければ、嬉しいです。

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

愛すべきマリア

志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。 学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。 家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。 早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。 頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。 その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。 体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。 しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。 他サイトでも掲載しています。 表紙は写真ACより転載しました。

最初からここに私の居場所はなかった

kana
恋愛
死なないために媚びても駄目だった。 死なないために努力しても認められなかった。 死なないためにどんなに辛くても笑顔でいても無駄だった。 死なないために何をされても怒らなかったのに⋯⋯ だったら⋯⋯もう誰にも媚びる必要も、気を使う必要もないでしょう? だから虚しい希望は捨てて生きるための準備を始めた。 二度目は、自分らしく生きると決めた。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ いつも稚拙な小説を読んでいただきありがとうございます。 私ごとですが、この度レジーナブックス様より『後悔している言われても⋯⋯ねえ?今さらですよ?』が1月31日頃に書籍化されることになりました~ これも読んでくださった皆様のおかげです。m(_ _)m これからも皆様に楽しんでいただける作品をお届けできるように頑張ってまいりますので、よろしくお願いいたします(>人<;)

処理中です...