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第11章
210話
しおりを挟むーーー気が付くと、僕は冷たい床に転がっていた。
足を動かそうとした瞬間、下腹部にずしりとした重みと焼けるような激痛が走り、喉奥から声にならない悲鳴が上がった。
今まで感じたことのない吐き気と眩暈が交互に押し寄せ、灰色の世界が揺れる。
どこか切れているのか、つんとした鉄の匂いが鼻先を掠めた。
ぬるりとした液体が剥き出しの腿を伝って床に零れ落ちる。
その不快な感触に、肌が粟立った。
自分の身に何が起きたのか、何をされたのかーーー僕は何一つ分からなかった。
分からないながらも、自分の中でなにか大切なものが壊れてしまったような、そんな喪失感のようなものを感じていた。
「ありがとう、伯爵。君のおかげで素敵な時間を過ごすことができたよ。」
ドアの向こうから、ねっとりと肌にまとわりつくような男の声が聞こえた。その後にフリッツのへりくだった猫撫で声が続く。
「ややっ。閣下に、そんなご評価を賜るとは……わたくし、恐悦至極にございます。今後とも、なにとぞ...ご贔屓に。」
「また来るよ。くれぐれも殺さぬように。最低限の餌は与えてやってくれ。」
「かしこまりました。」
ひとつの足音が遠ざかり、それと入れ替わるように別の足音が近づいてきた。
「伯爵様。いかがでしたか?」
「おぉ、ガリーナ。これを見てくれ。」
「……まあ...!こんなに...!」
「まさか、あのガキ一人でこれほど稼ぐとはな。今のところ一番の稼ぎ頭だ。君の言う通り、殺さず生かしておいて正解だったよ。」
笑い声をこらえるようにして、二人の足音が軽やかに遠のいでいった。
❖❖❖❖❖
フリッツとガリーナは、度が過ぎた浪費家だった。酒と宝石と賭け事に金を注ぎ込み、贅沢の限りを尽くしていた。
その結果、使用人を雇えなくなり、明日のパンすら買えない状況に陥った。
そんな飢えに片足を突っ込んだ貴族崩れが最後に手を伸ばしたのが、罪なき無垢な子供たちであった。
彼らは裏路地にいた孤児たちに「保護してあげる」と甘い言葉を囁いた。飢えた子供たちはその手にすがる。だが次に与えられるのは温かな毛布ではなく、大人の欲だった。
金になるなら何でも使う。使えなくなれば捨てればいい。消耗品のように。かつて馬小屋に放置した自分の子供ですら、その原則から外れることはなかった。
そして――その日から、僕の「花売り」の仕事が始まった。
来る日も来る日も僕は一方的に搾取され続ける。
「やぁ、私のエンゲルフェン。今日もその背中の羽をみせておくれ。」
最初の日に来た男は僕をエンゲルフェンーーー小さな天使と呼んだ。
「私のエンゲルフェン。今日は友達を連れてきたんだ。きっと君のことを気に入ってくれるよ。」
男は名はディック=ショタコン卿。公爵の次男だった彼は巷では放蕩貴族として有名だった。
あの日以来、彼は何度も伯爵邸を訪れ、毎回異なる友人を連れてきた。
痛みが癒えるよりも早く、新たな痛みが重なり、小さな身体が悲鳴を上げる。
それでも僕は生きなければならなかった。
何としてでも。
仕事の時は初日の部屋に連れていかれ、それ以外は窓のない倉庫のような部屋に転がされていた。
「おい、餌の時間だ。」
少女の声とともに、転がってきたのは二つの林檎だった。
僕は床を這って、その林檎に噛り付く。その瞬間、舌の上に腐敗の味が広がった。吐き気を堪えながら込み上げる胃酸とともに林檎を喉に流し込む。
全ては生きる為。
僕は何としてでも生きなければならない。
「あはははっ!腐っている方をわざわざ食べるなんて、ゴキブリみたい!!」
林檎を投げ、心底おかしそうに笑い声を上げている少女の名は、ペティーナ=フェルシュング―――僕の異父姉弟だ。当時の彼女は8歳。僕より2つほど年上だった。
使用人が居ない伯爵邸で、僕の最低限の食事を運んでくるのは、いつも彼女だった。
「まえまえから思っていたんだけど、お前、色が見えていないんだろ?」
この時の僕は”色”そのもの存在を知らなかった。
だから、ペティーナが言っていることが理解できなかった。
「色が分からないなんて、本物のゴキブリだね。」
彼女はそう言って、僕を蔑んだ目で見下ろした。
ペティーナは、ガリーナの面影を色濃く残していた。
そんなペティーナを溺愛していたフリッツは、どんなに金が欲しくとも彼女だけは決して「商品」にしようとはしなかった。
そんな彼女の目には、花を売り続ける僕の姿がひどく穢れて写って見えただろう。
「……なに、その目。」
言葉と同時に、彼女の足が僕の腹を打った。
せっかく腹に流し込んだ林檎が口から吐き出される。
激しく咳き込む僕の背中を、ペティーナは何度も踏みつけ始めた。
「気持ち悪い目!!なんでそんな目で見るんだよ!!」
ペティーナの喉を潰しかけたような叫びが、狭い部屋に響いた。
「私は……私はお前と違って愛されてるんだ! お前とは違うんだよ!!」
声が上ずり、彼女の声の端が震える。
その震えは怒りだけのせいではなかった。
彼女の動きに合わせて、質の良いワンピースの裾が揺れ、ちらりとその下から痛々しい痣がのぞく。
――僕は知っていた。
夜になると、屋敷の奥から聞こえてくるフリッツの叫び声。
「愛してる、愛してる」と繰り返しながら、何かを叩きつける音。
食事を運んでくるたびに増えていく彼女の痣。
「私は……愛されて、幸せなんだ……!!」
彼女は何度も繰り返す。
まるで、自分に言い聞かせるかのように。
「私はお前が幸せになるなんて許さない。絶対に邪魔してやる。」
そう吐き捨てて、ペティーナはよろよろとした足取りで部屋を出ていった。
残されたのは、背中の痛みと、微かに残る林檎の酸味だけだった。
❖❖❖❖❖
そんな日々が幾重にも積み重なり、気がつけば季節は冬から春へと静かに移ろっていた。
とはいえ、それは名ばかりの春。春の陽気にはほど遠く、暁の空気はなおも真冬の冷たさを宿していた――そんな早春のある日のこと。
贅の限りを尽くし、目も当てられぬほどの浪費を繰り返してきた伯爵夫妻は、とうとう全てを食い尽くしてしまった。
残されたのは、山のような借金と消し去ることのできぬ数多の罪。
追い詰められたフリッツは、苦渋の末に一つの決断を下す。
それは深い闇に紛れ、隣国デューデンへと逃亡することだった。
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