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第11章
211話
しおりを挟む世界が深い眠りに沈み、天高く昇った月が静かに下界を見下ろしていた頃。
慌ただしく宝石を袋に詰め込んだフリッツとガリーナは、僕とペティーナを連れてデューデン国への逃亡を決行していた。
馬や馬車では目立つため、移動は全て徒歩だ。
デューデン国に行くためには、鬱蒼と生い茂る森を抜けなければならない。
森の木々が月明かりを遮り、地面には水っぽい雪が残っていた。
踏みしめるたびに足元がじっとりと濡れ、つま先から徐々に体温が奪われていく。
「早くしろクソガキ!朝になってしまうぞ!!」
フリッツが遅れて歩く僕を怒鳴りつけた。
一週間、まともな食事もなく、連日ショタコン卿から違法な薬物を飲まされ、気が立ったフリッツからは暴行を受けていた。
そんな僕の身体は、一歩を踏み出すだけで精一杯だった。
「伯爵様…!」
ガリーナが声をひそめ、木々の隙間を指差した。
その先を見遣ったフリッツは、目を細めた後、ぎょっと見開いた。
「あの旗は…シューンベルグ家の…!」
ちらりと木々の合間から見えたのは、丘陵を象った紋章ーーーシューンベルグ公爵家の旗だった。
「皇帝の犬め…嗅ぎつけてきおったか…!」
忌々しげに奥歯を噛み締めたフリッツは、突如として僕の腹を蹴り飛ばした。
火花のような痛みが視界を走り、僕の身体は雪の上に崩れ落ちる。
「やむをえん!貴様はここに置いていく。」
「いけませんわ伯爵様!この子は一番の稼ぎ頭なのですよ!?この子なしでどうやってーー」
「捕まったら何もかもがおしまいだ…!」
その言葉にガリーナはハッと口をつぐんだ。
「デューデン国に辿り着きさえすれば、あとはどうとでもなる。」
ガリーナは、宝石が詰まった袋を抱えた腕にギュッと力を込めた。
「…えぇ、分かりましたわ。」
二人は僕に一瞥もくれることなく、南に向かって走り去っていった。
「…。」
ペティーナはしばし立ち止まり、雪に倒れた僕を見下ろした。
その瞳に宿るのは、情ではなく、冷ややかな軽蔑。
彼女は何も言わず、彼らの後を追いかけていった。
「……。」
彼らの足音が徐々に遠のいてゆき、やがて完全な静寂が森を支配した。
僕に残されたのは痛みと容赦のない冷たさ。
蹴られた腹部がズキズキと痛み、肌に触れる雪が感覚を奪っていく。
気を抜けば、そのまま意識を手放してしまいそうだった。
ーーー僕は生きなければならない。何としてでも。
そう自分に言い聞かせ、僕は腕に力を込めた。
白い吐息の向こうで小さな手が雪を掴む。
大丈夫、まだ動ける。
膝をつき、歯を食いしばって、よろよろと立ち上がる。
薬のせいか、はたまた空腹のせいか。視界がぼやけ、頭がぐらつく。
それでも僕は足を前に出した。一歩、また一歩。
人々を平等に照らすはずの月明かりさえ届かない、暗い森の中。
道などどこにもない。
それでも僕は進むしかなかった。
❖❖❖❖❖
どれほど歩いただろうか。
時間の感覚はとうに失われ、足先の感覚も既に消えていた。
あれほど訴えていた腹部の痛みすら、今は何も感じない。
だんだんと目も見えなくなり、やがて視界は完全な闇に飲み込まれた。
突然、何かに足を取られ、僕は前のめりに倒れ込む。
どしゃりと音がしたはずなのに、それすらも曖昧だった。
木の根っこにでも足を引っかけてしまったのだろう、そう思って立ち上がろうとするが……足が、動かない。
まるで凍り付いてしまったかのように。
何故、動かない?さっきまで動いていたじゃないか。
そう思い、焦って再び力を込めるも、結果は変わらなかった。
ならば、這って進むしかない。
残された力を振り絞り、両腕で雪を掻いて進もうとする。
そこでふと気が付いた。
音が、しない。
耳のすぐそばで雪を掴んでも、あの「シャリ…」という結晶が壊れた音がどこにもない。代わりに、耳鳴りのような無音が耳の奥を満たしていく。
目が見えない、
足が動かない。
耳も聞こえない。
ーーーやがて、腕さえも言うことをきかなくなっていった。
雪の上に横たわったまま一歩も動けず、ただ焦燥感だけが侵食するように胸の中に広がっていく。
駄目だ。こんなところで終わるわけにはいかない。
僕は生きなければならない。何としてでも。
幾度となく自身に言い聞かせてきたはずの言葉ーーーけれど、ふと、思考が立ち止まった。
僕は何の為に生きなければならないのだろうか。
盲目的に繰り返してきた言葉に、初めて疑問が生まれる。
その小さな疑問は瞬く間に僕の思考を支配していった。
この世界に生まれ落ちた瞬間から、僕は奪われる側だった。
搾取され、踏みにじられ、そのたびに何かを失ってきた。
希望も、救いも、一度たりとも見出したことはない。
ならば、抗う必要なんてない。
無様に抗ったところで、苦しみが長引くだけじゃないか。
このまま雪の静けさに包まれて、全てを終わらせてしまえば...
最後くらい、苦しみから解放された「幸せ」というものに触れられるのではないか。
虐げられていても、頭の片隅では求めていた幸せらしきもの縋り、僕は意識を手放そうとした。
ーーーけれど。
身体の奥底で、根っこのような何かが、意識を手放さなかった。
細くて、いつ切れてもおかしくないソレは、必死に僕を世界に繋ぎとめる。
どうしてそこまで必死になる?
この世界には何もないだろう?
意味も価値も。
なのにどうして。
こんなにも「会いたい」という気持ちが湧き上がってくるのだうか。
会いたい人なんて居るはずがないのに、会いたい気持ちが、僕を世界に引き留める。
微かに動く手で冷たい雪を握り絞める。
目が見えなければ、見つけられない。
足が動かなければ、会いに行けない。
耳か聞こえなければ、声が聞こえない。
腕が動かなければ、触れることも叶わない。
それでも。
意味のない世界で会いたいと願ってしまう。
価値のない世界でどうしようもなく焦がれてしまう。
今はただ、会いたくて、会いたくて、仕方がない。
その時。ふいに甘い香りがふわりと鼻先を掠めた。
瑞々しい若葉のように青く、ほろ苦くてーーーけれど、泣きたくなるほど、ひどく懐かしい。
気付けば、僕はその香りを辿るように、雪の上を這って進んでいた。
会いたい。
ただ、その気持ちだけが、僕を突き動かしていた。
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