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第二十九話
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腹部に鈍い痛みを感じながら、美琴は目を覚ました。ひんやり冷たいレザーの手触りと、むせるような煙草の匂い。カーテンが閉め切られているのか薄暗い室内は、空気清浄機がフル稼働する音が轟々と響いている。
身体は動かさず、そっと薄目を開けてから自分が置かれている状況を確認していく。
――どこだろ、ここ……?
高校の前で八神康之に待ち伏せされ、レスラーのような大きな身体をしたあやかし――だいだらぼっちに捕まって、お腹を強く殴られたことまでは覚えている。多分、その後に車に乗せられて連れ去られてしまったのだろう。全く見覚えのない部屋の中でソファーらしきものの上に身体を横たえている状態だった。
まだ気を失ったフリを続けながら、美琴は周囲を薄目でゆっくりと見回した。二十畳ほどの空間に、奥には四人掛けのダイニングテーブルと、その向こうにはキッチンカウンターが見えた。今、美琴が横たわっているのは黒色の革製ソファーで、真横には液晶テレビが置かれている。
――誰かの家の、リビングかな? なんか汚いし、煙草くさい……
物と埃にまみれた部屋。向かいのソファーには脱ぎ捨てられた服や新聞が積み上げられ、目の前のソファーテーブルの上には食べかけのスナック菓子や飲みかけの珈琲のペットボトルが蓋が開いたまま放置されている。部屋中に漂うヤニとカビの臭いは運動部の部室の方がよっぽどマシだと思えるくらい、ツンと鼻にくる。
家主も多少は気にして空気清浄機を置いているみたいだが、多分フィルター自体が完全に汚れてしまっているのだろう。まともに機能していない。
家事力が万能なツバキのおかげでいつも清潔な状態を保っている自宅とは、比べ物にならないほど劣悪な環境。テーブルの上に散らかっている郵便物の宛名から、ここが八神康之の家だということだけは分かった。
同じ建物の中に、車にもいた二体のあやかしの気配を感じる。その内の一体はリビングの外の廊下にいて、美琴が逃げ出さないように見張っているようだった。
美琴は近くに誰もいないことを確認すると、そっとソファーの上で上体を起こす。そして、自分の右足首に太い結束バンドが嵌められ、ソファーの脚と鎖で繋がっていることに気付く。結束バンドも鎖も、引っ張るだけではビクともしないし、ソファーも美琴一人の力では数センチ動かすのが精一杯だ。
助けを呼ぼうと持っていたはずの通学鞄を探してみるが、薄暗い室内を見渡してもどこにもない。スマホは鞄の中に入っているから、誰もいない今のうちにと思ったけれど、状況はそう甘くはないみたいだ。
「……どうしよう」
左手首に嵌めていた護身用の数珠と、ポケットの中に小さく畳んだ護符があるのを確認するが、それだけで何ができるだろうか。
「せめて、窓に――」
ツバキの情報網が窓の外にいるかもしれないと、ソファーを降りて窓辺へと近づこうとしてみるが、鎖の長さが足りず届かない。無理して引っ張れば結束バンドが足首に食い込んで痛み出す。
身動きが取れないことへ無性に腹立たしさを感じるが、美琴は諦めたようにソファーへ深く座り直した。泣き喚いて助かるのならすぐにそうするが、きっと今はそうじゃない。かと言って、康之は話し合いに応じてくれる相手でもなさそうだ。
なんとなく感覚で一時間くらいが過ぎたかと思った頃、廊下へと続くらしいドアが軋みながら開いた。中へと入って来たのは、相変わらず疲れ切った顔色をした康之。その後ろには、天井のギリギリの高さもあるだいだらぼっちが、恐る恐るといった風に腰をかがめながらドアをくぐり抜けていた。多分、このあやかしの大きさでは人間の家の天井は低すぎるのだろう。
その式の動きを横目で見て、康之が舌打ちする。
「チッ、相変わらず鈍臭い……」
力はありそうだが、式として使役するには不満があるのだろう、憎々しげに吐き捨てていた。さらに続いて入ってきたあやかしは、反対に背丈は小学生低学年くらいしかなく、手足が棒のようにやせ細っていたが、頭の上の皿から河童だということは分かった。
「我が家の式を見て、呆れただろう? これは不公平なことだとは思わないかい?」
美琴が目を覚ましたと聞いて様子を見に来たらしい康之は、二体の式のことを情けないモノでも見るかのような目で蔑んでいた。
「先代が亡くなった後、順当にいけばうちの祖父が当主になっていたはずなんだよ。なのにあの婆さんが出しゃばって……鬼の力を引き継ぐどころか、うちは主力の式を失って散々だ」
「どういう、ことですか?」
「ああ、美琴ちゃんは知らないのか。君が生まれるずっと前の話だからね。うちの祖父が代替わりを巡って、本家の婆さんに挑んで返り討ちにあったんだよ。その時に大事な式を一体死なせてしまった」
大事な式と言いながらも、康之はどこか他人事のような口ぶりだ。リビングの中をゆっくりと歩き、向かいのソファーへドカッと腰を下ろしてから、美琴の足首が鎖で繋がれていることをおかしそうに笑って見ている。
「うちの爺さんもバカだよね。待ってたらその内に本家の婆さんだって寿命が来るし、唯一の息子も祓いの素質は無かったのに」
飲みかけて放置していた珈琲のボトルへ手を伸ばし、康之はゴクゴクと喉を鳴らしながら残りを飲み干した。
身体は動かさず、そっと薄目を開けてから自分が置かれている状況を確認していく。
――どこだろ、ここ……?
高校の前で八神康之に待ち伏せされ、レスラーのような大きな身体をしたあやかし――だいだらぼっちに捕まって、お腹を強く殴られたことまでは覚えている。多分、その後に車に乗せられて連れ去られてしまったのだろう。全く見覚えのない部屋の中でソファーらしきものの上に身体を横たえている状態だった。
まだ気を失ったフリを続けながら、美琴は周囲を薄目でゆっくりと見回した。二十畳ほどの空間に、奥には四人掛けのダイニングテーブルと、その向こうにはキッチンカウンターが見えた。今、美琴が横たわっているのは黒色の革製ソファーで、真横には液晶テレビが置かれている。
――誰かの家の、リビングかな? なんか汚いし、煙草くさい……
物と埃にまみれた部屋。向かいのソファーには脱ぎ捨てられた服や新聞が積み上げられ、目の前のソファーテーブルの上には食べかけのスナック菓子や飲みかけの珈琲のペットボトルが蓋が開いたまま放置されている。部屋中に漂うヤニとカビの臭いは運動部の部室の方がよっぽどマシだと思えるくらい、ツンと鼻にくる。
家主も多少は気にして空気清浄機を置いているみたいだが、多分フィルター自体が完全に汚れてしまっているのだろう。まともに機能していない。
家事力が万能なツバキのおかげでいつも清潔な状態を保っている自宅とは、比べ物にならないほど劣悪な環境。テーブルの上に散らかっている郵便物の宛名から、ここが八神康之の家だということだけは分かった。
同じ建物の中に、車にもいた二体のあやかしの気配を感じる。その内の一体はリビングの外の廊下にいて、美琴が逃げ出さないように見張っているようだった。
美琴は近くに誰もいないことを確認すると、そっとソファーの上で上体を起こす。そして、自分の右足首に太い結束バンドが嵌められ、ソファーの脚と鎖で繋がっていることに気付く。結束バンドも鎖も、引っ張るだけではビクともしないし、ソファーも美琴一人の力では数センチ動かすのが精一杯だ。
助けを呼ぼうと持っていたはずの通学鞄を探してみるが、薄暗い室内を見渡してもどこにもない。スマホは鞄の中に入っているから、誰もいない今のうちにと思ったけれど、状況はそう甘くはないみたいだ。
「……どうしよう」
左手首に嵌めていた護身用の数珠と、ポケットの中に小さく畳んだ護符があるのを確認するが、それだけで何ができるだろうか。
「せめて、窓に――」
ツバキの情報網が窓の外にいるかもしれないと、ソファーを降りて窓辺へと近づこうとしてみるが、鎖の長さが足りず届かない。無理して引っ張れば結束バンドが足首に食い込んで痛み出す。
身動きが取れないことへ無性に腹立たしさを感じるが、美琴は諦めたようにソファーへ深く座り直した。泣き喚いて助かるのならすぐにそうするが、きっと今はそうじゃない。かと言って、康之は話し合いに応じてくれる相手でもなさそうだ。
なんとなく感覚で一時間くらいが過ぎたかと思った頃、廊下へと続くらしいドアが軋みながら開いた。中へと入って来たのは、相変わらず疲れ切った顔色をした康之。その後ろには、天井のギリギリの高さもあるだいだらぼっちが、恐る恐るといった風に腰をかがめながらドアをくぐり抜けていた。多分、このあやかしの大きさでは人間の家の天井は低すぎるのだろう。
その式の動きを横目で見て、康之が舌打ちする。
「チッ、相変わらず鈍臭い……」
力はありそうだが、式として使役するには不満があるのだろう、憎々しげに吐き捨てていた。さらに続いて入ってきたあやかしは、反対に背丈は小学生低学年くらいしかなく、手足が棒のようにやせ細っていたが、頭の上の皿から河童だということは分かった。
「我が家の式を見て、呆れただろう? これは不公平なことだとは思わないかい?」
美琴が目を覚ましたと聞いて様子を見に来たらしい康之は、二体の式のことを情けないモノでも見るかのような目で蔑んでいた。
「先代が亡くなった後、順当にいけばうちの祖父が当主になっていたはずなんだよ。なのにあの婆さんが出しゃばって……鬼の力を引き継ぐどころか、うちは主力の式を失って散々だ」
「どういう、ことですか?」
「ああ、美琴ちゃんは知らないのか。君が生まれるずっと前の話だからね。うちの祖父が代替わりを巡って、本家の婆さんに挑んで返り討ちにあったんだよ。その時に大事な式を一体死なせてしまった」
大事な式と言いながらも、康之はどこか他人事のような口ぶりだ。リビングの中をゆっくりと歩き、向かいのソファーへドカッと腰を下ろしてから、美琴の足首が鎖で繋がれていることをおかしそうに笑って見ている。
「うちの爺さんもバカだよね。待ってたらその内に本家の婆さんだって寿命が来るし、唯一の息子も祓いの素質は無かったのに」
飲みかけて放置していた珈琲のボトルへ手を伸ばし、康之はゴクゴクと喉を鳴らしながら残りを飲み干した。
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