久遠の呪祓師―― 怪異探偵犬神零の大正帝都アヤカシ奇譚

山岸マロニィ

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第伍話──箪笥

【拾肆】桜ト鴉

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 ハルアキが久世邸へ駆け込んだ時、既に時は遅かった。
 余りの冷気と悪臭に、シャツの袖で口元を覆う。
「何だ……これは……!?」

 形容し難い生臭さだ。ムッとする匂いが冷気に乗って、廊下を玄関へと流れ出てきている。
 たたきを見ると、零の下駄が置かれていた。彼はまだここに居るに違いない。ならば躊躇している余裕はないと、ハルアキは靴のまま廊下を駆け抜けた。

 ――そして、大きく開かれた箪笥から、次々と顔のない赤ん坊が這い出すのを見て、右手の指に式札を構えた。
「朱雀!」
 人の形を象った紙が宙を舞う。それは途端に金色の焔と化し、眩く燃える鳥となった。その細首から放たれるひと鳴きで、辺りは火の海に沈む。
 間もなくその焔が沈静すると、何事もなかったように佇む箪笥と、煤で汚れた畳が残されていた。
 朱雀の焔は不浄なるものを焼き尽くすもの。火災の火種になることはまずない……ハルアキが火加減を間違わなければ。

 朱雀を戻し、ハルアキはふうと息を吐いた。
「何なのじゃ、今のは」
 この世ならざるものだったのは確かだ。ならば、あれらはどこから来たのか?
 この先の井戸の底にあるのは、お玉の。懐妊し、出産間近であったことから、彼女の産んだ赤子、というのが妥当なところだろうが……。
 ハルアキは目を細める。
 言うまでもなく、死者が出産するなどあり得ない。しかも、あの赤子は十体はあった。人間の為せる業ではない。
 つまり、あれらはに仕込まれた罠……!

 だが、悠長に考えている暇はなかった。
 ――オギャア、オギャア――
 箪笥から再び、赤子が湧き出してきたのだ。

 ハルアキは察した……井戸の中の惨状を。
 無数の赤子がみちみちと、狭い空間を満たしている。そこに収まり切らずにあぶれたものが、箪笥から溢れだしているのだ。

 その井戸の底にいる零が、無事であるとは思えない。

 その間にも、赤子はどんどんとハルアキに迫ってくる。彼はニッカポッカのポケットから四枚の式札を取り出した。
「――四神の陣」
 ハルアキの手を離れた式札は、瞬く間に神獣に姿を変える。青竜、朱雀、白虎、玄武――方角を司る神獣を正しい位置に配置し、それを結界とした空間からは、何人たりとも出られはしない。
 箪笥を囲った結界に触れた赤子は、後から迫る別の赤子に押し潰され、その赤子もまた別の赤子に押し潰され……結界の中は間もなく地獄絵図と化した。

 それを無表情に眺めながら、ハルアキは考えた。
 怪異を封じたところで、怪異を産み出す根源が中にある限り、根本的な解決には至らない。
 しかも、万一犬神零が生きていたとして、この状況は彼の状態を悪化させるものである。

 だが、ハルアキには妙な信頼があった。
 ――あの男は死なない。
 本人は認めていないが、彼はナナシが特別な存在であり、死ぬことはないと感じていた。

 そして、彼は千年前――ハルアキが『安倍晴明』と名乗っていた頃から、よく知っている存在であると。

 それはそれとして……。
 とりあえずの応急処置をしたとは言え、このままではどうしようもない。
 強固に張られた四神の陣の内部には、ハルアキも干渉できないのだ。

「果て、どうしたものか……」
 熟れた葡萄のように次々と潰されていく赤子の群れを眺めながら、ハルアキは手詰まりを認めざるを得なかった。


 ◇


 その少し前、浅草駅前……。

「上野行きの市電は故障のため、運休しております。再開の目処は立っておりません」
 駅員が叫ぶのを聞きながら、桜子とサナヱは顔を見合わせた。
「架電が切れてパンタグラフに送電できないから、電車が走れないって」
 桜子が困り顔で説明すると、サナヱは口を尖らせた。
「市電、乗りたかったのに……」

 ――勿論、演技である。
 更に言うなら、架電を切ったのは彼女――鴉揚羽の使う式神・斬牙ざんがの仕業だ。

 ハルアキに、桜子を柴又から引き離すよう頼まれ、一旦は引き受けたものの、どうにも腹の虫が収まらなかったのだ。
 彼女は犬神零に片想い中。そんな彼女が、犬神零が特別な感情を抱いているらしい椎葉桜子のお守りをしなければならないのは、理不尽が過ぎる。
 その上、ハルアキとかいう少年の態度。人に頼み事をするものではなかった。まるで女は男に隷属するものだと言わんばかりの上から目線が腹に据えかねたのだ。
 陰陽師として格上であるのは認めるが、それとこれとは別である。
 事の真っ最中に桜子を送り届けて、ハルアキを困らせてやろう……サナヱはそう考えた。
 もちろん、熟練の武闘派陰陽師である彼女には、どのような場面でも桜子を守れる自信がある。

 とはいえ今は、桜子が間借りする下宿の大家であるシゲ乃の居候の子供である。七歳の幼女を演じなければならない。
「上野ならそんなに遠くないから、天気もいいし、歩こっか?」
 桜子が前屈みにサナヱと視線を合わせる。けれど彼女はぷいとそっぽを向いた。
「電車に乗りたいの」
「でも、電車に乗ると、ゾウさんは見えないわよ?」
「いいもん。電車の方が好きだもん」

 ――その時サナヱは、桜子の目がキラリと光るのを見た。
 桜子はニヤリと口角を上げた。
「……じゃあ、行先を変えて、電気鉄道で帝釈天のお参りってのはどう?」

 計画通り――!

 サナヱはほくそ笑いを抑え切れず、めいっぱい明るい笑顔を浮かべて見せた。
「大きいお寺のお参り大好き! シゲ乃おばちゃんによく連れてってもらうんだ。それでね、お団子を買ってもらうの!」
「そうなのー、帝釈天の草団子も美味しいわよ。お昼はおかめそばにしよっか?」
「うん! おそば大好き!」

 そうして二人は、手を繋いで柴又へ向かう電気鉄道に乗ったのである。

 電車に揺られ、参拝客で賑わう柴又駅に降り立つ。駅から帝釈天へは近い。参道を真っ直ぐ進むだけだ。
 何を食べようか……と、他愛のない会話をしながら参道を進んでいると、前方に人だかりがあるのが見えた。
 ハルアキが慶司を置いて逃げ出した、あの現場である。

 野次馬根性で桜子は人だかりに入っていく。そして、周囲の人だかりが一斉に散ったところで状況を認識した。

 ――久世慶司が、大振りの出刃包丁を振り回している。

 隣の魚屋の店主が何やら叫んでいるところを見ると、そこから盗んだのだろう。
 だが、正気でない形相で無茶苦茶に包丁を振り回す彼を、止められる者はいないようで、蜘蛛の子のように散った先で、「早く警察を呼べ!」と声を上げるのが精一杯だった。

 これはまずい……と、サナヱは桜子に駆け寄る。
「お姉ちゃん……!」
 しかし、桜子に動じる様子はない。逆にサナヱのおかっぱ頭をポンと撫でて、
「サナヱちゃんは、後ろの方で待っててくれる?」
 と笑い返すほどだ。

 サナヱは一度、桜子の活躍を間近に見ていた――怪盗・鴉揚羽として。
 だから、ある程度の心得が彼女にあるのは知っていた。けれども、相手は正気を逸した上、出刃包丁を持っている。何かあれば無事では済まない。

 だが、桜子の笑顔は拒絶するのを許さなかった。
「後でおかめそば食べようね」
 と、彼女はサナヱの肩を軽く押した。

 こうなったら、サナヱも覚悟を決めざるを得ない。桜子の視線が慶司に戻るやいなや、天水桶の陰に身を隠す。そして、懐から黒い手袋を取り出した。

 赤い糸で五芒星が刺繍された、式神の召喚に使うものだ。

 それを右手にはめ、サナヱは桜子に目を戻す。
 ……もし彼女に何かあれば、零に合わせる顔がない。何としても無事に、彼女をあの屋敷に帰さねばならない。この人だかりで正体を明かすのは避けたいところだが、それも致し方ないだろう。

 一方桜子は、魚屋の店先で腰を抜かしている天秤棒担ぎの老婆に目を向けた。ここで魚を仕入れて売り歩くのだろう。この現場に居合わせてしまったのは、不運としか言いようがない。
 桜子はそんな老婆に歩み寄り、天秤棒を手に取った。
「ちょっと借りるわよ」

 そして、慶司に向き直る。
 彼も桜子に気付いた様子で、血走った目を剥いて、出刃包丁を振りかぶった。
「うわあああああ!!」
 口角から泡を飛ばして喚きながら、慶司は桜子に突進する。桜子の危機を察した誰かが、甲高い悲鳴を上げた。

 その悲鳴が消えきらないうちに、決着は付いた。
「でやあああっっ!!」
 上段に構えた天秤棒が、目にも止まらぬ速さで宙を裂く。その先端が正確無比な精度で慶司の眉間を叩き、彼の意識は虚空へと飛んでいった。

 天水桶の陰で、サナヱは唖然と、慶司の体が地面に転がるのを眺めた。
 たった一閃で、大の男をのしてしまった……。

 確かに以前、彼女の大立ち回りは見ている。しかしあの時は、ハルアキの式神の助力があったのだ。
 まさか彼女自身が、これほどまでの薙刀使い手だったとは……!

 サナヱはブルッと首を震わせた。
 僕は大きな勘違いをしていたのかもしれない。桜子のお守りとは、彼女を危険から守るのではなく、彼女危険だから見張る役割だったのか。
 その役目は、僕の手には余る気がする……。

 だが、感慨に浸っている余裕はなかった。誰かが呼んだ警官が到着したのだ。
「あ、お巡りさん」
 桜子は呼吸ひとつ乱さず、平然と警官を迎えた。
「気絶させただけなので、すぐ目覚めると思いますよ……彼の家、ここから近いんで、そこで介抱したらどうです?」

 それを聞いて、サナヱは魚屋の脇の用水路へと駆け出した。
 ハルアキ、そして零の姿がここにないという事は、未だ片が付いていないのだろう。そんなところへ警官隊が到着したら一大事である。
「全く、困った坊や達だ……」

 用水路を飛び越えるその姿は、黒のケープを纏っていた。
 鴉揚羽は、体重のないもののように宙を舞い、竹藪に囲まれた屋敷へと飛んでいった。
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