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第四章 決戦
5-25 螺旋
しおりを挟む「――早く戻ってこいよ、シナモン」
シナモン様の深紅が揺らぎ、紫色の光が、瞳の奥に宿る。
「シナモン様」
私はウィル様の背中から手を離し、スッと一歩前に踏み出す。
「ミア嬢……」
シナモン様はウィル様から私へと視線を移す。やはり、瞳はもう真紅ではない。紫が――シナモン様が、少しずつ戻ってきている。
「覚えておられますか? シナモン様は、私たち家族のことを、助けてくれました」
「……助けた? 私が?」
「ええ、そうです。私は、オスカーお兄様が大怪我をしたとき、血を見て動転し、自分のすべきことを見失ってしまいました。あのときに私を闇の淵から救い出してくれたのは、シナモン様でした」
シナモン様は、紅と紫の混じり合った瞳で、私をただじっと見つめている。
強く気高く高潔だったシナモン様はなりをひそめ、今は足元が揺らいでいるように、どこか心許ない。まるで、暗闇に怯える、ひとりぼっちの子供のようだ。
「シナモン様が私の心を支えて、闇から助け出してくれたから、私はお兄様の命を救うことができました。ですから、シナモン様には、とても感謝しているんです。私にとっても、兄や両親にとっても、シナモン様は、私たち家族を救ってくれた、英雄ですわ」
「英……雄……」
シナモン様の瞳に、さらに紫色の光が戻り来る。
ウィル様は、畳みかけるように話を続けていく。
「それだけじゃない。ファブロ平原での大規模魔獣討伐作戦。ベルメール川流域の堤防工事。クリフ鉱山崩落事故における救出任務」
「それは……」
「まだあるぞ。エーデル宝石商絡みの連続強盗事件。王都における呪物調査。それから――魔女の護衛」
ウィル様は、そこで一度言葉を切ると、にやりと口端を上げる。
「全て、お前が関わり、成功に導いた任務だ。救われた人数は、百、二百……数えきれない」
「お前……私の関わった任務を全て覚えて……?」
「――お前が入団してから、二年だ。たったの二年で、お前は、それほど多くの人間を救ったんだぞ。それは誇るべきことだ。お前に救われた数百人にとって、お前はまさに英雄だろう」
「……っ、『英雄』」
「それに、お前には、俺と違って未来がある。これから十年、二十年……現役を引退するまでに、数千人もの人々を助けることになるだろう。――俺は、お前が羨ましいよ」
そう言って微笑むウィル様の横顔には、隠しようもない寂しさが滲んでいる。
……口では後悔していないと言っていても、やはり、魔法騎士としての未来を諦めるのは辛かっただろう。
「ウィリアム……お前……」
ウィル様が得た力と引き換えに、失ったものの大きさ――ようやくシナモン様も、それに気がついたようだ。わなわなと唇を震わせている。
「シナモン。今はまだ自分を認められないのかもしれないが、お前は今後、確実に魔法騎士団最強の一角となるだろう。俺が居ようが居まいが、まだ閉ざされてなんかいないんだよ。お前が真実、英雄になる道は」
「私は……、私は……! う、うああああ!」
シナモン様は、ついに魔剣を手放してしゃがみ込み、両手で頭を抱えてうずくまった。
絶望と、希望。
悲しみと、喜び。
弱さと、強さ。
――彼女は、心の中で、負の感情と、魔族と戦っている。
「シナモン、戻ってこい」
「シナモン様、どうか帰ってきて」
私たちも、願いを込めてシナモン様に呼びかける。
――しかし。
「……弱い、な」
ゆらり。
頭を抱えていた腕は脱力し、ふらふらと、シナモン様は立ち上がる。
再び発した彼女の声は、二つに重なり、冷たい何かを滲ませていた。
「弱いな、私は」
「弱いな、お前たち人間は」
一つの口から、二つの言葉が同時に漏れ聞こえる。
「甘くて、反吐が出る」
「甘くて、反吐が出る」
「……シナモン?」
シナモン様の様子が、明らかに変化した。
ウィル様は聖剣を再び構え直し、私は斜め後ろに数歩、下がった。
「もう、私は戻れない」
「もう、我は手放さぬ」
「私は、お前たちを裏切り罵った」
「我は、ようやく強い身体を手に入れた」
「私の剣で、もっとたくさんの人を、守るはずだった」
「我が策で、全てを魔に、闇に帰すはずだった」
「だが、こうなってしまっては今更、私の剣では誰も守れない」
「だが、ここまで来て、忌々しくも、我が策は全て覆された」
「私は」
「我は」
「私は、英雄にはなれない、弱い人間だ!」
「我は、最強の王となるべき魔族なのだ!」
シナモン様の悲憤が。苦悩が。悔恨が。
魔族の野望が。執着が。傲慢が。
再び混じり合い、螺旋を描く。
螺旋は加速度を増して、紫が深紅から分かたれそうになったそのとき。
――ぶわり。
漆黒が膨れ上がり、シナモン様の身体を包み込む。
絶望の漆黒は、シナモン様の身体を離れるや否や、鋭い殺意を持って、まっすぐにウィル様へと向かっていったのだった。
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