恋する閉鎖病棟

れつだん先生

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第1章 閉鎖病棟

第3話 挨拶

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 ぼんやりとロビーの椅子に座り、テレビを見たり読書をしたり、たまにロビーにやってくるたれ目の彼女――今後は真理さんと述べる――の姿を舐め回すように見たり、そういうことで時間を潰していると、昼飯の時間になったようで、ひとりひとり名前が呼ばれる。しばらく待つと僕の名前が呼ばれ、トレイを受け取る。今日はご飯、サラダ、ブリの照り焼き。僕は魚関係でもブリの照り焼きが大好きなので、今日の食事は楽しそうだ。ひとつ問題があるとすれば、朝もそうだったのだが、全体的に量が少ない。若い僕――いや、もう若くはないか――からするとまだまだ食べ足りない。それを物語るように、ひとりの爺さんは昼飯をすばやく処理し、部屋からカップラーメンを持ってきてそれにロビーにある給水器でお湯を入れ、ずるずると食べている。そういやラーメンも久しく食べてないな、と思いながら爺さんを見つめていると、カップラーメンを食べ終わったのか、僕の方へと近づいてきた。
「あのぉ、昼飯は、まだかいのう?」
 そのままただ髪の毛を伸ばしました、というレベルのボサボサ感に加え、ほとんどが禿げ上がっている頭につい目がいってしまう。「いえ、昼飯はさっき食べましたよ」と僕が言うと、「あら、もう食べましたか、ありがとうございます」と言い、にっこりと笑って自室へと戻っていった。ボケているんだろう。

 昼飯を食い終わったが、当然することはなにもない。事前に持ってきておいた小説を読んで時間を潰していると、見たことのない女性が二人ロビーに入ってきたのが見えた。テレビを消して機材をロビーに持ち運び、なにやら色々セッティングをしている。タイミングよく担当の看護師がやってきたので、これからなにをするのか聞いてみた。作業療法というのが行われるらしい。今日は水曜日なので、音楽鑑賞をするようだ。担当の看護師が、参加しろ参加しろとうるさいので、――真理さんも参加しているという理由もあるのだが――うまい具合に真理さんの隣に座る。テーブルの上に運ばれたレコードやCDの類を手に取り、かけたい音楽があれば紙に書いて提出するらしい。それをみんなで聞く、と。聞きたい曲もあまりなかったので、紙が回ってきてもすぐに真理さんに手渡した。他の人たちが選んだ曲が流れ、最後に真理さんが選んだ安室奈美恵が流れた。真里さんは安室奈美恵世代か。実際のところ、何歳ぐらいなんだろう? 女性に年齢を聞くのもどうかと思うし……。そんなことを考えていると、音楽鑑賞も終わり、真理さんは自室へと帰って行ってしまった。なにも話せなかった。進展なし。進展なし!

 なにやらちょいちょい気になるのだが、愛しの真理さんと仲良さそうに喋る中年男性が、いちいち目に入って仕方がない。別に恋愛関係になっているというわけではないので、そんな些細なことに嫉妬していても仕方ないんだけど、気になって仕方がない。僕だってその輪に入りたい! 真理さんと仲良く会話したい! しかし、当然僕にそんなこともできるはずがなく、ロビーの端っこで読書をするのみ。真理さんは基本的には女性陣の中にいるのだが、女性陣がいなくなると、たいていその中年男性か十代ぐらいの女の子と一緒にいることが多い。声をあげて笑ったりもしている。僕だって真理さんを笑わせられるというところを見せなきゃならないのだが、そんなこともできるはずがなく、ただ読書。やっと集中力が戻ってきたのか、ただ時間が有り余るせいなのか、家にいるときの数倍のペースで読書ができている。入院してからこの二日間で、もう三冊も読んでしまった。怪我の功名といえるだろうか。何度も何度も言っていることなのだが、本当に、読書をするか真理さんを観察するか、飯を食うか寝るしかすることがない。携帯は未だ没収されたままなので、日課としていた掲示板に書き込みすることも、外界の誰かに連絡をとることさえできない。歯ぎしりをしたい気分だった。しかし、逆にも考えられた。なにもすることがないということは、なにもしなくていいということでもある。これが平和というものなのだろうか。自宅にいれば、することはたくさんある。一人暮らしなので、炊事、洗濯、掃除、風呂、外出、そういったものすべてから解放されているというのは、実はかなり住みよい世界に入ったのではないだろうか、と。そう考えると幾分気持ちは楽になった。僕は読書をするか真理さんを観察するか、飯を食うか寝ることしかしなくていいのだ。
 しかし一点だけきついことがあった。この病院は、二〇〇七年から施設内全面禁煙となっている。十代から喫煙者で、一日一箱煙草を吸っている僕にとって、煙草が吸えないというのは地獄に等しかった。特に飯を食った後の一服がたまらなく欲しく感じた。

 真理さんは今女性陣と談話している。ひとり面白い人がいた。これは後から聞かされたことなのだが、僕と同い年で、なにを喋っているのか全然わからず、薬の影響でふらふらとした男が、女性陣の中へ入っていった。それもスムーズに。コミュニケーションを取っている! 僕には到底できないことを、僕より症状が酷いであろう男が。僕は激しい嫉妬にかられた。しかし、僕になにができるわけもないので、ただ読書をした。当然、読書をしても文章が頭に入らなかった。僕だってたれ目の彼女と話がしたい! そのためなら、なんだってなげうってやる自信がある! 僕は勢いのまま立ち上がった。そして数秒後に座った。ちょうどトイレに続く道の横に座って話していたので、尿意を催してもいないのにも関わらず、トイレに立った。ちょうどトイレから出てくると、あのボケたお爺さんがまた僕に、「飯はまだですか?」と聞いた。僕は看護師ではないんだよ! と思いながら、ロビーの壁のかけ時計を見て、まだ一時にもなっていなかったので、「あと四時間半後に晩飯ですよ」と教えてあげた。病院の晩飯は早い。五時半だ。
 気づけば真理さんは自室に戻っていた。となると、僕がこのロビーにいる意味もなくなる。自室に戻ろうと廊下を歩いていると、なんと真理さんとすれ違った。「こんにちわぁ」と声をかけられたので、僕は緊張でつい立ち止まってしまい、振り向いて「こ、こんにちわ!」と搾り出すようにして声を出した。真理さんと話をした! いや、単なる挨拶だけじゃないか、というかもしれないが、僕にとっては大きな出来事だった。真理さんとまた話をしたのだ! 少しずつ仲良くなっていっている! そう実感した。
 自室で寝転がって天井を眺めながら真理さんのことを考えていると、「こんにちわ」という声と共にカーテンが開けられた。「今からOT――作業療法の略称――をするのでもしよければ参加どうですか?」と、薄着をした二十代後半から三十代前半ほどの女性がやってきた。今日は、ストレッチとゲームだと告げられた。乗り気ではなかったが、もしかすると真理さんも参加するかもしれないと思い、ロビーへと向かった。やはり参加していた。僕は内心ガッツ・ポーズをした。しかし、根が人見知りでできている僕がそこに参加できるわけはなく、ただ椅子に座ってそれを眺めていた。ゴルフのパットみたいなことをし、その先にはたくさんの穴が開いてあり、それぞれに点数が振ってある。点数が高かった人が勝ち、というゲームだ。五人ほどの男女が、そのゲームを楽しんでいた。当然真理さんも。高い点数に入れた中年女性が、歓声を上げている。僕はそれを、片肘をつきながら見ていた。真理さんとああして楽しそうにゲームをできれば、どれだけいいだろうか。勇気を出して参加するべきか否か――と、考え続けていると、ゲームが終わった。次はストレッチだ。ストレッチには僕も参加した。座ったまま体を動かすというストレッチで、これがなかなか疲れる運動になった。
 そしてそれも終わり、スタッフの女性が片付け、はい! なにもない時間が訪れた。真理さんがロビーにいることだけが僕の救いだ。
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