影武者の天下盗り

井上シオ

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最終章:偽りの果てに咲く

第88話:影武者の恋

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 月明かりが射す安土城の庭園。
 濡縁に腰を下ろし、十兵衛は湯呑を手にしていた。

 静寂。
 かつてここで見た信長の背中を思い出す。何も語らず、すべてを背負っていた男。
 

 ――あの男の代わりに、俺がここにいる。
 

 そこに、足音がひとつ。

 「……お邪魔でしょうか」

 おみよだった。
 

 「構わぬ。……少し話をしたいと思っていた」

 彼は隣を手で示す。おみよは静かに座り、しばらく黙って夜風を感じていた。
 

 「おみよ。お前は……俺の何を見て、いまの“俺”を信じると言った?」
 

 「目よ」
 

 「目?」
 

 「嘘をつく人の目は、どこか揺れる。でも……あなたの目は、何かを守ろうとしていた。誰かを騙す目じゃない。“名”を背負って、誰かのために生きてる目だった」
 

 十兵衛は、湯呑を置き、膝に手を置いた。
 

 「俺はな、夜が怖くて仕方なかった」
 

 「……?」
 

 「信長として寝て、起きて、命令を出す。毎夜毎夜、“十兵衛”が擦り減っていく音がした。だが……お前の言葉で、やっと気づいた」
 

 「……何に?」
 

 「俺は、“影”としてじゃなく、“誰か”のために生きたいんだと」
 

 ――おみよが、そっと手を伸ばし、十兵衛の手を握った。

 かつて土まみれの田んぼで、肩を並べて笑ったふたりのように。
 

 「じゃあ、せめて……夜だけは、あなたの名前でいていい?」
 

 「……“十兵衛”として、か?」
 

 おみよは頷き、涙をこぼした。
 

 「昼は信長様でかまわない。でも夜くらいは、昔のあなたに戻って。……私が知ってる、優しくて、弱くて、だけどまっすぐだった男に」
 

 十兵衛は、そっとその涙を指で拭った。

 そして、一言だけ呟いた。
 

 「……ありがとう。俺は……生き直せる気がする」
 

 月は静かに、ふたりの影を照らしていた。
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