年下幼馴染から逃げられない

南ひかり

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16話 後悔

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 まだ少し肌寒い風が、頬を撫でた。
 真っ暗になったエントランスのソファに足が向かう。うなだれるように座り込んだ瞬間、がくりと体の力が抜けた。
(なんで今更……)
 あの時のことは、もうとっくに乗り越えたはずなのに、まるで昨日のことのように思い出してしまう。
 途端に吐き気がこみ上げてきた。軽くえづいて、呼吸を整えようと深く息を吸った。ソファの背もたれに体重を預けて、ぼうっと高い天井を見つめる。
 あれ以上の地獄を、私はまだ見たことがない。いや、きっとこの先目にすることもないだろう。
 祖母は優しい人だったけれど、娘を失った悲しみから病弱になり、私が二十歳の時に他界した。
 それからずっと、一人で生きてきた。
 それが当たり前だと思っていた。だから、きっとこれからも一人で生きていけるはずだった。
 努力すれば、思い描いた通りの道を真っ直ぐ進めるはずだと――。
(でも、人生は上手くいかないなあ)
 嗚咽を我慢してきつく唇を噛みしめた。目に見えていたはずの幸せは全てが偽物で、それがたった一日にして崩壊することを知った。望んだ未来はいつも幻のように消えていく。
 他人に、社会に、世界に、最初から期待などしない。そんなものは期待するだけ無意味だ。
 誰かに縋るするほど破滅へ向かって、期待した分だけ絶望を知る。いつだってその繰り返しだ。
 だから私は一人でいい。
 全ての荷を自分で背負い、自分の足だけで生きていく。
 だが、社会がそれを許さない。
(まあ、こんな人間が……幸せになりたいなんて望む方が間違ってるのかもしれない)
 自嘲するようにため息を漏らして、足を組み替える。
(悠は……ずっとあの時の言葉を……)
 正直、今でも信じられない。
 けれど悠があの時の口約束を本気で叶えたからこそ、この現実があるのだろう。
 悠は自分で努力してここまで上りつめた。
 分かっているのに、それでも許せない自分がいる。
(いつか分かる、って……一体何の話よ)
 理由があるならなぜ話してくれないのだろうか。
 なぜ私の邪魔をするのだろうか。そのいつか、がいつ訪れるかも分からないというのに。
 ――けれど。
(傷つけただろうな)
 悠が本当に私のために起業したというのなら、裏切ったのは私の方だ。
 そもそも、私がハワイに行く前に有澤ロイヤルの倒産は確実に決まっていたはずだ。
 本当はきっと、倒産して無職になる未来だったのだ。それを悠が救った。
 ちくりと胸が痛む。
 頭ごなしに叫んで、被害者面して悠を拒絶してしまった。今更、少し冷静になって傷ついた悠の顔が頭に浮かぶ。
 ――どんな気持ちで、私を引き留めたのだろう。
 そんなこと、考えたこともなかった。
(……戻ろう)
 頭を左右に振って切り替える。重い足取りで再びエレベーターに乗って最上階のボタンを押した。
 胸の内がざわめく。今更になってとんでもないことをやらかしてしまったのではないかと、鼓動が早くなった。
 謝ろう。さすがにあの態度はない。これじゃあどちらが子どもなのか分からない。感情的になりすぎてしまった。
 社長室の前で一度深く息を吸って、呼吸を整える。コンコンと二度ノックしたが、返事はない。おそるおそるドアノブを回して中へ入ると、悠はうなだれるようにソファに腰掛けていた。

「ゆ、悠……さっきは……」
「ちーちゃん……」

 謝る前に悠の言葉が遮った。悠が縋るように私を見上げる。
 その瞳にはうっすらと涙が浮かんでいるようにも見えた。唇を震わせながらやっとの思いで悠が口を開く。

「俺……やっぱりだめっ……?」
「え?」
「まだ迎えにいくのは早かった? それともやっぱり、俺じゃだめ? ちーちゃんを幸せにはできない……?」

 悠がぐすっと鼻をすすった。捨てられた子犬のような瞳で見つめられ、その手は何かに耐えるようにぎゅっと握りしめている。
 自分に自信がなくて、泣き虫で、私がいないと何もできないかつての悠の姿だった。
 あの頃は、しっかりしなさいと背中を叩いて活を入れていた。
 ――けれど。
 気づいたときには先に体が動いていた。
 悠の隣に座って、不安に覆われた体をそっと抱き寄せる。
 ぽんぽん、と優しく頭を撫でると、悠の手がそっと背中に回された。

「ごめんね、悠」

 その謝罪がどういう意味なのか、自分でもはっきっりとした答えは見つからなかった。
 だが少なくとも、思い通りにいかない人生を、すべて悠に押しつけてしまうのは間違っている。この子はこの子なりに苦労して、私のためを思ってやってくれているというのは、心のどこかで分かっていた。
(いつか分かる、か……)
 胸の奥底で渦巻いていたものが、ほんのすこしだけ消えてなくなったような気がした。
 肩に顔を埋めながら、悠が小さく頷いたような気がした。ぎゅっと強く抱きしめられて体温が触れる。
 温かい。人の体温がこんなに温かいものだとは知らなかった。凍った心が少しずつ溶けていくように体の力が抜けていく。
 静寂が、その場を支配した。
 けれど決して凍てつくような空気ではない。むしろ酷く心地いいものだった。

「……いつかちゃんと、話してくれる?」
「……うん」
「じゃあ、もういい」

 ――ここでまた一から、頑張ろう。
 傷ついていたのは、きっと私だけじゃない。
 細い髪をさらりと撫でると、甘えるように頬を寄せてくる。それを可愛いと思ってしまう自分は、あの頃に比べて随分と大人になってしまったのかもしれない。
「ちーちゃん大好き……」
 泣き出してしまいそうな声でそう言って、背中に回された腕の力が強くなった。
 まだまだ仕事は山積みだ。
 けれど今はまだ、この温かさに触れるのも悪くはないだろう。
 
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