17 / 27
17話 東京
しおりを挟む
◆◆◆
「おはようございます!」
朝早く、社長室に入ってきた笹桐さんはなんとも不機嫌そうな表情で立ち止まった。
その場で左右を見渡したあと、無言のまま中へ入ってくる。
「笹桐さん、本日のスケジュールですがこちらで間違いがないかご確認いただけますか」
ファイリングした資料と取引先リストを笹桐さんに手渡す。
すると今度は眉間にしわを寄せて私と資料を交互に見つめる。
「……何か企んでいるのか」
「へ?」
思わず間抜けな声が漏れた。
「なぜ君が先に出社している。しかも、こんな仕事まで」
「え、ええ……笹桐さんの業務を減らせるようにと……いけませんでしたか?」
おそるおそる答えると笹桐さんは一瞬目を丸くする。
気まずい空気が流れたまま、険しい目つきでページに目を通していく。
「……これで問題ない」
少し悔しそうに唇を噛んで、荒っぽく資料を返される。
「ありがとうございます。珈琲の用意をしますが、笹桐さんもいかがですか?」
「私は必要ありません」
「承知しました」
駆け足で給湯室へ向かう。なんとか第一関門は突破といったところだろうか。ほっと息をついて悠お気に入りのカップを取り出す。お湯が沸くまで数分、その間に頭の中でもう一度予定を整理する。
全体朝礼を終えてすぐに静岡の取引先へ訪問。そのまま改装オープンする伊豆のホテルの視察。夕方には都内に戻りレストランの新メニューの試食会、そして夜はまたパーティーだ。
(相変わらず忙しい一日)
それも休みなく働いているのだ。帰宅する時間だって日付が変わってしまうことも多い。
悠はそれを一切顔に出さずに、淡々とこなしていく。今更になってそれがどれだけ凄いことなのか思い知る。
(負けてられないなあ……)
ふっと苦笑を漏らす。不思議だ。昨日までの自分では考えられない感情だった。懐かしさに絆されたというか、思い出に負けたというか――けれどあの時の言葉を信じて努力してきた幼馴染を裏切るほど、冷徹ではなかった自分にも少しほっとしている。
本音をいえば、軽い約束を交わしてしまった自分に少しだけ後悔はしている。だがそれ以上に、きっと私はあの言葉に救われたのだ。
それは、自分が思っているよりもずっと大きなものだったのかもしれない。
ちょうどお湯が沸いてマグカップに注ぐ。毎日のルーティンのように朝は珈琲だが、意外にこだわりはないようでインスタントメーカーを使用している。これは横浜ホテルの各一室に備え付けているメーカーと同じもので、常に顧客の立場になってあらゆる珈琲を試飲し、その中から厳選しているという形に近いかもしれない。つまりこれもまた、仕事の一環なのだろう。
「ちーちゃん、おはよう」
ゴミを片づけて社長室に戻ろうとした時だった。
ちょうど悠が出勤してきたようだ。ひょっこりと顔を覗かせてこちらに近づいてくる。
「おはようございます」
自分でも驚くほど柔らかい声色だった。どうやらもう、ほとんど吹っ切れているらしい。
「俺が持つよ」
悠が嬉しそうに手を伸ばす。けれどこれは私の仕事だと言うと、くすくすと笑って一緒に社長室へと向かった。
⇔
目まぐるしいほど時が過ぎるのは早い。
もはやすでに、朝の記憶がほとんどないのである。
笹桐さんが運転する車は首都高を抜けスカイツリーを一望できるホテル・ヴィラーチェへと到着した。
分かってはいるが、こうも連日続くパーティーに悠は大丈夫なのだろうか。皮肉にも日本は名ばかりの信頼を語り、実力ではなく交友によって築きあげていく圧倒的コネ社会だ。リゾートホテル王とはいえ、この会社はまだ浅い。老舗や大手の弊害も大きいのは見て取れる。それを毎回さらりとかわさなければならない悠も大変だ。
そんなことを考えているうちにホテルが見えてきた。バックミラー越しにちらっと後部座席の悠を見る。書類を片手に持ってはいるが、瞼が閉じてこくこくと首がすわっている。疲れているのは目に見えて分かった。
(どこかで休ませてあげられないかな)
多くの人が集まるパーティーだ。少しぐらい抜けたところでバレないだろう。
だがそんな考えを見透かしたように運転する笹桐さんがギロリと睨みつけてくる。
思わず、うっと喉がひきつった。余計なことはするな、と目が訴えかけている。パーティーが大切な社交場であるということは分かっている。分かっているが、乗り気はしない。
気まずさに窓の外に視線を向けて過ぎゆく景色を眺める。
東京に来て数年。この煌めく景色に心が高揚すると同時に、ひどく寂しい気持ちになる時がある。その正体は未だに何なのか分からない。けれど決まって、過去の思い出が走馬燈のように過ぎるのだ。
一人で生きていくと、決めたはずなのに。
こつんと窓に額をつける。その冷たさにかつての過去が凍りついていくかのように頭から消えていく。
そう、振り返られないと決めたのだ。
だってもう、過ぎた時間は戻らないのだから。
ホテル・ヴィラーチェ
チャペルを併用している欧州風の建物は、異国の地に迷い込んだと思うほど絢爛豪華な内部だった。ドレスコード必須だったため、悠が用意してくれたネイビーのドレスを着て受付を済ませる。
鏡面に映る自分の姿を見て、思わず口元がゆるんだ。スカートがふんわり広がる膝丈のミディアムドレスは、自分には少しフェミニンすぎるのではないかと思っていたが、シルエットが美しい。バックの編み上げがウエストを引き締め、9cmのピンヒールのおかげで足も長く見える。普段の姿とはまるで別人のようだった。さらにはプレゼントだと手渡されたプラチナのネックレスとブレスレッド。高級ブランドのロゴが刻まれたボックスに、こんなものは受け取れないと突っ返したが、これも仕事着のひとつだと言われてしまえば、受け取るしかなかった。
「やっぱりこのドレスにして正解だったな。よく似合ってる」
周囲の目もはばからず、悠が満足気な笑みを浮かべてそう言った。
頭の先から靴の先までまじまじと見つめられて、恥ずかしさに視線を逸らす。
「あんまり見ないでよ……」
「だって可愛いんだもん」
すると半歩ほど開いていた距離を詰めて、悠がおもむろに耳元に唇を寄せる。
「俺が選んだものでちーちゃんを着飾れるなんて、最高に幸せ」
ぞくぞくと背筋が震えあがった。誰にも聞こえないような声で囁かれ、慌てて距離を取る。
突然のことに耳を両手で塞ぐ。何か言葉を紡ぎたかったのに唇をぱくぱくと開くだけで何も言葉が出てこない。
「ふふ、ちーちゃん顔真っ赤」
「っ……あのねえ!」
「早く行きますよ」
笹桐さんの冷たい視線が突き刺さり、ひとまずそこで落ち着いた。
フロアへと足を踏み入れる。最初の頃はこの雰囲気にのまれてしまいそうだったが慣れとは恐ろしい。気づけばどのパーティーも同じように見えてきて、あとは淡々と挨拶周りを終えればいいだけだ。
悠が会場に踏み入れると、一部のグループから視線が集まった。蟻の行列のように悠に近づいてくるとひとりずつ名刺を取り出してすぐさま挨拶する。取引先リストにもない顔ぶれだ。おそらく初対面で取引を狙う中小企業だろう。
軽く談笑をしながら、笹桐さんは別の人物へと目を向けていた。視線を追いかけると、そこにはパーティーの主催である末次義美社長の姿があった。幸い今は囲いの人が少ない。
笹桐さんが悠に視線を送る。悠はそれを察知するとその場を後にして末次社長の元へ向かった。
「ご無沙汰しております、末次社長」
「おお相模君。久しぶりじゃないか!」
末次グループとは主にレストラン事業部で交友があった。だがこの社長、あまりいい噂は聞いたことがない。その手腕っぷりは評価されてはいるが、社員を奴隷のようにこき使い、内部分裂も多いと聞く。
前職でも関わりはあったが、末次グループを担当していた営業部の社員が次々と辞めていったことを思い出す。それだけ無茶ぶりが多く、普通の人間には手に負えないということだ。
だがそのかわり、気に入られてしまえばこちらのものだ。幸い悠は末次社長に気に入られているようで、ビジネスライクの関係も成り立っている。だがそれもいつ崩壊するか分からないものなのだが。
(あれ……?)
その時だった。妙な違和感を覚えて首を傾げる。普段から姿勢のいい悠がほんのわずかに前かがみになっている。愛想のいい笑顔を浮かべてはいるが、肌が青白く口数が少ない。
なんとなく嫌な予感がした。胸がざわついて、このまま放置してはいけないような気がする。
するとちょうどいいタイミングで他の人間が末次社長に声をかけた。人が話している最中になんとも無礼な男だと思ったが、最高の機会だった。
「それでは末次社長、失礼いたします」
一歩前に出て無理やり話を切り上げる。また誰かに声をかけられる前に、強引に悠の手を引いてフロアを出た。
「ち、ちーちゃん!? どうしたの……?」
「いいから」
近くにいたホテルマンに部屋の空きがないか調べてもらった。39階のセミスイートが空いている。金額のことはいい、とにかくそこを一泊借りますとだけ伝えて先に悠を部屋に連れていく。
「ちーちゃん!? え!? どういうこと!?」
部屋に入るや否や、全く状況の読み込めていない悠をベッドに寝かせて、半ばむりやりジャケットをはぎ取った。
「体調悪いんでしょう? 少しでいいから寝てください」
その言葉に悠が言葉を詰まらせた。追いかけてきた笹桐さんもまた同じ反応だった。
「パーティーはまだ始まったばかりだし、少しぐらい抜けても大丈夫でしょう。とにかく少しでも休息を取ってください」
悠は何も言い返さず俯いたまま布団の端を握りしめた。
もっと早く気づくべきだった。疲れていないはずなどない、分かっていたはずなのにそれを放置した自分に責任がある。
「……ホテルのチェックインは私がしてきます。パーティーもお任せください」
「笹桐さん?」
「貴方は社長についていなさい」
その声にいつもの怒気は含まれていなかった。笹桐さんもまた自分に憤りを感じているのかもしれない。
喧噪から離れ、久方ぶりの静寂に包まれる。
窓の外は明るく、一面に東京の夜景が広がっていた。
ここで生きている。この街で人混みに飲み込まれ、数々の理不尽を乗り越えながら、それでもここまで上り詰めてきた。あの日の約束のためだけに。
「……なにか、してほしいことはある?」
窓の外に視線を向けたまま、そう呟いた。
反応がない。もう寝てしまったかと思って振り返れば、穏やかな顔をした悠と目があった。
「じゃあ添い寝して?」
「はあ!?」
「だってなんでもしてくれるんでしょ?」
きょとんと首を傾げる姿に、まさか仮病だったのではないかと一瞬頭に過ぎる。けれどあの場で嘘をつけるほど悠が他人を欺くことに長けた人間とは思ってはいない。
甘かった。てっきりお茶が欲しいだの、ご飯が食べたいだのそんなオネダリだと軽視していた。
悠がそういう方面で攻めてくるなんて予想もできたはずなのに。
頭を悩ませながらも、途中で考えるのは止めた。ベッドに近づいて端に腰掛ける。長い指先を手に取って優しく握りしめた。
「これで我慢して」
少し不服そうに悠が眉間にしわを寄せる。けれどそれ以上は何も言わず、ぎゅっと手を握り返した。
「……ずるいよね、ちーちゃんは」
目を閉じたまま少し掠れた声でそう言った。けれど文句は言わず、繋いだその手にこつんと額をあてて寝返りをうつ。
「大人はずるいのよ」
「確かに」
悠が苦笑する。握り返されたその手は温かく、やがて穏やかな寝息が聞こえてくる。
けれどその手の力は決して弱まらず、困ったように笑う。
触れる温もりから肩の力が抜けていく。あどけない寝顔を見つめながら、絹のように細い髪をさらりと撫でた。
「おはようございます!」
朝早く、社長室に入ってきた笹桐さんはなんとも不機嫌そうな表情で立ち止まった。
その場で左右を見渡したあと、無言のまま中へ入ってくる。
「笹桐さん、本日のスケジュールですがこちらで間違いがないかご確認いただけますか」
ファイリングした資料と取引先リストを笹桐さんに手渡す。
すると今度は眉間にしわを寄せて私と資料を交互に見つめる。
「……何か企んでいるのか」
「へ?」
思わず間抜けな声が漏れた。
「なぜ君が先に出社している。しかも、こんな仕事まで」
「え、ええ……笹桐さんの業務を減らせるようにと……いけませんでしたか?」
おそるおそる答えると笹桐さんは一瞬目を丸くする。
気まずい空気が流れたまま、険しい目つきでページに目を通していく。
「……これで問題ない」
少し悔しそうに唇を噛んで、荒っぽく資料を返される。
「ありがとうございます。珈琲の用意をしますが、笹桐さんもいかがですか?」
「私は必要ありません」
「承知しました」
駆け足で給湯室へ向かう。なんとか第一関門は突破といったところだろうか。ほっと息をついて悠お気に入りのカップを取り出す。お湯が沸くまで数分、その間に頭の中でもう一度予定を整理する。
全体朝礼を終えてすぐに静岡の取引先へ訪問。そのまま改装オープンする伊豆のホテルの視察。夕方には都内に戻りレストランの新メニューの試食会、そして夜はまたパーティーだ。
(相変わらず忙しい一日)
それも休みなく働いているのだ。帰宅する時間だって日付が変わってしまうことも多い。
悠はそれを一切顔に出さずに、淡々とこなしていく。今更になってそれがどれだけ凄いことなのか思い知る。
(負けてられないなあ……)
ふっと苦笑を漏らす。不思議だ。昨日までの自分では考えられない感情だった。懐かしさに絆されたというか、思い出に負けたというか――けれどあの時の言葉を信じて努力してきた幼馴染を裏切るほど、冷徹ではなかった自分にも少しほっとしている。
本音をいえば、軽い約束を交わしてしまった自分に少しだけ後悔はしている。だがそれ以上に、きっと私はあの言葉に救われたのだ。
それは、自分が思っているよりもずっと大きなものだったのかもしれない。
ちょうどお湯が沸いてマグカップに注ぐ。毎日のルーティンのように朝は珈琲だが、意外にこだわりはないようでインスタントメーカーを使用している。これは横浜ホテルの各一室に備え付けているメーカーと同じもので、常に顧客の立場になってあらゆる珈琲を試飲し、その中から厳選しているという形に近いかもしれない。つまりこれもまた、仕事の一環なのだろう。
「ちーちゃん、おはよう」
ゴミを片づけて社長室に戻ろうとした時だった。
ちょうど悠が出勤してきたようだ。ひょっこりと顔を覗かせてこちらに近づいてくる。
「おはようございます」
自分でも驚くほど柔らかい声色だった。どうやらもう、ほとんど吹っ切れているらしい。
「俺が持つよ」
悠が嬉しそうに手を伸ばす。けれどこれは私の仕事だと言うと、くすくすと笑って一緒に社長室へと向かった。
⇔
目まぐるしいほど時が過ぎるのは早い。
もはやすでに、朝の記憶がほとんどないのである。
笹桐さんが運転する車は首都高を抜けスカイツリーを一望できるホテル・ヴィラーチェへと到着した。
分かってはいるが、こうも連日続くパーティーに悠は大丈夫なのだろうか。皮肉にも日本は名ばかりの信頼を語り、実力ではなく交友によって築きあげていく圧倒的コネ社会だ。リゾートホテル王とはいえ、この会社はまだ浅い。老舗や大手の弊害も大きいのは見て取れる。それを毎回さらりとかわさなければならない悠も大変だ。
そんなことを考えているうちにホテルが見えてきた。バックミラー越しにちらっと後部座席の悠を見る。書類を片手に持ってはいるが、瞼が閉じてこくこくと首がすわっている。疲れているのは目に見えて分かった。
(どこかで休ませてあげられないかな)
多くの人が集まるパーティーだ。少しぐらい抜けたところでバレないだろう。
だがそんな考えを見透かしたように運転する笹桐さんがギロリと睨みつけてくる。
思わず、うっと喉がひきつった。余計なことはするな、と目が訴えかけている。パーティーが大切な社交場であるということは分かっている。分かっているが、乗り気はしない。
気まずさに窓の外に視線を向けて過ぎゆく景色を眺める。
東京に来て数年。この煌めく景色に心が高揚すると同時に、ひどく寂しい気持ちになる時がある。その正体は未だに何なのか分からない。けれど決まって、過去の思い出が走馬燈のように過ぎるのだ。
一人で生きていくと、決めたはずなのに。
こつんと窓に額をつける。その冷たさにかつての過去が凍りついていくかのように頭から消えていく。
そう、振り返られないと決めたのだ。
だってもう、過ぎた時間は戻らないのだから。
ホテル・ヴィラーチェ
チャペルを併用している欧州風の建物は、異国の地に迷い込んだと思うほど絢爛豪華な内部だった。ドレスコード必須だったため、悠が用意してくれたネイビーのドレスを着て受付を済ませる。
鏡面に映る自分の姿を見て、思わず口元がゆるんだ。スカートがふんわり広がる膝丈のミディアムドレスは、自分には少しフェミニンすぎるのではないかと思っていたが、シルエットが美しい。バックの編み上げがウエストを引き締め、9cmのピンヒールのおかげで足も長く見える。普段の姿とはまるで別人のようだった。さらにはプレゼントだと手渡されたプラチナのネックレスとブレスレッド。高級ブランドのロゴが刻まれたボックスに、こんなものは受け取れないと突っ返したが、これも仕事着のひとつだと言われてしまえば、受け取るしかなかった。
「やっぱりこのドレスにして正解だったな。よく似合ってる」
周囲の目もはばからず、悠が満足気な笑みを浮かべてそう言った。
頭の先から靴の先までまじまじと見つめられて、恥ずかしさに視線を逸らす。
「あんまり見ないでよ……」
「だって可愛いんだもん」
すると半歩ほど開いていた距離を詰めて、悠がおもむろに耳元に唇を寄せる。
「俺が選んだものでちーちゃんを着飾れるなんて、最高に幸せ」
ぞくぞくと背筋が震えあがった。誰にも聞こえないような声で囁かれ、慌てて距離を取る。
突然のことに耳を両手で塞ぐ。何か言葉を紡ぎたかったのに唇をぱくぱくと開くだけで何も言葉が出てこない。
「ふふ、ちーちゃん顔真っ赤」
「っ……あのねえ!」
「早く行きますよ」
笹桐さんの冷たい視線が突き刺さり、ひとまずそこで落ち着いた。
フロアへと足を踏み入れる。最初の頃はこの雰囲気にのまれてしまいそうだったが慣れとは恐ろしい。気づけばどのパーティーも同じように見えてきて、あとは淡々と挨拶周りを終えればいいだけだ。
悠が会場に踏み入れると、一部のグループから視線が集まった。蟻の行列のように悠に近づいてくるとひとりずつ名刺を取り出してすぐさま挨拶する。取引先リストにもない顔ぶれだ。おそらく初対面で取引を狙う中小企業だろう。
軽く談笑をしながら、笹桐さんは別の人物へと目を向けていた。視線を追いかけると、そこにはパーティーの主催である末次義美社長の姿があった。幸い今は囲いの人が少ない。
笹桐さんが悠に視線を送る。悠はそれを察知するとその場を後にして末次社長の元へ向かった。
「ご無沙汰しております、末次社長」
「おお相模君。久しぶりじゃないか!」
末次グループとは主にレストラン事業部で交友があった。だがこの社長、あまりいい噂は聞いたことがない。その手腕っぷりは評価されてはいるが、社員を奴隷のようにこき使い、内部分裂も多いと聞く。
前職でも関わりはあったが、末次グループを担当していた営業部の社員が次々と辞めていったことを思い出す。それだけ無茶ぶりが多く、普通の人間には手に負えないということだ。
だがそのかわり、気に入られてしまえばこちらのものだ。幸い悠は末次社長に気に入られているようで、ビジネスライクの関係も成り立っている。だがそれもいつ崩壊するか分からないものなのだが。
(あれ……?)
その時だった。妙な違和感を覚えて首を傾げる。普段から姿勢のいい悠がほんのわずかに前かがみになっている。愛想のいい笑顔を浮かべてはいるが、肌が青白く口数が少ない。
なんとなく嫌な予感がした。胸がざわついて、このまま放置してはいけないような気がする。
するとちょうどいいタイミングで他の人間が末次社長に声をかけた。人が話している最中になんとも無礼な男だと思ったが、最高の機会だった。
「それでは末次社長、失礼いたします」
一歩前に出て無理やり話を切り上げる。また誰かに声をかけられる前に、強引に悠の手を引いてフロアを出た。
「ち、ちーちゃん!? どうしたの……?」
「いいから」
近くにいたホテルマンに部屋の空きがないか調べてもらった。39階のセミスイートが空いている。金額のことはいい、とにかくそこを一泊借りますとだけ伝えて先に悠を部屋に連れていく。
「ちーちゃん!? え!? どういうこと!?」
部屋に入るや否や、全く状況の読み込めていない悠をベッドに寝かせて、半ばむりやりジャケットをはぎ取った。
「体調悪いんでしょう? 少しでいいから寝てください」
その言葉に悠が言葉を詰まらせた。追いかけてきた笹桐さんもまた同じ反応だった。
「パーティーはまだ始まったばかりだし、少しぐらい抜けても大丈夫でしょう。とにかく少しでも休息を取ってください」
悠は何も言い返さず俯いたまま布団の端を握りしめた。
もっと早く気づくべきだった。疲れていないはずなどない、分かっていたはずなのにそれを放置した自分に責任がある。
「……ホテルのチェックインは私がしてきます。パーティーもお任せください」
「笹桐さん?」
「貴方は社長についていなさい」
その声にいつもの怒気は含まれていなかった。笹桐さんもまた自分に憤りを感じているのかもしれない。
喧噪から離れ、久方ぶりの静寂に包まれる。
窓の外は明るく、一面に東京の夜景が広がっていた。
ここで生きている。この街で人混みに飲み込まれ、数々の理不尽を乗り越えながら、それでもここまで上り詰めてきた。あの日の約束のためだけに。
「……なにか、してほしいことはある?」
窓の外に視線を向けたまま、そう呟いた。
反応がない。もう寝てしまったかと思って振り返れば、穏やかな顔をした悠と目があった。
「じゃあ添い寝して?」
「はあ!?」
「だってなんでもしてくれるんでしょ?」
きょとんと首を傾げる姿に、まさか仮病だったのではないかと一瞬頭に過ぎる。けれどあの場で嘘をつけるほど悠が他人を欺くことに長けた人間とは思ってはいない。
甘かった。てっきりお茶が欲しいだの、ご飯が食べたいだのそんなオネダリだと軽視していた。
悠がそういう方面で攻めてくるなんて予想もできたはずなのに。
頭を悩ませながらも、途中で考えるのは止めた。ベッドに近づいて端に腰掛ける。長い指先を手に取って優しく握りしめた。
「これで我慢して」
少し不服そうに悠が眉間にしわを寄せる。けれどそれ以上は何も言わず、ぎゅっと手を握り返した。
「……ずるいよね、ちーちゃんは」
目を閉じたまま少し掠れた声でそう言った。けれど文句は言わず、繋いだその手にこつんと額をあてて寝返りをうつ。
「大人はずるいのよ」
「確かに」
悠が苦笑する。握り返されたその手は温かく、やがて穏やかな寝息が聞こえてくる。
けれどその手の力は決して弱まらず、困ったように笑う。
触れる温もりから肩の力が抜けていく。あどけない寝顔を見つめながら、絹のように細い髪をさらりと撫でた。
0
あなたにおすすめの小説
たとえ愛がなくても、あなたのそばにいられるのなら
魚谷
恋愛
ヴェルンハイム伯爵家の私生児ハイネは家の借金のため、両親によって資産家のエッケン侯爵の愛人になることを強いられようとしていた。
ハイネは耐えきれず家を飛び出し、幼馴染みで初恋のアーサーの元に向かい、彼に抱いてほしいと望んだ。
男性を知らないハイネは、エッケンとの結婚が避けられないのであれば、せめて想い人であるアーサーに初めてを捧げたかった。
アーサーは事情を知るや、ハイネに契約結婚を提案する。
伯爵家の借金を肩代わりする代わりに、自分と結婚し、跡継ぎを産め、と。
アーサーは多くの女性たちと浮名を流し、子どもの頃とは大きく違っていたが、今も想いを寄せる相手であることに変わりは無かった。ハイネはアーサーとの契約結婚を受け入れる。
※他のサイトにも投稿しています
溺愛のフリから2年後は。
橘しづき
恋愛
岡部愛理は、ぱっと見クールビューティーな女性だが、中身はビールと漫画、ゲームが大好き。恋愛は昔に何度か失敗してから、もうするつもりはない。
そんな愛理には幼馴染がいる。羽柴湊斗は小学校に上がる前から仲がよく、いまだに二人で飲んだりする仲だ。実は2年前から、湊斗と愛理は付き合っていることになっている。親からの圧力などに耐えられず、酔った勢いでついた嘘だった。
でも2年も経てば、今度は結婚を促される。さて、そろそろ偽装恋人も終わりにしなければ、と愛理は思っているのだが……?
君に何度でも恋をする
明日葉
恋愛
いろいろ訳ありの花音は、大好きな彼から別れを告げられる。別れを告げられた後でわかった現実に、花音は非常識とは思いつつ、かつて一度だけあったことのある翔に依頼をした。
「仕事の依頼です。個人的な依頼を受けるのかは分かりませんが、婚約者を演じてくれませんか」
「ふりなんて言わず、本当に婚約してもいいけど?」
そう答えた翔の真意が分からないまま、婚約者の演技が始まる。騙す相手は、花音の家族。期間は、残り少ない時間を生きている花音の祖父が生きている間。
初恋を諦めたら、2度目の恋が始まった
suguri
恋愛
柚葉と桃花。双子のお話です。
栗原柚葉は一途に澤田奏のことが好きだった。しかし双子の妹の桃花が奏と付き合ってると言い出して。柚葉は奏と桃花が一緒にいる現場を見てしまう。そんな時、事故に遭った。目覚めた柚葉に奏への恋心はなくなってしまうのか。それから3人は別々の道へと進んでいくが。
初投稿です。宜しくお願いします。
恋愛あるある話を書きました。
事故の描写や性描写も書きますので注意をお願いします。
私はお世話係じゃありません!【時任シリーズ②】
椿蛍
恋愛
幼い頃から、私、島田桜帆(しまださほ)は倉永夏向(くらながかなた)の面倒をみてきた。
幼馴染みの夏向は気づくと、天才と呼ばれ、ハッカーとしての腕を買われて時任(ときとう)グループの副社長になっていた!
けれど、日常生活能力は成長していなかった。
放って置くと干からびて、ミイラになっちゃうんじゃない?ってくらいに何もできない。
きっと神様は人としての能力値の振り方を間違えたに違いない。
幼馴染みとして、そんな夏向の面倒を見てきたけど、夏向を好きだという会社の秘書の女の子が現れた。
もうお世話係はおしまいよね?
★視点切り替えあります。
★R-18には※R-18をつけます。
★飛ばして読むことも可能です。
★時任シリーズ第2弾
お見合いから本気の恋をしてもいいですか
濘-NEI-
恋愛
元カレと破局して半年が経った頃、母から勧められたお見合いを受けることにした涼葉を待っていたのは、あの日出逢った彼でした。
高橋涼葉、28歳。
元カレとは彼の転勤を機に破局。
恋が苦手な涼葉は人恋しさから出逢いを求めてバーに来たものの、人生で初めてのナンパはやっぱり怖くて逃げ出したくなる。そんな危機から救ってくれたのはうっとりするようなイケメンだった。 優しい彼と意気投合して飲み直すことになったけれど、名前も知らない彼に惹かれてしまう気がするのにブレーキはかけられない。
貴方の✕✕、やめます
戒月冷音
恋愛
私は貴方の傍に居る為、沢山努力した。
貴方が家に帰ってこなくても、私は帰ってきた時の為、色々準備した。
・・・・・・・・
しかし、ある事をきっかけに全てが必要なくなった。
それなら私は…
聖女だった私
山田ランチ
恋愛
※以前掲載したものを大幅修正・加筆したものになります。重複読みにご注意下さいませ。
あらすじ
聖女として国を救い王都へ戻ってみたら、全てを失っていた。
最後の浄化の旅に出て王都に帰ってきたブリジット達、聖騎士団一行。聖女としての役目を終え、王太子であるリアムと待ちに待った婚約式を楽しみにしていたが、リアムはすでに他の女性と関係を持っていた。そして何やらブリジットを憎んでいるようで……。
リアムから直々に追放を言い渡されたブリジットは、自らが清めた国を去らなくてはいけなくなる。
登場人物
ブリジット 18歳、平民出身の聖女
ハイス・リンドブルム 26歳、聖騎士団長、リンドブルム公爵家の嫡男
リアム・クラウン 21歳、第一王子
マチアス・クラウン 15歳、第二王子
リリアンヌ・ローレン 17歳、ローレン子爵家の長女
ネリー ブリジットの侍女 推定14〜16歳
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる