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第5章
第138話 ファラナ
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ファラナが放棄されたのは、セロの侵攻を受ける数年前のことだ。
ディラリは、その事情を元首パウラから聞いていた。パウラも最近になって伝聞で知ったのだが……。
ファラナは、セロに破壊されていなかった。放棄された後も、しばらくヒトが住んでいたが、王家の所有地であることから無理矢理立ち退かされていた。
それが結果的によかったのか、ファラナはセロの破壊を免れる。
そして、セロから逃れて、この村に住み着いたヒトがいた。実質的な完全無人は6カ月ほどと短かった。
指導者はディラリと同じ、グスタフだと言った。名はフロラン。老人だ。セロに北への逃げ道を塞がれてしまい、内陸に向かった。ファラナに達し、ここで息を潜めていたという。
彼は海岸部での出来事については、まったく知らなかった。
もちろん、クマン王国が崩壊し、クマン国が成立したことも。さらには、グスタフも北のマルクス派と南のクマン派に分裂したことも……。
軌道を西進してきたディラリ隊とファラナの住民が出会った際、両者の間に極度に緊張が高まった。
ディラリ隊は銃口を向け、ファラナの住民は手製の槍を構える。
場所は軌道の終点。駅構内をすべて覆うドーム状の屋根がある。構内は荒れていたが、殺伐とはしていなかった。
ここで、両者は接触した。
ディラリが叫ぶ。
「私はグスタフのディラリ。クマン国元首パウラの命を受け、ファラナを調べに来た。
危害を加える意思はない」
若者が怯えながら問う。
「グスタフだという証拠は!
証拠を見せろ!」
ディラリは、首から下げたグスタフを示すメダルをシャツの中から出し、見せる。
ファラナ住民に動揺が広がるが、槍の穂先を向けたままだ。
若者が「フロラン様を呼んでこい!」と叫ぶと、何人かが走って行く。
ディラリ隊は銃口を下げたが、ファラナの住民は槍の穂先を向けている。戦い慣れしていない構えだ。
両者が対峙した状態で、ディラリとフロランは出会った。
「私はグスタフのディラリ、故あってクマン国元首パウラに仕えている」
老フロランは、眼光鋭く、ディラリを値踏みする。
「グスタフが仕えるのは民衆だけだ。
統治者の手先にはならぬ」
「クマン国は、民衆が力を合わせて建国した。
王はおらず、民衆の代表が国を治めている」
「ならば、その元首とやらは何者だ?」
「知っての通り、クマンの社会は複雑だ。
王家、王族、貴族、豪族、民衆……。
立場を超えて、国をまとめるための象徴として、元首を戴いた。
いずれ、元首も民衆の入れ札で決めることになろう。
いまは過渡期。手長族を南に退けた功労者、クマン王国第4王女パウラを元首に戴いている」
「やはり、王家が支配しているんだな」
「それは違う。
王家はもうない。パウラは、我らと同じこの国の民だ」
「信じられんな。
で、ここに何しに来た」
「東に新たな敵が現れた。
東に物資を送るためのルートを探している。
ファラナの川は、南から北に流れ、西に向かわず海には至らない。
東に向かうのではないか、と考えている。西から東に流れる大河につながっているのではないか、と。
それを調べに来た」
「西から東に流れる大河?
伝説の?」
「そのような伝説があるのか?
すでに確認している。
経路には駅を設け、川には港もある」
「信じられん……」
「グスタフのフロラン殿。
皆さんをここから追い出したりはせぬ。
約束する。
矛を収めてほしい。
ただ、ファラナの街と川を調べたいだけなのだ。
我らは同じ、クマン人ではないか」
「そのクマン人に手ひどくやられた!
盗賊に何度も襲われている。
男が殺され、娘が拐かされた」
「盗賊がいるのか?」
「あぁ、残虐な連中だよ。
元貴族だ……。
おまえたちの人数では、立ち向かえないぞ」
フロランは、旧王家の別邸を拠点にしていた。堅固な外周壁があるからだ。弓と槍で武装し、住民に訓練を施し、どうにか村を守ってきたのだという。
村の民家は10戸ほど。全戸が王家に使えていた。王家や王族がこの地に静養に来ると、川魚や森の恵みを採集していた。先王が地の食材を好んだからだ。
元の住民は誰もおらず、現在の住民は他所からの避難民だ。
ディラリ以外は、王家別邸には通されず、他は川の調査に向かう。
ファラナに達した軌陸両用車は、海岸に引き返す。盗賊の存在はまったくの想定外で、ディラリ隊はその備えを欠いている。
たかだか1パーミル(1/1000)の勾配でも、下り坂であることに変わりはない。それに、軌道の状態は往路で詳細に調べてある。
クマン人が作った軌陸両用車は、用心しながらも空荷の貨車2輌を牽引して、全速で海岸に向かった。
エリシュカは、本気でヨランダに資金を提供するるもりだった。
男尊女卑の激しいココワでは、女性は“家”を起こせない。起業できないのだ。だから、エリシュカの商売は“家”ではない。
バルカネルビやトンブクトゥでは、女性でも“家”は起こせる。しかし、扱う商品によって、ギルドがある。穀物商ギルド、酒販ギルド、織物商ギルド、陶器商ギルド、など細分化された同業者組合がある。
工業従事者のギルドもある。
ギルドに加盟していなければ、大きな取引ができない。ギルドに加盟するには加盟費の納入だけでなく、ギルドに加盟している全メンバーの3分の2の同意が必要だ。
もちろん、女性であることを理由に加盟を拒否できる。ギルドの組合員に女性はいない。
だから、女性である限り小商いしかできない。
唯一、ギルドのない商品がある。
燃料だ。
燃料はバレル家とサール家などの支家が独占してきたからだ。元売りから小売りまでバレル家一族郎党が統制していたので、ギルドは存在しない。
リトリン家は長子を亡くし、ふさぎ込みがちな当主に代わって、長女クレールが当主を代行している。
この形式は、湖水地域ではよくある。名前だけの男性当主は、少なくない。
しかし、クレールのように、ギルドの会合に出席するといった行為は希。通常は遠慮して欠席する。クレールは末席に座らされ、発言さえ許されていない。
永遠にそうだ。
穀物販売の仲介が生業だったので、雑穀商ギルドの他、水運ギルドにも加盟していた。ギルド制を無視する西のヒトの物資輸送にあたって、バルカネルビの水運ギルドに加盟していたことは、波風を立たせない効果があった。
それは、リトリン家のような小規模商人には重要なことだ。
クレールは、燃料を仕入れられれば一暴れできる、と確信していた。
だから、川を遡るという冒険に賭けたのだ。
ヨランダは、彼女の父親が燃料を仕入れたら暴利を貪るだろう、と確信している。だが、自分だったら……、どうしようかな、と考えると自然と笑みが漏れる。
夢物語だが……。
もちろん、燃料ギルドがないことは承知。父親もそれに気付いて、賭に出ている。遠縁からの資金獲得は、燃料目当てであることは間違いない。
ただ、彼女の父親は救世主を本命とし、西のヒトは次点に置いていた。救世主との交渉は自分が、西のヒトには“いらない子”のヨランダに命じた。
遡上を始めた最初の夜、岸辺に上がった調査隊は、ドラゴンへの警戒をしつつ、キャンプの支度を始める。
食事の用意をしながら、エリシュカがヨランダに再度確認する。
「ヨランダに“家”を起こす意思があるなら、資金を出す。
知っていると思うが、燃料に関してはギルドがない。
女でも手が出せる」
「本気……?」
「このままだと、バルカネルビはリトリン家が押さえるだろう。
私はココワで勝負する。
最後の一画が、トンブクトゥだ。
この街に燃料ギルドができると厄介だ。
ココワ、バルカネルビ、トンブクトゥを我らが押さえれば、我らの勝ち。
女の勝ちだ!」
ヨランダが、エリシュカを見詰める。
「多くのヒトが燃料の不足で困っている。
勝ち負けなどどうでもいいと思う。
私は、普通に生活しているヒトの役に立ちたい」
エリシュカが大笑いする。
「思った通りだ!
おまえはいいヤツだ。
ヒトの役に立つには、いまは燃料を確保し、誰もが買える価格で売ることだ!
それができるのは、おまえとクレールと私だ。
違うか!」
ヨランダは、買いかぶられていることに不安よりも恐怖を感じた。
元首パウラは、密かに海路を旧王都へ向かっていた。
クマンには、まだ動力船は3隻しかなく、そのうち1隻はディラリ隊が使い、1隻はパウラが使えば、否応なく目立つ。特にセロが支配する南に向かうとなれば、バンジェル島が関心を示す。
パウラを乗せた船は、いったん北に向かう西ユーラシアへの航路をとり、夜陰に紛れて南に転舵した。
この船にパウラが乗っていることは、バンジェル島の各勢力はもちろん、クマンの政権幹部さえ知らない。
クマンは、発光による信号を使う。クマンの回光通信機は、人工光源を利用する信号灯で、光源はガソリンランタン。ガソリンを噴射してガス化し、発光にマントルを使う。鏡のように磨き上げられた金属製亀甲板を反射板とする。遮蔽板の開閉で、光を明滅させる。
信号はモールス符号が基礎になっている。50センチ級ならば、夜間なら水平線まで光が届く。伝達速度は、1分間に14ワードと速くはない。
ディラリは伝統的なこの装置を使い、伝達中継基地2カ所を介して、ファラナからバンジェル島対岸まで、700キロを通信した。
ディラリの情報は衝撃的なもので、鉄道馬車用軌道は無事、ファラナには避難民がおり、川は伝承の通り南から北に流れ、浅い喫水ならば大型の河川船の運行が可能、と伝えられた。
さらに貴族崩れの盗賊がおり、ファラナの避難民を苦しめていると……。
元首パウラは、半田千早やミエリキとの冒険の日々が懐かしく、そして救出されていない避難民の存在に衝撃を受けた。
「私が行かなくっちゃ」
わずかな手勢を引き連れ、西ユーラシアの北方人から購入した木造動力船で旧王都を目指している。
旧王都とファラナ間の軌道には、致命的な欠陥があった。500キロの区間に駅は10あるが、引き込み線が皆無なのだ。もちろん単線。
つまり、上り下りの概念がない。列車はすれ違えないのだ。
旧王都とファラナには、人力の転車台があり、始発と終着でのみ方向転換する。
旧王都では、救世主から鹵獲した3トン積みボンネットトラックを改造した軌陸両用車の準備を整えていたが、もし途中で、ファラナから旧王都に戻る車輌と出会った場合、どちらかが軌道から出なければならない。
それは不可能に近いので、旧王都を発しなかった。
ファラナを発したピックアップトラック改造の軌陸両用車は夜通し走り、旧王都に日の出の2時間前に戻ってきた。
ボンネットトラック改造の軌陸両用車は、物資と兵を乗せて、1間後にファラナに向けて出発する。
パウラを乗せた動力船は座礁を恐れて、夜明けまで沖合で待機していた。
夜明けと同時に旧王都第1埠頭に入港。物資を揚陸しさせる。
パウラの手勢は20ほどだったが、先に入港していた船とパウラを乗せてきた船の水兵で、陸戦隊を編制する。
武器はボルトアクション小銃だけだが、総兵力は50になった。
戻ってきた貨車は、ボンネットトラック改造軌陸両用車が牽引してファラナに向かった。
旧王都にはピックアップトラック改造軌陸両用車だけが残っている。
水兵たちは、旧王都駅周辺の草むらや窪地の中、果ては崖の下を覗き込んで、役立つものがないか探し回る。
朽ちかけた王族用客車を見つける。ウマ2頭で牽引するタイプで、この軽便な鉄道の車輌としては大型だ。
横転していた車輌は、木製部分は簡単に崩れてしまうが、鉄の部分は錆びているだけだ。
彼らは、船の補修用木材や瓦礫となっている木材から使えそうなものを探し出して、促成の貨車を半日で作り上げた。
パウラはピックアップトラック改造軌陸両用車の荷台に乗って、「皆さん、出発しましょう!」と命令を発する。
「ウォー」という歓声が上がる。
元首公邸では、元首パウラは体調が悪く、伏せっている、と公表された。
パウラ付き侍女は、パウラのベッドに横になりワクワクしている。一切の面会を中止するが、すると見舞いと称して客が訪れる。
パウラの真似をするが、ドキドキでおもしろい。
しかし、2日は持たないと覚悟を決める。
叱責されるだろうが、牢に入ることはない。それに、2日あればパウラは好き勝手ができる遠方に至っているはずだ。
侍女たちは事の重大性を知らず、パウラの悪戯を一緒に楽しんでいた。
ニジェール川をバマコから250キロ遡ると、オルカが住んでいた村がある支流の分岐点に至る。
ここから上流は、調査隊の誰にとっても未知の世界となる。
ニジェール川は2000メートルの川幅を急速に狭め、支流との合流点から90キロ遡ると500メートルになる。
それでも、200万年後のニジェール川は空前の大河だ。水量が多く、水深もある。川の蛇行も少ない。
しかし、さらに上流は、川幅が150メートルほどとなり、蛇行もひどくなる。
茶色に濁っていた水は透明度を増すが、徐々に褐色なっていき、50キロほどは紅茶のような色になった。
変化はこれだけではなかった。
ワニがいない。魚影も消える。
不気味だ。
アンティが指揮する1号艇がエンジンを止める。
2号艇もスクリュープロペラの回転を止め、惰性で前進し、1号艇の右舷に寄る。
アンティが2号艇のミルシェに問う。
「水に何かが混ざっている」
ミルシェも困惑している。
「生き物がいない。
毒性のものだと思う」
1号艇と2号艇の誰もが、動揺する。ミルシェが2号艇乗員の顔を見渡す。
「ニコチンじゃないかな。
確証はないけど、ニコチンを水に溶いたときと同じ色。
濃いニコチンの水溶液の中では、動物は生きてはいけない。
でも、森には動物がいるし、鳥もいる。密林はまだ続くけど、この川だけの水質じゃないかな。
植物が出す天然のニコチンが、水に溶けているのかもしれない」
アンティが「そうだな。鳥がいる。死の森じゃない。進もう」と。
1号艇がエンジンを始動し、アイドリングしていた2号艇は動力をスクリュープロペラに伝達する。
1号艇と2号艇の操船クルーは2人。各艇には2+7人が乗る。総勢18の調査隊だ。
2号艇の指揮は片倉幸子が執り、半田千早、カルロッタ、オルカ、エリシュカたちが乗る。クレールとヨランダは1号艇にいる。
紅茶のような水が透明になるまで、100キロ以上航行する。
森は川面まで迫り、薄暗く、上陸できる岸はなく、息が詰まるような雰囲気から、突如開けた草原になる。
日没間際だった。
西の地平線に沈んでいく太陽がまぶしく、その美しさに、歓声が上がる。
左手に森、右手に草原、森を出たり入ったりしながら50キロほど進むと、完全に疎林が点在する草原の中となる。
ニジェール川の水は、川底が見えるほど澄んでいる。湖水地域の泥色の川と、同じ流れとは思えない美しさだ。
そして、ワニとドラゴンがいない。
草原の主役はガゼルなどの哺乳動物だ。草食獣がいるなら、肉食獣もいる。
警戒は怠れない。
川幅はだいぶ狭くなったが、それでも100メートルある。船の航行には問題ない。水深は10メートルほど。
川の蛇行は相変わらずだ。
中州にキャンプを設営する。
ディラリは、艇長5メートルの海で使うカッターボート2艇で下流に向かっていた。川の流れは緩く、排気量125ccの単気筒船外機でも十分に帰還できそうだ。
このエンジンはカンガブルから揚水ポンプ用として購入したが、実際は最初からボートの動力にするつもりだった。
スクリュープロペラは金細工師が真鍮板を叩いて作り、ギアやシャフトもクマンの職人が作った。
ディラリ隊は20人で、8人がファラナの駅に残り、12人が徒歩よりも少し速い程度の速度で川を下っている。
何人もが、同じ地図を覗き込んでいる。
アンティの「どの辺まで来たと思う?」との問いに、誰も答えが出せない。
片倉幸子が「高台に上って……」と言ったが、西は見渡す限りの草原で、高台どころか高木さえない。
半田千早の「進んだ距離的には、海に出てもいいと思うけど、川を遡ったんだから海に出るわけないよね」との言葉に、誰も反応しない。
重苦しい無言が続く。
オルカが「雰囲気的にだけど、私の村の周囲もこんな風景だった。畑を作れるし、家畜も飼えるから、もう少し進んだら村があると思うんだけど……」と提案する。
アンティがその案にすがる。
「帰りの燃料を考えなくちゃならない。今日の日没まで、川を遡る。ヒトの痕跡、クマンの村が発見できなければ、今回は引き返す。
おそらく、すでにクマンの旧領の中にいる。
現在地を特定できる何かを得られれば、それが調査の成果だ」
アンティ隊は、暗い森を出てから4時間進んでいる。距離にすると約50キロ。
川は、蛇行がひどくなったり、緩くなったりと、一定しない。船の速度は、5ノットから6ノット(時速10キロ前後)だ。
草原の草の丈は高く、1メートルを超える。視界が悪いので、舳先に操船クルーが立ち前方の見張りをしている。
半田千早はフルーツバーを食べていた。朝食はパンと缶詰のソーセージだったが、無性に空腹で我慢できなかった。
ディラリ隊は徒歩と大差ない速度で、曲がりくねった川を下っている。日の出とともに発ったが、20キロほどしか進めていない。
ファラナは盗賊の件もあり、調査は10時までと決めていた。
1号艇の舳先に立つ操船クルーが「ワニじゃない。流木だ!」と叫ぶ。
明らかにヒトが切った6メートルほどの丸太が漂っている。誰もが、その丸太を見詰めている。
暗い森を抜けて以降、初めてのヒトの痕跡だ。しかし、半田千早は「セロかもしれない」と不安になる。
彼女は、ボディアーマーを引き寄せた。
2艇は用心しながら、前進する。特にU字形に湾曲する川の流れでは、前方がまったく見えない。砂州でもあれば、座礁してしまう。
十分に速度を落としてカーブに入ったが、Uどころか、Ωのような流れで、1号艇が急速に速度を落としたことから、後続する2号艇が追い越しそうになる。
川幅は50メートルあり、どうにか追突は免れるが、2号艇の行き足が止まらない。
そして……。
2号艇とボートが正面衝突しそうになる。
2号艇は左に急速転舵し、舳先に立っていた操船クルーは水面に転落する。
誰もがぶつかると思ったし、2号艇の3分の1ほどの大きさしかないボートに乗るヒトは、顔が引きつっている。
後続していたボートが、転落した操船クルーを救助する。
半田千早は、ディラリの顔を何度も見る。やはり、ディラリだ。
驚きが大きすぎて、声が出ない。
ボートの右舷が2号艇の左舷に軽く接触する。
最初に声を発したのは、ディラリだった。
「チハヤ、だよね?」
半田千早の返答は呆けていた。
「うん……」
ディラリは、明らかに当惑していた。
「何で……?」
半田千早も同じ問いだった。
「……ここにいるの?」
2隊の調査隊は、下草の丈が低い草原にいる。両隊の相互の報告を合わせると、バンジェル島対岸のクマン国新都から旧王都を経て、ファラナに到り、ニジェール川を下って湖水地域に達する新ルートの発見に成功したのだ。
これが確実になった瞬間、エリシュカは砂地に座り込み、クレールとヨランダは抱き合って喜んだ。
半田千早は、ディラリの説明ではっきりしないことは、旧王都からファラナに到る陸路のことだった。
片倉幸子は、何となくわかるらしい。
「軽便鉄道……、トロッコのようなもの?」
だが、半田千早にはトロッコがわからない。それは、バルカネルビを発した隊員のすべてに共通している。
この世界には、鉄道がないからだ。
片倉幸子が「もし、トロッコでも鉄道があるなら、すごいよ。燃料の大量輸送ができるかもしれない」と言い、鉄道の知識が皆無のエリシュカは反応できなかった。
エリシュカにとっての片倉幸子は、サール家当主ヴィクラムの顔を拳で潰した粗暴なイメージしかなかった。
4隻の船は、ファラナを目指す。
目的地が明確になると、同じ景色も違って見えてくる。この先には何もないかもしれない、という不安はなく、クマンの東端の街があることがわかり、船のエンジンまで小気味よく回転しているように感じてしまう。
異変は、ファラナまで少しの距離に接近して起きた。
「銃声だ。
銃声が聞こえる」
半田千早は聴覚を最大にするが、エンジン音が邪魔して、何も聞こえない。
1号艇のアンティが叫ぶ。
「エンジンを切れ!」
4隻の船は、エンジンを止め流れに逆らい惰性で進む。
「銃声だ。
交戦している!」
動力を失った4隻は流れに押し戻されて団子状態にあった。
ディラリが「盗賊か!」と叫ぶと、1号艇と2号艇の隊員は、一斉にボディアーマーとヘルメットを着け始める。
完全装備まで1分で終わらせ、弾倉を点検し、コッキングレバーを引いて装弾し、安全装置を確認する。
半田千早は2号艇から飛び降り、ブーツを水につけて岸に上がる。
1号艇から飛び降りたライモンがヨランダに「俺から離れるな。俺のすぐ後ろにいるんだ」と言った。
カルロッタが「あの2人、仲がいいねぇ」と悪戯っぽく笑う。
半田千早が「油断してると死んじゃうよ」と諭すと、カルロッタの顔が引き締まる。
銃声は旧王家別邸からではない。ディラリが「駅の方角だ」と指さす。
ティッシュモックのアキラを先頭に、銃を構えて駅に向かう。戦闘部隊ではないので、装備は各隊員の個人所有だ。弾薬も統一されていない。
ディラリ隊も非正規のクマンの部隊なので、西ユーラシア製のボルトアクション小銃ではあるものの、いろいろな街製の銃が混在している。だが、弾薬は7.62×51ミリNATO弾に統一されていた。
アキラの数歩後方にアンティが続く。
銃以外の発射音がする。
アキラがマイクに囁く。
「手長族だ。
ヒトが手長族と交戦中」
半田千早がクレールに「敵はヒトじゃない。手長族。躊躇ったら殺される」と教える。
クレールは精霊族や鬼神族と何がどう違うのか、さっぱりわからなかったが大口径単発ライフルの撃鉄を起こす。
戦いたいわけではなく、単なる用心だ。
半田千早は完全な臨戦態勢で、セロとの交戦経験がないカルロッタは動揺している。西ユーラシアにおいて赤服との戦闘を数多〈あまた〉重ねているティッシュモックのアキラやアントラムのライモンは、迷いや油断の様子はまったくない。
上陸は桟橋ではなく、駅から300メートル北に離れた川岸だった。1号艇と2号艇には操船クルーだけを残し、両艇は下流に向かって退避した。
ディラリたちのボートは岸辺に乗り上げ、全員が上陸している。
アンティ隊の銃は個人所有の装備だが、軍装は統一されていた。草原仕様の迷彩服にボディアーマーとヘルメットを着用している。
ディラリ隊は戦闘を意図していないことから、クマン軍の作業服と作業帽だ。銃の装備は、動物との遭遇など不測の事態に備えてのものだった。
丈が2メートルを超えるイネ科の茂みを、右に回り込みながら駅に接近していく。
旧王都からファラナまでは、10日の旅程であった。王家と王族専用の駅が設けられ、揺れの少ない鉄道馬車の旅は快適であったという。
救世主から鹵獲したボンネットトラック改造軌陸両用車は、かつての王家・王族が10日を要した行程を、わずか7時間30分でやってきた。
元首パウラの命を受けたクマンの指揮官ブーカは、戦闘が始まる直前に到着していた。
襲撃者の数は多い。推定だが30はいる。もし、先着の8人だけだったなら、簡単に制圧されていた。
先着のディラリ隊8人は、盗賊の存在を知っていたので無警戒だったわけではない。だが、現実感がなかった。
ファラナの空気がとても穏やかだからだ。緊張を強いるものがない。川にはワニはいない、草原はガゼルたちのパラダイス、肉食の哺乳類はヒトとの接触を避ける。
駅構内は放置されていたので荒れてはいるが、破壊の痕跡はない。
これでは、警戒が緩む。
いきなり撃たれ、4人が負傷し、応戦するが多勢に無勢。セロなら殺されるが、ヒトならば無闇には殺さないだろう。
負傷者を残して後退するつもりはないし、徹底抗戦にも意味はない。
だが、すぐに考えを改めた。
セロの武器で攻撃されたからだ。
襲撃者がセロの武器を使うなら、それはセロだ。
8人は転車台の下に飛び込む。1人は重傷で、2人は軽傷、1人は意識が混濁し始めている。
戦えるのは6人。
セロが相手なら戦う以外の選択肢はない。
ボンネットトラック改造の軌陸両用車は、ファラナまで3キロの地点で、風に乗った銃声を聞いた。
ブーカは「急げ!」と命じたが、軌陸両用車の速度は最大速度に近かった。
駅まで3分ほどだ。
駅構内に軌陸両用車が進入すると、急制動をかけて、荷台の兵士が一斉に飛び降りる。
そして、襲撃者への反撃が始まる。
アンティ隊とディラリ隊が丈の高い茂みを回り込むと、駅の構内がよく見える。
転車台に身を隠して銃を撃つ数人と、海側から反撃する完全武装のクマンの水兵。
襲撃側は見えない。
茂みをさらに回り込むと、襲撃側の左側面に出た。
距離は20メートルもない。
遭遇戦だ。
「テッ!」
誰の命令かわからないが、半田千早は反射的にノイリン製AK-47を発射していた。
襲撃者は、左側側面への突然の攻撃に驚き、迅速に後退していく。
半田千早はこの時、ヘンだ、と感じた。セロは逃げない。セロがヒトを含む二足歩行動物を殺す理由は、宗教に似た教義に関係がある。実際は、ガウゼの法則によるニッチの争奪という生物の原初的な行動に起因しているが、彼らはそう思っていない。
ヒトで言えば神のような存在が、殺せと命じるから必死になって殺すのだ。
そのセロが逃げた。
奇妙だ!
ブーカの驚きと当惑は、大きかった。
「ディラリが戻ることは、想定の範囲内だが、北のヒトが同行しているとは想像の範疇を超えている……」
クマンは大西洋を南下してやって来る西ユーラシアのヒトを、しばしば“北のヒト”と呼ぶ。
ディラリが「アンティたちは、東方から川を遡ってやって来た」と説明すると、ブーカはさらに驚く。
「ファラナの川は、東に通じているのか?」
片倉幸子は、軌道を調べている。
カルロッタが「これが、鉄道?」と片倉幸子に尋ねる。
「軽便鉄道に近いけど、レールは200万年前の規格と同じようだし、軌間は標準軌みたい。軌道の敷設も堅牢ね。
軌道がどのくらいの重量に絶えられるかが問題だけど、現在のトラック輸送に比べたら、はるかに高効率ね」
カルロッタは「鉄道は本で見た。煙を吐くんでしょ」と。
片倉幸子の「それは蒸気機関車。ノイリンならディーゼル機関車が作れる」との答えに、複雑な表情をする。
カルロッタは赤道以北アフリカにおける権益のノイリン独占阻止を狙って、クフラックが送り込んできた諜報員だからだ。
片倉幸子は、そんなことは重々承知している。
金沢壮一に「クマンで鉄道を発見」と知らせれば、すぐにやって来ることは容易に想像できた。
金沢壮一は“鉄ちゃん”だから。
半田千早は、襲撃者の死体を調べていた。
「手長族じゃないよ。
ヒトだよ。
ヒトが手長族の武器を装備して、ヒトを襲っていたんだ。
手長族に調略されたヒトなのかな?」
ブーカが半田千早を見る。
「こやつの靴、クマンの貴族のものだ
こっちはやはり貴族のズボンと靴。
貴族崩れの盗賊という話は、嘘ではなかろう」
半田千早はそれでも不審だった。
「武器は?」
ブーカは答えを持っていた。
「戦場で拾ったのだ。
我らが攻勢に出た際、多くの戦場で勝利した。その際、手長族の重火器は破壊したが、小火器までは手が回らなかった。
初戦で敗れ瓦解していた貴族どもが、手長族の武器を戦場で拾い再武装したんだ。
そして、避難民を襲い始めた……」
半田千早はブーカの話を信じられない。
「貴族だって、クマン人でしょ。
どうして、手長族の真似なんかするの?」
ブーカが息を吐く。
「負けるとはそういうことだ。
私も最初の戦いで、心が折れた」
半田千早がブーカを見る。ブーカが笑う。
「貧乏貴族だったんだ。
私は……。
貧乏だったから、立ち直れたのかもしれない。裕福だった連中には、無理かもしれんな。
徹底的に叩かれたんだ。抵抗らしい抵抗はできなかった。一方的に負けたんだ。
あの挫折感は、何か依り代がないと心を病んでしまう」
負傷者は6。軽傷4、意識不明1、重傷1。戦死1。
ブーカ隊が少女を保護したが、ひどく怯えている。この武装集団は、少女を追ってきたようだ。
ミルシェが負傷者と少女の手当てをしている。
アンティとディラリは捕虜を尋問。
「おまえたちは何者だ」
ディラリの問いに後ろ手に縛られ、木箱に座らされた捕虜は沈黙したまま。
「あの子は何だ?
仲間は何人いる」
捕虜に怯えはない。彼の答えは想像とは異なっていた。
「下賎なものとは話をしない。
それが貴族というものだ」
少し離れて少女を手当てしていたミルシェが立ち上がる。
捕虜の前に立つアンティとディラリの間をすり抜ける。
一瞬のことだった。
ミルシェがダガーナイフ型の銃剣を抜き、捕虜の左太股に突き立てる。
捕虜は驚き絶叫する。
「ヴァアァァァ~!」
ミルシェは優しく微笑んでいた。
「このナイフを少しひねれば、動脈を切断する。ヒトの身体には5リットルの血が流れている。
私がこの手を少しひねれば、10分でその血のすべてが流れ出す。
おまえの生命は、あと10分はない。
何も話すな。
おまえの身体からすべての血を抜き、大地に染みこませる。
おまえの死をここにいる全員で眺めて楽しんでやる」
捕虜は怯えた。
「やめてくれ。
誰かこの女を止めて!
何でも話すから、殺さないで!」
ミルシェが銃剣を抜く。
半田千早も同じタイプを使っているが、彼女の銃剣は黒染めだ。しかし、ミルシェの装備は鏡のように磨き上げられた刀身だ。
「あれで刺されたら怖いよね」とオルカに言うと、彼女は「私なら殺してる。捕虜はもう1人いるし……」と。
オルカは少女に向かった。
ファラナは小さな村で、王家と王族の保養地以外の機能はなかった。
もともとは王族が狩猟のための別邸として建てたのだが、数代前の国王が大変気に入り、この館に住まわせていた王族の愛妾を含めて譲り受けたのだという。
館自体は大規模な拡張はされなかったが、その後の王によって、鉄道馬車用のレールの敷設、川を遊覧するための桟橋の設置、堅固な外周壁の建造、展望塔の新設などが行われた。
外周壁内の敷地も70×70メートルの正方形だ。
四隅に監視塔があり、近衛兵の宿舎もある。庭師や女中などは、ここに住んでおり、彼らの住居も残っている。
ただ、使用人の数は最大でも10世帯ほどだろう。
館の外には、館内の諸事をする使用人ではないものたちの住居がある。建物の構造が異なることから、彼らはどこからか移り住んできたようだ。建物自体は豪華ではないが、粗末ではない。少なくとも、街のクマンの一般住居よりも広い。
建物の状態は、木造の屋根が落ち、土壁の一部が崩れている。ヒトが住める状態ではない。
本来の住民は広大な畑を開墾していたが、現在はごく一部が使われている。状況から推察すると、畑も王家のものだったのかもしれない。
ニジェール川を中心に、館、駅、桟橋が公園のような造りだったようだ。
館と駅間は300メートルほどあり、館と桟橋は100メートル。館の外の住居は、200メートルほど離れている。
館は往事のような華やかさはないが、新たな住民が手入れや補修をしており、決して荒れ果ててはいない。
避難所ではなく、恒久的な住居として使われている。
グスタフのフロランは、杖を必要とする老人だが、厳格な規律でファラナを運営していた。
保護した少女の話から、貴族崩れの盗賊は20から30人と推測した。
それならば、アンティ隊、ディラリ隊、ブーカ隊のほうが戦力的に優位だ。
だが、グスタフのフロランが不穏なことを告げた。
「この一帯には、元貴族の盗賊が500はいる」
彼の言葉を信じるに足る証拠はないが、付近には多くの避難者がいるのだという。
この一帯は、セロによるヒトの掃討がなかったので、無人となっていた村に住み着いたヒトが多いのだとか。
元貴族たちは、彼らから“税”と称する略奪を行っている。
盗賊の数は多く、避難者たちでは対抗できないと。
半田千早は「たいへんなことになっちゃった」と呟いた。
ディラリは、その事情を元首パウラから聞いていた。パウラも最近になって伝聞で知ったのだが……。
ファラナは、セロに破壊されていなかった。放棄された後も、しばらくヒトが住んでいたが、王家の所有地であることから無理矢理立ち退かされていた。
それが結果的によかったのか、ファラナはセロの破壊を免れる。
そして、セロから逃れて、この村に住み着いたヒトがいた。実質的な完全無人は6カ月ほどと短かった。
指導者はディラリと同じ、グスタフだと言った。名はフロラン。老人だ。セロに北への逃げ道を塞がれてしまい、内陸に向かった。ファラナに達し、ここで息を潜めていたという。
彼は海岸部での出来事については、まったく知らなかった。
もちろん、クマン王国が崩壊し、クマン国が成立したことも。さらには、グスタフも北のマルクス派と南のクマン派に分裂したことも……。
軌道を西進してきたディラリ隊とファラナの住民が出会った際、両者の間に極度に緊張が高まった。
ディラリ隊は銃口を向け、ファラナの住民は手製の槍を構える。
場所は軌道の終点。駅構内をすべて覆うドーム状の屋根がある。構内は荒れていたが、殺伐とはしていなかった。
ここで、両者は接触した。
ディラリが叫ぶ。
「私はグスタフのディラリ。クマン国元首パウラの命を受け、ファラナを調べに来た。
危害を加える意思はない」
若者が怯えながら問う。
「グスタフだという証拠は!
証拠を見せろ!」
ディラリは、首から下げたグスタフを示すメダルをシャツの中から出し、見せる。
ファラナ住民に動揺が広がるが、槍の穂先を向けたままだ。
若者が「フロラン様を呼んでこい!」と叫ぶと、何人かが走って行く。
ディラリ隊は銃口を下げたが、ファラナの住民は槍の穂先を向けている。戦い慣れしていない構えだ。
両者が対峙した状態で、ディラリとフロランは出会った。
「私はグスタフのディラリ、故あってクマン国元首パウラに仕えている」
老フロランは、眼光鋭く、ディラリを値踏みする。
「グスタフが仕えるのは民衆だけだ。
統治者の手先にはならぬ」
「クマン国は、民衆が力を合わせて建国した。
王はおらず、民衆の代表が国を治めている」
「ならば、その元首とやらは何者だ?」
「知っての通り、クマンの社会は複雑だ。
王家、王族、貴族、豪族、民衆……。
立場を超えて、国をまとめるための象徴として、元首を戴いた。
いずれ、元首も民衆の入れ札で決めることになろう。
いまは過渡期。手長族を南に退けた功労者、クマン王国第4王女パウラを元首に戴いている」
「やはり、王家が支配しているんだな」
「それは違う。
王家はもうない。パウラは、我らと同じこの国の民だ」
「信じられんな。
で、ここに何しに来た」
「東に新たな敵が現れた。
東に物資を送るためのルートを探している。
ファラナの川は、南から北に流れ、西に向かわず海には至らない。
東に向かうのではないか、と考えている。西から東に流れる大河につながっているのではないか、と。
それを調べに来た」
「西から東に流れる大河?
伝説の?」
「そのような伝説があるのか?
すでに確認している。
経路には駅を設け、川には港もある」
「信じられん……」
「グスタフのフロラン殿。
皆さんをここから追い出したりはせぬ。
約束する。
矛を収めてほしい。
ただ、ファラナの街と川を調べたいだけなのだ。
我らは同じ、クマン人ではないか」
「そのクマン人に手ひどくやられた!
盗賊に何度も襲われている。
男が殺され、娘が拐かされた」
「盗賊がいるのか?」
「あぁ、残虐な連中だよ。
元貴族だ……。
おまえたちの人数では、立ち向かえないぞ」
フロランは、旧王家の別邸を拠点にしていた。堅固な外周壁があるからだ。弓と槍で武装し、住民に訓練を施し、どうにか村を守ってきたのだという。
村の民家は10戸ほど。全戸が王家に使えていた。王家や王族がこの地に静養に来ると、川魚や森の恵みを採集していた。先王が地の食材を好んだからだ。
元の住民は誰もおらず、現在の住民は他所からの避難民だ。
ディラリ以外は、王家別邸には通されず、他は川の調査に向かう。
ファラナに達した軌陸両用車は、海岸に引き返す。盗賊の存在はまったくの想定外で、ディラリ隊はその備えを欠いている。
たかだか1パーミル(1/1000)の勾配でも、下り坂であることに変わりはない。それに、軌道の状態は往路で詳細に調べてある。
クマン人が作った軌陸両用車は、用心しながらも空荷の貨車2輌を牽引して、全速で海岸に向かった。
エリシュカは、本気でヨランダに資金を提供するるもりだった。
男尊女卑の激しいココワでは、女性は“家”を起こせない。起業できないのだ。だから、エリシュカの商売は“家”ではない。
バルカネルビやトンブクトゥでは、女性でも“家”は起こせる。しかし、扱う商品によって、ギルドがある。穀物商ギルド、酒販ギルド、織物商ギルド、陶器商ギルド、など細分化された同業者組合がある。
工業従事者のギルドもある。
ギルドに加盟していなければ、大きな取引ができない。ギルドに加盟するには加盟費の納入だけでなく、ギルドに加盟している全メンバーの3分の2の同意が必要だ。
もちろん、女性であることを理由に加盟を拒否できる。ギルドの組合員に女性はいない。
だから、女性である限り小商いしかできない。
唯一、ギルドのない商品がある。
燃料だ。
燃料はバレル家とサール家などの支家が独占してきたからだ。元売りから小売りまでバレル家一族郎党が統制していたので、ギルドは存在しない。
リトリン家は長子を亡くし、ふさぎ込みがちな当主に代わって、長女クレールが当主を代行している。
この形式は、湖水地域ではよくある。名前だけの男性当主は、少なくない。
しかし、クレールのように、ギルドの会合に出席するといった行為は希。通常は遠慮して欠席する。クレールは末席に座らされ、発言さえ許されていない。
永遠にそうだ。
穀物販売の仲介が生業だったので、雑穀商ギルドの他、水運ギルドにも加盟していた。ギルド制を無視する西のヒトの物資輸送にあたって、バルカネルビの水運ギルドに加盟していたことは、波風を立たせない効果があった。
それは、リトリン家のような小規模商人には重要なことだ。
クレールは、燃料を仕入れられれば一暴れできる、と確信していた。
だから、川を遡るという冒険に賭けたのだ。
ヨランダは、彼女の父親が燃料を仕入れたら暴利を貪るだろう、と確信している。だが、自分だったら……、どうしようかな、と考えると自然と笑みが漏れる。
夢物語だが……。
もちろん、燃料ギルドがないことは承知。父親もそれに気付いて、賭に出ている。遠縁からの資金獲得は、燃料目当てであることは間違いない。
ただ、彼女の父親は救世主を本命とし、西のヒトは次点に置いていた。救世主との交渉は自分が、西のヒトには“いらない子”のヨランダに命じた。
遡上を始めた最初の夜、岸辺に上がった調査隊は、ドラゴンへの警戒をしつつ、キャンプの支度を始める。
食事の用意をしながら、エリシュカがヨランダに再度確認する。
「ヨランダに“家”を起こす意思があるなら、資金を出す。
知っていると思うが、燃料に関してはギルドがない。
女でも手が出せる」
「本気……?」
「このままだと、バルカネルビはリトリン家が押さえるだろう。
私はココワで勝負する。
最後の一画が、トンブクトゥだ。
この街に燃料ギルドができると厄介だ。
ココワ、バルカネルビ、トンブクトゥを我らが押さえれば、我らの勝ち。
女の勝ちだ!」
ヨランダが、エリシュカを見詰める。
「多くのヒトが燃料の不足で困っている。
勝ち負けなどどうでもいいと思う。
私は、普通に生活しているヒトの役に立ちたい」
エリシュカが大笑いする。
「思った通りだ!
おまえはいいヤツだ。
ヒトの役に立つには、いまは燃料を確保し、誰もが買える価格で売ることだ!
それができるのは、おまえとクレールと私だ。
違うか!」
ヨランダは、買いかぶられていることに不安よりも恐怖を感じた。
元首パウラは、密かに海路を旧王都へ向かっていた。
クマンには、まだ動力船は3隻しかなく、そのうち1隻はディラリ隊が使い、1隻はパウラが使えば、否応なく目立つ。特にセロが支配する南に向かうとなれば、バンジェル島が関心を示す。
パウラを乗せた船は、いったん北に向かう西ユーラシアへの航路をとり、夜陰に紛れて南に転舵した。
この船にパウラが乗っていることは、バンジェル島の各勢力はもちろん、クマンの政権幹部さえ知らない。
クマンは、発光による信号を使う。クマンの回光通信機は、人工光源を利用する信号灯で、光源はガソリンランタン。ガソリンを噴射してガス化し、発光にマントルを使う。鏡のように磨き上げられた金属製亀甲板を反射板とする。遮蔽板の開閉で、光を明滅させる。
信号はモールス符号が基礎になっている。50センチ級ならば、夜間なら水平線まで光が届く。伝達速度は、1分間に14ワードと速くはない。
ディラリは伝統的なこの装置を使い、伝達中継基地2カ所を介して、ファラナからバンジェル島対岸まで、700キロを通信した。
ディラリの情報は衝撃的なもので、鉄道馬車用軌道は無事、ファラナには避難民がおり、川は伝承の通り南から北に流れ、浅い喫水ならば大型の河川船の運行が可能、と伝えられた。
さらに貴族崩れの盗賊がおり、ファラナの避難民を苦しめていると……。
元首パウラは、半田千早やミエリキとの冒険の日々が懐かしく、そして救出されていない避難民の存在に衝撃を受けた。
「私が行かなくっちゃ」
わずかな手勢を引き連れ、西ユーラシアの北方人から購入した木造動力船で旧王都を目指している。
旧王都とファラナ間の軌道には、致命的な欠陥があった。500キロの区間に駅は10あるが、引き込み線が皆無なのだ。もちろん単線。
つまり、上り下りの概念がない。列車はすれ違えないのだ。
旧王都とファラナには、人力の転車台があり、始発と終着でのみ方向転換する。
旧王都では、救世主から鹵獲した3トン積みボンネットトラックを改造した軌陸両用車の準備を整えていたが、もし途中で、ファラナから旧王都に戻る車輌と出会った場合、どちらかが軌道から出なければならない。
それは不可能に近いので、旧王都を発しなかった。
ファラナを発したピックアップトラック改造の軌陸両用車は夜通し走り、旧王都に日の出の2時間前に戻ってきた。
ボンネットトラック改造の軌陸両用車は、物資と兵を乗せて、1間後にファラナに向けて出発する。
パウラを乗せた動力船は座礁を恐れて、夜明けまで沖合で待機していた。
夜明けと同時に旧王都第1埠頭に入港。物資を揚陸しさせる。
パウラの手勢は20ほどだったが、先に入港していた船とパウラを乗せてきた船の水兵で、陸戦隊を編制する。
武器はボルトアクション小銃だけだが、総兵力は50になった。
戻ってきた貨車は、ボンネットトラック改造軌陸両用車が牽引してファラナに向かった。
旧王都にはピックアップトラック改造軌陸両用車だけが残っている。
水兵たちは、旧王都駅周辺の草むらや窪地の中、果ては崖の下を覗き込んで、役立つものがないか探し回る。
朽ちかけた王族用客車を見つける。ウマ2頭で牽引するタイプで、この軽便な鉄道の車輌としては大型だ。
横転していた車輌は、木製部分は簡単に崩れてしまうが、鉄の部分は錆びているだけだ。
彼らは、船の補修用木材や瓦礫となっている木材から使えそうなものを探し出して、促成の貨車を半日で作り上げた。
パウラはピックアップトラック改造軌陸両用車の荷台に乗って、「皆さん、出発しましょう!」と命令を発する。
「ウォー」という歓声が上がる。
元首公邸では、元首パウラは体調が悪く、伏せっている、と公表された。
パウラ付き侍女は、パウラのベッドに横になりワクワクしている。一切の面会を中止するが、すると見舞いと称して客が訪れる。
パウラの真似をするが、ドキドキでおもしろい。
しかし、2日は持たないと覚悟を決める。
叱責されるだろうが、牢に入ることはない。それに、2日あればパウラは好き勝手ができる遠方に至っているはずだ。
侍女たちは事の重大性を知らず、パウラの悪戯を一緒に楽しんでいた。
ニジェール川をバマコから250キロ遡ると、オルカが住んでいた村がある支流の分岐点に至る。
ここから上流は、調査隊の誰にとっても未知の世界となる。
ニジェール川は2000メートルの川幅を急速に狭め、支流との合流点から90キロ遡ると500メートルになる。
それでも、200万年後のニジェール川は空前の大河だ。水量が多く、水深もある。川の蛇行も少ない。
しかし、さらに上流は、川幅が150メートルほどとなり、蛇行もひどくなる。
茶色に濁っていた水は透明度を増すが、徐々に褐色なっていき、50キロほどは紅茶のような色になった。
変化はこれだけではなかった。
ワニがいない。魚影も消える。
不気味だ。
アンティが指揮する1号艇がエンジンを止める。
2号艇もスクリュープロペラの回転を止め、惰性で前進し、1号艇の右舷に寄る。
アンティが2号艇のミルシェに問う。
「水に何かが混ざっている」
ミルシェも困惑している。
「生き物がいない。
毒性のものだと思う」
1号艇と2号艇の誰もが、動揺する。ミルシェが2号艇乗員の顔を見渡す。
「ニコチンじゃないかな。
確証はないけど、ニコチンを水に溶いたときと同じ色。
濃いニコチンの水溶液の中では、動物は生きてはいけない。
でも、森には動物がいるし、鳥もいる。密林はまだ続くけど、この川だけの水質じゃないかな。
植物が出す天然のニコチンが、水に溶けているのかもしれない」
アンティが「そうだな。鳥がいる。死の森じゃない。進もう」と。
1号艇がエンジンを始動し、アイドリングしていた2号艇は動力をスクリュープロペラに伝達する。
1号艇と2号艇の操船クルーは2人。各艇には2+7人が乗る。総勢18の調査隊だ。
2号艇の指揮は片倉幸子が執り、半田千早、カルロッタ、オルカ、エリシュカたちが乗る。クレールとヨランダは1号艇にいる。
紅茶のような水が透明になるまで、100キロ以上航行する。
森は川面まで迫り、薄暗く、上陸できる岸はなく、息が詰まるような雰囲気から、突如開けた草原になる。
日没間際だった。
西の地平線に沈んでいく太陽がまぶしく、その美しさに、歓声が上がる。
左手に森、右手に草原、森を出たり入ったりしながら50キロほど進むと、完全に疎林が点在する草原の中となる。
ニジェール川の水は、川底が見えるほど澄んでいる。湖水地域の泥色の川と、同じ流れとは思えない美しさだ。
そして、ワニとドラゴンがいない。
草原の主役はガゼルなどの哺乳動物だ。草食獣がいるなら、肉食獣もいる。
警戒は怠れない。
川幅はだいぶ狭くなったが、それでも100メートルある。船の航行には問題ない。水深は10メートルほど。
川の蛇行は相変わらずだ。
中州にキャンプを設営する。
ディラリは、艇長5メートルの海で使うカッターボート2艇で下流に向かっていた。川の流れは緩く、排気量125ccの単気筒船外機でも十分に帰還できそうだ。
このエンジンはカンガブルから揚水ポンプ用として購入したが、実際は最初からボートの動力にするつもりだった。
スクリュープロペラは金細工師が真鍮板を叩いて作り、ギアやシャフトもクマンの職人が作った。
ディラリ隊は20人で、8人がファラナの駅に残り、12人が徒歩よりも少し速い程度の速度で川を下っている。
何人もが、同じ地図を覗き込んでいる。
アンティの「どの辺まで来たと思う?」との問いに、誰も答えが出せない。
片倉幸子が「高台に上って……」と言ったが、西は見渡す限りの草原で、高台どころか高木さえない。
半田千早の「進んだ距離的には、海に出てもいいと思うけど、川を遡ったんだから海に出るわけないよね」との言葉に、誰も反応しない。
重苦しい無言が続く。
オルカが「雰囲気的にだけど、私の村の周囲もこんな風景だった。畑を作れるし、家畜も飼えるから、もう少し進んだら村があると思うんだけど……」と提案する。
アンティがその案にすがる。
「帰りの燃料を考えなくちゃならない。今日の日没まで、川を遡る。ヒトの痕跡、クマンの村が発見できなければ、今回は引き返す。
おそらく、すでにクマンの旧領の中にいる。
現在地を特定できる何かを得られれば、それが調査の成果だ」
アンティ隊は、暗い森を出てから4時間進んでいる。距離にすると約50キロ。
川は、蛇行がひどくなったり、緩くなったりと、一定しない。船の速度は、5ノットから6ノット(時速10キロ前後)だ。
草原の草の丈は高く、1メートルを超える。視界が悪いので、舳先に操船クルーが立ち前方の見張りをしている。
半田千早はフルーツバーを食べていた。朝食はパンと缶詰のソーセージだったが、無性に空腹で我慢できなかった。
ディラリ隊は徒歩と大差ない速度で、曲がりくねった川を下っている。日の出とともに発ったが、20キロほどしか進めていない。
ファラナは盗賊の件もあり、調査は10時までと決めていた。
1号艇の舳先に立つ操船クルーが「ワニじゃない。流木だ!」と叫ぶ。
明らかにヒトが切った6メートルほどの丸太が漂っている。誰もが、その丸太を見詰めている。
暗い森を抜けて以降、初めてのヒトの痕跡だ。しかし、半田千早は「セロかもしれない」と不安になる。
彼女は、ボディアーマーを引き寄せた。
2艇は用心しながら、前進する。特にU字形に湾曲する川の流れでは、前方がまったく見えない。砂州でもあれば、座礁してしまう。
十分に速度を落としてカーブに入ったが、Uどころか、Ωのような流れで、1号艇が急速に速度を落としたことから、後続する2号艇が追い越しそうになる。
川幅は50メートルあり、どうにか追突は免れるが、2号艇の行き足が止まらない。
そして……。
2号艇とボートが正面衝突しそうになる。
2号艇は左に急速転舵し、舳先に立っていた操船クルーは水面に転落する。
誰もがぶつかると思ったし、2号艇の3分の1ほどの大きさしかないボートに乗るヒトは、顔が引きつっている。
後続していたボートが、転落した操船クルーを救助する。
半田千早は、ディラリの顔を何度も見る。やはり、ディラリだ。
驚きが大きすぎて、声が出ない。
ボートの右舷が2号艇の左舷に軽く接触する。
最初に声を発したのは、ディラリだった。
「チハヤ、だよね?」
半田千早の返答は呆けていた。
「うん……」
ディラリは、明らかに当惑していた。
「何で……?」
半田千早も同じ問いだった。
「……ここにいるの?」
2隊の調査隊は、下草の丈が低い草原にいる。両隊の相互の報告を合わせると、バンジェル島対岸のクマン国新都から旧王都を経て、ファラナに到り、ニジェール川を下って湖水地域に達する新ルートの発見に成功したのだ。
これが確実になった瞬間、エリシュカは砂地に座り込み、クレールとヨランダは抱き合って喜んだ。
半田千早は、ディラリの説明ではっきりしないことは、旧王都からファラナに到る陸路のことだった。
片倉幸子は、何となくわかるらしい。
「軽便鉄道……、トロッコのようなもの?」
だが、半田千早にはトロッコがわからない。それは、バルカネルビを発した隊員のすべてに共通している。
この世界には、鉄道がないからだ。
片倉幸子が「もし、トロッコでも鉄道があるなら、すごいよ。燃料の大量輸送ができるかもしれない」と言い、鉄道の知識が皆無のエリシュカは反応できなかった。
エリシュカにとっての片倉幸子は、サール家当主ヴィクラムの顔を拳で潰した粗暴なイメージしかなかった。
4隻の船は、ファラナを目指す。
目的地が明確になると、同じ景色も違って見えてくる。この先には何もないかもしれない、という不安はなく、クマンの東端の街があることがわかり、船のエンジンまで小気味よく回転しているように感じてしまう。
異変は、ファラナまで少しの距離に接近して起きた。
「銃声だ。
銃声が聞こえる」
半田千早は聴覚を最大にするが、エンジン音が邪魔して、何も聞こえない。
1号艇のアンティが叫ぶ。
「エンジンを切れ!」
4隻の船は、エンジンを止め流れに逆らい惰性で進む。
「銃声だ。
交戦している!」
動力を失った4隻は流れに押し戻されて団子状態にあった。
ディラリが「盗賊か!」と叫ぶと、1号艇と2号艇の隊員は、一斉にボディアーマーとヘルメットを着け始める。
完全装備まで1分で終わらせ、弾倉を点検し、コッキングレバーを引いて装弾し、安全装置を確認する。
半田千早は2号艇から飛び降り、ブーツを水につけて岸に上がる。
1号艇から飛び降りたライモンがヨランダに「俺から離れるな。俺のすぐ後ろにいるんだ」と言った。
カルロッタが「あの2人、仲がいいねぇ」と悪戯っぽく笑う。
半田千早が「油断してると死んじゃうよ」と諭すと、カルロッタの顔が引き締まる。
銃声は旧王家別邸からではない。ディラリが「駅の方角だ」と指さす。
ティッシュモックのアキラを先頭に、銃を構えて駅に向かう。戦闘部隊ではないので、装備は各隊員の個人所有だ。弾薬も統一されていない。
ディラリ隊も非正規のクマンの部隊なので、西ユーラシア製のボルトアクション小銃ではあるものの、いろいろな街製の銃が混在している。だが、弾薬は7.62×51ミリNATO弾に統一されていた。
アキラの数歩後方にアンティが続く。
銃以外の発射音がする。
アキラがマイクに囁く。
「手長族だ。
ヒトが手長族と交戦中」
半田千早がクレールに「敵はヒトじゃない。手長族。躊躇ったら殺される」と教える。
クレールは精霊族や鬼神族と何がどう違うのか、さっぱりわからなかったが大口径単発ライフルの撃鉄を起こす。
戦いたいわけではなく、単なる用心だ。
半田千早は完全な臨戦態勢で、セロとの交戦経験がないカルロッタは動揺している。西ユーラシアにおいて赤服との戦闘を数多〈あまた〉重ねているティッシュモックのアキラやアントラムのライモンは、迷いや油断の様子はまったくない。
上陸は桟橋ではなく、駅から300メートル北に離れた川岸だった。1号艇と2号艇には操船クルーだけを残し、両艇は下流に向かって退避した。
ディラリたちのボートは岸辺に乗り上げ、全員が上陸している。
アンティ隊の銃は個人所有の装備だが、軍装は統一されていた。草原仕様の迷彩服にボディアーマーとヘルメットを着用している。
ディラリ隊は戦闘を意図していないことから、クマン軍の作業服と作業帽だ。銃の装備は、動物との遭遇など不測の事態に備えてのものだった。
丈が2メートルを超えるイネ科の茂みを、右に回り込みながら駅に接近していく。
旧王都からファラナまでは、10日の旅程であった。王家と王族専用の駅が設けられ、揺れの少ない鉄道馬車の旅は快適であったという。
救世主から鹵獲したボンネットトラック改造軌陸両用車は、かつての王家・王族が10日を要した行程を、わずか7時間30分でやってきた。
元首パウラの命を受けたクマンの指揮官ブーカは、戦闘が始まる直前に到着していた。
襲撃者の数は多い。推定だが30はいる。もし、先着の8人だけだったなら、簡単に制圧されていた。
先着のディラリ隊8人は、盗賊の存在を知っていたので無警戒だったわけではない。だが、現実感がなかった。
ファラナの空気がとても穏やかだからだ。緊張を強いるものがない。川にはワニはいない、草原はガゼルたちのパラダイス、肉食の哺乳類はヒトとの接触を避ける。
駅構内は放置されていたので荒れてはいるが、破壊の痕跡はない。
これでは、警戒が緩む。
いきなり撃たれ、4人が負傷し、応戦するが多勢に無勢。セロなら殺されるが、ヒトならば無闇には殺さないだろう。
負傷者を残して後退するつもりはないし、徹底抗戦にも意味はない。
だが、すぐに考えを改めた。
セロの武器で攻撃されたからだ。
襲撃者がセロの武器を使うなら、それはセロだ。
8人は転車台の下に飛び込む。1人は重傷で、2人は軽傷、1人は意識が混濁し始めている。
戦えるのは6人。
セロが相手なら戦う以外の選択肢はない。
ボンネットトラック改造の軌陸両用車は、ファラナまで3キロの地点で、風に乗った銃声を聞いた。
ブーカは「急げ!」と命じたが、軌陸両用車の速度は最大速度に近かった。
駅まで3分ほどだ。
駅構内に軌陸両用車が進入すると、急制動をかけて、荷台の兵士が一斉に飛び降りる。
そして、襲撃者への反撃が始まる。
アンティ隊とディラリ隊が丈の高い茂みを回り込むと、駅の構内がよく見える。
転車台に身を隠して銃を撃つ数人と、海側から反撃する完全武装のクマンの水兵。
襲撃側は見えない。
茂みをさらに回り込むと、襲撃側の左側面に出た。
距離は20メートルもない。
遭遇戦だ。
「テッ!」
誰の命令かわからないが、半田千早は反射的にノイリン製AK-47を発射していた。
襲撃者は、左側側面への突然の攻撃に驚き、迅速に後退していく。
半田千早はこの時、ヘンだ、と感じた。セロは逃げない。セロがヒトを含む二足歩行動物を殺す理由は、宗教に似た教義に関係がある。実際は、ガウゼの法則によるニッチの争奪という生物の原初的な行動に起因しているが、彼らはそう思っていない。
ヒトで言えば神のような存在が、殺せと命じるから必死になって殺すのだ。
そのセロが逃げた。
奇妙だ!
ブーカの驚きと当惑は、大きかった。
「ディラリが戻ることは、想定の範囲内だが、北のヒトが同行しているとは想像の範疇を超えている……」
クマンは大西洋を南下してやって来る西ユーラシアのヒトを、しばしば“北のヒト”と呼ぶ。
ディラリが「アンティたちは、東方から川を遡ってやって来た」と説明すると、ブーカはさらに驚く。
「ファラナの川は、東に通じているのか?」
片倉幸子は、軌道を調べている。
カルロッタが「これが、鉄道?」と片倉幸子に尋ねる。
「軽便鉄道に近いけど、レールは200万年前の規格と同じようだし、軌間は標準軌みたい。軌道の敷設も堅牢ね。
軌道がどのくらいの重量に絶えられるかが問題だけど、現在のトラック輸送に比べたら、はるかに高効率ね」
カルロッタは「鉄道は本で見た。煙を吐くんでしょ」と。
片倉幸子の「それは蒸気機関車。ノイリンならディーゼル機関車が作れる」との答えに、複雑な表情をする。
カルロッタは赤道以北アフリカにおける権益のノイリン独占阻止を狙って、クフラックが送り込んできた諜報員だからだ。
片倉幸子は、そんなことは重々承知している。
金沢壮一に「クマンで鉄道を発見」と知らせれば、すぐにやって来ることは容易に想像できた。
金沢壮一は“鉄ちゃん”だから。
半田千早は、襲撃者の死体を調べていた。
「手長族じゃないよ。
ヒトだよ。
ヒトが手長族の武器を装備して、ヒトを襲っていたんだ。
手長族に調略されたヒトなのかな?」
ブーカが半田千早を見る。
「こやつの靴、クマンの貴族のものだ
こっちはやはり貴族のズボンと靴。
貴族崩れの盗賊という話は、嘘ではなかろう」
半田千早はそれでも不審だった。
「武器は?」
ブーカは答えを持っていた。
「戦場で拾ったのだ。
我らが攻勢に出た際、多くの戦場で勝利した。その際、手長族の重火器は破壊したが、小火器までは手が回らなかった。
初戦で敗れ瓦解していた貴族どもが、手長族の武器を戦場で拾い再武装したんだ。
そして、避難民を襲い始めた……」
半田千早はブーカの話を信じられない。
「貴族だって、クマン人でしょ。
どうして、手長族の真似なんかするの?」
ブーカが息を吐く。
「負けるとはそういうことだ。
私も最初の戦いで、心が折れた」
半田千早がブーカを見る。ブーカが笑う。
「貧乏貴族だったんだ。
私は……。
貧乏だったから、立ち直れたのかもしれない。裕福だった連中には、無理かもしれんな。
徹底的に叩かれたんだ。抵抗らしい抵抗はできなかった。一方的に負けたんだ。
あの挫折感は、何か依り代がないと心を病んでしまう」
負傷者は6。軽傷4、意識不明1、重傷1。戦死1。
ブーカ隊が少女を保護したが、ひどく怯えている。この武装集団は、少女を追ってきたようだ。
ミルシェが負傷者と少女の手当てをしている。
アンティとディラリは捕虜を尋問。
「おまえたちは何者だ」
ディラリの問いに後ろ手に縛られ、木箱に座らされた捕虜は沈黙したまま。
「あの子は何だ?
仲間は何人いる」
捕虜に怯えはない。彼の答えは想像とは異なっていた。
「下賎なものとは話をしない。
それが貴族というものだ」
少し離れて少女を手当てしていたミルシェが立ち上がる。
捕虜の前に立つアンティとディラリの間をすり抜ける。
一瞬のことだった。
ミルシェがダガーナイフ型の銃剣を抜き、捕虜の左太股に突き立てる。
捕虜は驚き絶叫する。
「ヴァアァァァ~!」
ミルシェは優しく微笑んでいた。
「このナイフを少しひねれば、動脈を切断する。ヒトの身体には5リットルの血が流れている。
私がこの手を少しひねれば、10分でその血のすべてが流れ出す。
おまえの生命は、あと10分はない。
何も話すな。
おまえの身体からすべての血を抜き、大地に染みこませる。
おまえの死をここにいる全員で眺めて楽しんでやる」
捕虜は怯えた。
「やめてくれ。
誰かこの女を止めて!
何でも話すから、殺さないで!」
ミルシェが銃剣を抜く。
半田千早も同じタイプを使っているが、彼女の銃剣は黒染めだ。しかし、ミルシェの装備は鏡のように磨き上げられた刀身だ。
「あれで刺されたら怖いよね」とオルカに言うと、彼女は「私なら殺してる。捕虜はもう1人いるし……」と。
オルカは少女に向かった。
ファラナは小さな村で、王家と王族の保養地以外の機能はなかった。
もともとは王族が狩猟のための別邸として建てたのだが、数代前の国王が大変気に入り、この館に住まわせていた王族の愛妾を含めて譲り受けたのだという。
館自体は大規模な拡張はされなかったが、その後の王によって、鉄道馬車用のレールの敷設、川を遊覧するための桟橋の設置、堅固な外周壁の建造、展望塔の新設などが行われた。
外周壁内の敷地も70×70メートルの正方形だ。
四隅に監視塔があり、近衛兵の宿舎もある。庭師や女中などは、ここに住んでおり、彼らの住居も残っている。
ただ、使用人の数は最大でも10世帯ほどだろう。
館の外には、館内の諸事をする使用人ではないものたちの住居がある。建物の構造が異なることから、彼らはどこからか移り住んできたようだ。建物自体は豪華ではないが、粗末ではない。少なくとも、街のクマンの一般住居よりも広い。
建物の状態は、木造の屋根が落ち、土壁の一部が崩れている。ヒトが住める状態ではない。
本来の住民は広大な畑を開墾していたが、現在はごく一部が使われている。状況から推察すると、畑も王家のものだったのかもしれない。
ニジェール川を中心に、館、駅、桟橋が公園のような造りだったようだ。
館と駅間は300メートルほどあり、館と桟橋は100メートル。館の外の住居は、200メートルほど離れている。
館は往事のような華やかさはないが、新たな住民が手入れや補修をしており、決して荒れ果ててはいない。
避難所ではなく、恒久的な住居として使われている。
グスタフのフロランは、杖を必要とする老人だが、厳格な規律でファラナを運営していた。
保護した少女の話から、貴族崩れの盗賊は20から30人と推測した。
それならば、アンティ隊、ディラリ隊、ブーカ隊のほうが戦力的に優位だ。
だが、グスタフのフロランが不穏なことを告げた。
「この一帯には、元貴族の盗賊が500はいる」
彼の言葉を信じるに足る証拠はないが、付近には多くの避難者がいるのだという。
この一帯は、セロによるヒトの掃討がなかったので、無人となっていた村に住み着いたヒトが多いのだとか。
元貴族たちは、彼らから“税”と称する略奪を行っている。
盗賊の数は多く、避難者たちでは対抗できないと。
半田千早は「たいへんなことになっちゃった」と呟いた。
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