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★ノモンハン事件★
【届けられた電報】
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お手洗いから戻って来た薫さんは、さっきまでの妖艶な感じはなく、いつもの聡明な薫さんに戻っていた。
何かあったのかなと思ってよく見てみると、さっきまでギラギラしていた唇が、いつもの清楚な唇に戻っていた。
“あぁ、なるほど。化粧を直していたんだ”
戻って来る薫さんを見ていたら、何やら視野の端で誰かが慌てているような気配を感じて振り向くと、黒い帽子を被った若い男が誰かを探すようにキョロキョロしながら通りの向こう側を走っていた。
黒い帽子の男は、時折店の窓から中の様子を覗いたり、タクシーが通ればその中に乗っている人に顔を向けたりしていた。
「おまたせ」
薫さんが席に戻って来たので、窓の外に向けていた顔を離す。
「何を見ていたの? お好みの美女でも居たのかしら……」
彼女はそう言って、私が見ていた方を覗き、私も再びその方向に顔を向けた。
けれども私の眼はもう黒い帽子の男を追いかけなかった。
私の眼が見ていたものは透明感の中に、冷たい夏の氷のような儚さを持ってガラスに映る薫さんの顔……。
「オマタセ、マシタ」
どことなくカタコトの日本語を使い、給仕の女の子が上海蟹をテーブルに置き、私は魔法から解かれる。
「谢谢」と言うと、給仕の女の子は明るく笑い「慢慢享受(ゆっくりお楽しみください)」と言い足早に厨房に消えていき、彼女が入った厨房からワーっという同世代の女の子らしい複数の歓声が上がっていた。
「日中友好大使ね」
と、それを見た薫さんが笑って言った。
出された上海蟹をさばいているとき、中と外の明暗の差で鏡のように反射して外が見えにくくなっているガラス窓の向こう側から、さっきの黒い帽子の男がこちらに近づいて来るのが見えた。
近づく様は最初こそソワソワしていて誰かを探すような素振りだったが、ある地点から目的の人物を見つけたらしく落ち着いて、まるで獲物を見つけた死神のようにゆっくりと音もなく近づいて来る。
相手の顔や視線が誰を捕えているのかは、反射するガラスが邪魔をして分からないが、彼の様子からして目的の人物がこの店に居るのは間違いなさそうだった。
いやな予感。
死神は、上海蟹を食べ終わるまで待ってはくれないだろう。
いつも死は、突然訪れる……。
黒い帽子の男に神経をとがらせながら、上海蟹をさばいている。
今はちょうど、甲羅の身をさばき終えたところ。次は脚にハサミを入れ終わればすぐに食べることが出来る。
店のドアが開く音が聞こえ、音もなくヤツが店内に進入してきた。
首を刈るための鎌は隠しているが、おそらく黒い服の下にはピストルが隠されているに違いない。
店内に入ったヤツは、人間らしく、足音を立てながら私たちの方に近づいてくる。
“まいったな、目的の相手は、私なのか?”
困ったことに私はピストルを所持していないから、急に撃たれればお終い。
だからといってこの混んだ店内で抗えば、なんの関係もない第三者が銃弾の犠牲になってしまう。
だから私は待っているしかない。
ヤツが私の死についての事情を説明してくれるまで。
もしかしたら、話し合えば、何とかなるかもしれない。
今は、それを、願うだけ。
黒い帽子の男が、私たちのテーブルの前で立ち止まり、見下ろすように私を見る。
ギラギラと光っているはずの眼は帽子に隠れてよく見えないが、獲物を見つけて上げられた口角はハッキリと確認できた。
ポケットに入れていた手がゆっくりと上がる。
“やれやれ、お喋りは、なしか……”
私は相手を蹴るために、座ったまま向きを斜めに変えた。
そのとき何かが予想も出来ない速さで動いたかと思うと、黒い帽子の男の顔が上海蟹をさばき終えた皿の前に打ち付けられるように突っ伏した。
「连招呼都不打,你想要什么⁉(挨拶も無しに、いったいどういうつもり⁉)」
黒い帽子の男のポケットから抜いた手を後ろ手に捻じり上げ、動きを封じるためにその背中に股を開いて膝を押し当てていた薫さんが、ハッキリとした中国語で言った。
急に不利な体勢になった黒い帽子の男は、ようやくさばき終えた上海蟹の皿の前で苦しい表情をして唾を飛ばしながら、大使館の使いの者だと言った。
「じゃあ、このピストルは……?」言いかけて止まった薫さんが、不思議な顔をして、男の手から一枚の紙きれを取り出して私に渡す。
“電報?”
紙にはこう書かれていた。
「マンシュウ、ノモンハンフキンニ、ソビエトグン、シュウケツチュウ」と。
何かあったのかなと思ってよく見てみると、さっきまでギラギラしていた唇が、いつもの清楚な唇に戻っていた。
“あぁ、なるほど。化粧を直していたんだ”
戻って来る薫さんを見ていたら、何やら視野の端で誰かが慌てているような気配を感じて振り向くと、黒い帽子を被った若い男が誰かを探すようにキョロキョロしながら通りの向こう側を走っていた。
黒い帽子の男は、時折店の窓から中の様子を覗いたり、タクシーが通ればその中に乗っている人に顔を向けたりしていた。
「おまたせ」
薫さんが席に戻って来たので、窓の外に向けていた顔を離す。
「何を見ていたの? お好みの美女でも居たのかしら……」
彼女はそう言って、私が見ていた方を覗き、私も再びその方向に顔を向けた。
けれども私の眼はもう黒い帽子の男を追いかけなかった。
私の眼が見ていたものは透明感の中に、冷たい夏の氷のような儚さを持ってガラスに映る薫さんの顔……。
「オマタセ、マシタ」
どことなくカタコトの日本語を使い、給仕の女の子が上海蟹をテーブルに置き、私は魔法から解かれる。
「谢谢」と言うと、給仕の女の子は明るく笑い「慢慢享受(ゆっくりお楽しみください)」と言い足早に厨房に消えていき、彼女が入った厨房からワーっという同世代の女の子らしい複数の歓声が上がっていた。
「日中友好大使ね」
と、それを見た薫さんが笑って言った。
出された上海蟹をさばいているとき、中と外の明暗の差で鏡のように反射して外が見えにくくなっているガラス窓の向こう側から、さっきの黒い帽子の男がこちらに近づいて来るのが見えた。
近づく様は最初こそソワソワしていて誰かを探すような素振りだったが、ある地点から目的の人物を見つけたらしく落ち着いて、まるで獲物を見つけた死神のようにゆっくりと音もなく近づいて来る。
相手の顔や視線が誰を捕えているのかは、反射するガラスが邪魔をして分からないが、彼の様子からして目的の人物がこの店に居るのは間違いなさそうだった。
いやな予感。
死神は、上海蟹を食べ終わるまで待ってはくれないだろう。
いつも死は、突然訪れる……。
黒い帽子の男に神経をとがらせながら、上海蟹をさばいている。
今はちょうど、甲羅の身をさばき終えたところ。次は脚にハサミを入れ終わればすぐに食べることが出来る。
店のドアが開く音が聞こえ、音もなくヤツが店内に進入してきた。
首を刈るための鎌は隠しているが、おそらく黒い服の下にはピストルが隠されているに違いない。
店内に入ったヤツは、人間らしく、足音を立てながら私たちの方に近づいてくる。
“まいったな、目的の相手は、私なのか?”
困ったことに私はピストルを所持していないから、急に撃たれればお終い。
だからといってこの混んだ店内で抗えば、なんの関係もない第三者が銃弾の犠牲になってしまう。
だから私は待っているしかない。
ヤツが私の死についての事情を説明してくれるまで。
もしかしたら、話し合えば、何とかなるかもしれない。
今は、それを、願うだけ。
黒い帽子の男が、私たちのテーブルの前で立ち止まり、見下ろすように私を見る。
ギラギラと光っているはずの眼は帽子に隠れてよく見えないが、獲物を見つけて上げられた口角はハッキリと確認できた。
ポケットに入れていた手がゆっくりと上がる。
“やれやれ、お喋りは、なしか……”
私は相手を蹴るために、座ったまま向きを斜めに変えた。
そのとき何かが予想も出来ない速さで動いたかと思うと、黒い帽子の男の顔が上海蟹をさばき終えた皿の前に打ち付けられるように突っ伏した。
「连招呼都不打,你想要什么⁉(挨拶も無しに、いったいどういうつもり⁉)」
黒い帽子の男のポケットから抜いた手を後ろ手に捻じり上げ、動きを封じるためにその背中に股を開いて膝を押し当てていた薫さんが、ハッキリとした中国語で言った。
急に不利な体勢になった黒い帽子の男は、ようやくさばき終えた上海蟹の皿の前で苦しい表情をして唾を飛ばしながら、大使館の使いの者だと言った。
「じゃあ、このピストルは……?」言いかけて止まった薫さんが、不思議な顔をして、男の手から一枚の紙きれを取り出して私に渡す。
“電報?”
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「マンシュウ、ノモンハンフキンニ、ソビエトグン、シュウケツチュウ」と。
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