対米戦、準備せよ!

湖灯

文字の大きさ
27 / 56
★ノモンハン事件★

【届けられた電報】

しおりを挟む
 お手洗いから戻って来た薫さんは、さっきまでの妖艶な感じはなく、いつもの聡明な薫さんに戻っていた。

 何かあったのかなと思ってよく見てみると、さっきまでギラギラしていた唇が、いつもの清楚な唇に戻っていた。

 “あぁ、なるほど。化粧を直していたんだ”

 戻って来る薫さんを見ていたら、何やら視野の端で誰かが慌てているような気配を感じて振り向くと、黒い帽子を被った若い男が誰かを探すようにキョロキョロしながら通りの向こう側を走っていた。

 黒い帽子の男は、時折店の窓から中の様子を覗いたり、タクシーが通ればその中に乗っている人に顔を向けたりしていた。



「おまたせ」

 薫さんが席に戻って来たので、窓の外に向けていた顔を離す。

「何を見ていたの? お好みの美女でも居たのかしら……」

 彼女はそう言って、私が見ていた方を覗き、私も再びその方向に顔を向けた。

 けれども私の眼はもう黒い帽子の男を追いかけなかった。

 私の眼が見ていたものは透明感の中に、冷たい夏の氷のような儚さを持ってガラスに映る薫さんの顔……。



「オマタセ、マシタ」

 どことなくカタコトの日本語を使い、給仕の女の子が上海蟹をテーブルに置き、私は魔法から解かれる。

谢谢ありがとう」と言うと、給仕の女の子は明るく笑い「慢慢享受(ゆっくりお楽しみください)」と言い足早に厨房に消えていき、彼女が入った厨房からワーっという同世代の女の子らしい複数の歓声が上がっていた。

「日中友好大使ね」

 と、それを見た薫さんが笑って言った。



 出された上海蟹をさばいているとき、中と外の明暗の差で鏡のように反射して外が見えにくくなっているガラス窓の向こう側から、さっきの黒い帽子の男がこちらに近づいて来るのが見えた。

 近づくさまは最初こそソワソワしていて誰かを探すような素振りだったが、ある地点から目的の人物を見つけたらしく落ち着いて、まるで獲物を見つけた死神のようにゆっくりと音もなく近づいて来る。

 相手の顔や視線が誰を捕えているのかは、反射するガラスが邪魔をして分からないが、彼の様子からして目的の人物がこの店に居るのは間違いなさそうだった。

 いやな予感。

 死神は、上海蟹を食べ終わるまで待ってはくれないだろう。

 いつも死は、突然訪れる……。



 黒い帽子の男に神経をとがらせながら、上海蟹をさばいている。

 今はちょうど、甲羅の身をさばき終えたところ。次は脚にハサミを入れ終わればすぐに食べることが出来る。

 店のドアが開く音が聞こえ、音もなくヤツが店内に進入してきた。

 首を刈るための鎌は隠しているが、おそらく黒い服の下にはピストルが隠されているに違いない。

 店内に入ったヤツは、人間らしく、足音を立てながら私たちの方に近づいてくる。



 “まいったな、目的の相手は、私なのか?”



 困ったことに私はピストルを所持していないから、急に撃たれればお終い。

 だからといってこの混んだ店内で抗えば、なんの関係もない第三者が銃弾の犠牲になってしまう。

 だから私は待っているしかない。

 ヤツが私の死についての事情を説明してくれるまで。

 もしかしたら、話し合えば、何とかなるかもしれない。

 今は、それを、願うだけ。



 黒い帽子の男が、私たちのテーブルの前で立ち止まり、見下ろすように私を見る。

 ギラギラと光っているはずの眼は帽子に隠れてよく見えないが、獲物を見つけて上げられた口角はハッキリと確認できた。

 ポケットに入れていた手がゆっくりと上がる。



 “やれやれ、お喋りは、なしか……”



 私は相手を蹴るために、座ったまま向きを斜めに変えた。

 そのとき何かが予想も出来ない速さで動いたかと思うと、黒い帽子の男の顔が上海蟹をさばき終えた皿の前に打ち付けられるように突っ伏した。



「连招呼都不打,你想要什么⁉(挨拶も無しに、いったいどういうつもり⁉)」

 黒い帽子の男のポケットから抜いた手を後ろ手に捻じり上げ、動きを封じるためにその背中に股を開いて膝を押し当てていた薫さんが、ハッキリとした中国語で言った。

 

 急に不利な体勢になった黒い帽子の男は、ようやくさばき終えた上海蟹の皿の前で苦しい表情をして唾を飛ばしながら、大使館の使いの者だと言った。

「じゃあ、このピストルは……?」言いかけて止まった薫さんが、不思議な顔をして、男の手から一枚の紙きれを取り出して私に渡す。



 “電報?”

 紙にはこう書かれていた。

「マンシュウ、ノモンハンフキンニ、ソビエトグン、シュウケツチュウ」と。
しおりを挟む
感想 6

あなたにおすすめの小説

対ソ戦、準備せよ!

湖灯
歴史・時代
1940年、遂に欧州で第二次世界大戦がはじまります。 前作『対米戦、準備せよ!』で、中国での戦いを避けることができ、米国とも良好な経済関係を築くことに成功した日本にもやがて暗い影が押し寄せてきます。 未来の日本から来たという柳生、結城の2人によって1944年のサイパン戦後から1934年の日本に戻った大本営の特例を受けた柏原少佐は再びこの日本の危機を回避させることができるのでしょうか!? 小説家になろうでは、前作『対米戦、準備せよ!』のタイトルのまま先行配信中です!

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら

俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。 赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。 史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。 もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

織田信長IF… 天下統一再び!!

華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。 この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。 主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。 ※この物語はフィクションです。

幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。

克全
歴史・時代
 西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。  幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。  北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。  清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。  色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。 一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。 印旛沼開拓は成功するのか? 蝦夷開拓は成功するのか? オロシャとは戦争になるのか? 蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか? それともオロシャになるのか? 西洋帆船は導入されるのか? 幕府は開国に踏み切れるのか? アイヌとの関係はどうなるのか? 幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?

世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記

颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。 ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。 また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。 その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。 この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。 またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。 この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず… 大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。 【重要】 不定期更新。超絶不定期更新です。

処理中です...