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14.巫覡の磐座編
68風発の誘い水 ④
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***
「……さむ」
冷え込んだ森の中を歩きながら、男は身を縮めた。マフラーに手袋、ロングコートと重装備だが、それでも寒そうに震えながら歩を進めている。
そんな仕草も似つかわしい痩躯の彼は、三十路をこえてなお、青年と言われても違和感のないなよっとした男性だ。線は細く、色も白い。その見た目通り、荒事は不得手な文弱だ。姉さん女房の豪胆な指針には、いつも音を上げそうになりながら従うことになる。婿養子のイチには、流清家当主の決定をひっくり返すことはできないのだから。
今回とて同じだ。
バブルは、風中家を止めろとの家長命令を下した。当然、風中家が抵抗することを承知の上でだ。そんなことをすれば、今後の間柄が険悪になるのでは、と思いはする。しかし、過去に流清家が同じ過ちを犯そうとした時、風中家が止めたのだ。それにもかかわらず、現在良好な関係を築いているということは、そうとも限らないのかもしれない。
ただ、それも相手次第だとは思っている。
特に、イチには会いたくない相手がいる。
その人物は、風中家の中でも堅物で、嫡子であるがために誇り高い。自分とは正反対の境遇と肌合いだ。これまで、何度か関わる機会はあったが、正直付き合いにくい相手という印象であった。
まして、この状況なら一筋縄ではいかないことは間違いない。
「……誰にも会いたくないなぁ」
このまま磐座へ到着すれば、ウィンディを止めることくらいなら何とかできそうだ。彼女は話しあえる人物だ。相当に挙措を失っていない限り、穏便に済ませられるだろう。
イチは手元のスマホで方角を確認した。このまま、同じ方向に木立の中を進めばよさそうだ。
顔を上げようとした瞬間――突如として、突風が吹き荒れた。
イチは思わず身を縮め、目をつぶった。コートの裾がバサバサと音を立て、マフラーが大きくはためく。ビュオオ、と耳元を風の咆哮が通り過ぎていく。
木々を削る勢いで吹き抜ける猛烈な風。その中に――しわがれた男の声を聞いた。
「何しに来た、若造」
その響きに、ぎし、とイチの体がきしんだ。
恐る恐る目を開けて――さっきまで誰もいなかった前方に、その姿を認めた。
老体という概念を覆すような屈強な体つき。短髪の白髪とは裏腹な芯の通ったたたずまい。しわの刻まれた面で眼光を放つ、ブラウンの双眸。
風中シフウ。会いたくない相手そのひと、風中家前当主が仁王立ちしていた。
イチは顔に渋みがにじむのをこらえた。
説得できる可能性は絶望的だ。何せ、普段から彼は話が通じる相手ではないのだ。
言葉を選ばずに言うなら、頑固で偏屈。人が右と言えば左、山と言えば川の性格で、娘のウィンディですら「もう、お父さんったら」と呆れる始末。
そんな彼だが、風中家に対する誇りはひと一倍だ。されど、家族への情がそれを上回っているのも事実。だからこそ、彼にとって禊という伝統は、フーの安全と秤にかけられれば、棚の上まで上がるだろう。
正直なことを言えば、イチはこのままシフウを素通りして磐座へ向かいたかった。だが、そんなことをすれば、通り過ぎたそばから背骨を折られそうだ。
仕方なく、イチは口を開くと、シフウの問いかけに対して答えた。
「……禊を見届けに来ました」
「わざわざオメェなんかが来なくとも、禊はつつがなく終わるわい。とっとと帰れ」
「……いいえ」
巻き舌交じりの迫力ある気炎には敵わないとわかっていても、イチは首を振った。どうせ言葉を交わすなら、単刀直入に言わなければ埒が明かないだろう。
「最後まで見届けさせてください。疑うようで大変心苦しいですが……我が流清家はかつて、禊に干渉したという史実があります。今回の禊の折、風中家におかれましてもそのようなことが起きないよう……監視する必要があります」
オブラートに包むのは途中から諦めた。下手に迂遠な言い回しを用いても、言葉尻を捉えられるだけだ。
イチの言葉に、シフウはぴくりと眉を動かした。だが、まだ動く気配はない。
仕掛けてはこないが、同時に、見逃されたわけでもない。
次の言葉で、どちらに転ぶか。博打を打つ心地で、イチは再び口を開いた。
「気分を害してしまったらすみません。しかし、両家の関係に鑑みても、道を外れたものではないこと、ご理解ください。流清家と風中家は元来、協力しあう傍ら、牽制しあうもの。ゆえに……」
――風が動いた。
気づいた時には、イチの足元で、空気が爆発するような衝撃が生まれていた。
土ぼこりが跳ね上がる。同時に、イチの体も張り手で押されたように突き飛ばされた。たたらを踏む余裕もなく倒れ込む。頭を打たなかったのは幸いだ。
地面に手をつきながら、イチは自分が悪手を打ったことを悟った。やや想定外だった。「監視する」という厳しい単語には激昂の片鱗さえ見せなかったのに。あとに続く言葉の一体何が、彼の逆鱗に触れたのか。
考えている暇はない。シフウの厚い手のひらが、起き上がろうとするイチに真っすぐ向けられていた。跳ね起きて横に跳んだイチの足元すれすれで、風砲が着弾する。一撃目も同じ術だったようだ。
イチはとっさに手近な木の陰に身を隠した。背をつけた幹を盾に、さらに襲い来る風砲をやり過ごそうとする。
何とか口を開く間を捻出して、イチは声を張り上げた。
「シフウさん、聞い――」
ドォンッ。
懇願を遮る、鈍い音。
枝葉が揺れ、ぱらぱらと細い葉が舞い落ちる。風の塊とは思えないほどの衝撃が、イチが盾にした木を襲っていた。
「……ッ!」
背中をつけていたせいで、幹越しに衝撃を受けてしまい、イチは深く咳き込んだ。その間にも、風砲はイチをかばう木を蹴破るかのように打ち据え続ける。
ドンッ、ドンッ、ドォンッ――。
次の瞬間、ミシッ、という異質な音が混ざった。
まずい、とイチはすばやく木陰から飛び出した。期を見計らう余裕もなかったので、ちょうど何撃目とも知れぬ風砲がコートの端を捉える。その勢いにあおられてバランスを崩しかけながらも、イチは別の木の裏に移った。
同時――ズゥゥン、と重低音が響き、地面がわずかに揺れた。戦慄するイチの視線の先で、直径一メートルはある大木が、中腹でばっきりと折れて地に沈んでいた。傷ひとつなかった木を倒すのに要したのは、風砲四発。風と侮れない。まるで巨大な拳だ。
「やめてください、シフウさん! 両家の聖域ですよ!」
聖域を乱す行為とあって、イチの語気も厳しいものになる。だが、シフウの風術は、それに触発されたかのように、かえって激しさを増した。
ドンドンドンドンッ。
連続で繰り出される風砲は、威力はすさまじいものの精度を欠いているのか、あちこちに飛んでいく。イチの足元に着弾しては砂埃を巻き上げ、別の木に命中してはその幹を抉り、上に飛んでいけば枝葉を吹き飛ばす。
「……っ!」
これ以上身を隠していたら、神聖な森が破壊され続けることになる。それはイチとしても心苦しく、避けたい事態だ。
シフウの風術は粗削りだが強烈だ。下手に出ていくと確実にケガをする。豆腐の角では頭は割れないが、彼の風であばらは折れるだろう。
とはいえ、相手はダークのような明確な敵ではない。イチが抵抗しなければ、進んで手傷を負わせようとはしないはずだ。
ズンッ、ズン……ッ。
背にした幹が揺れるたび、木の葉と木くずが頭上から振ってくる。それに顔をしかめながら、イチは葛藤に瞳を揺らした。
撤退する、という選択肢はある。一度戻って、シフウの目が届かないほど大きく迂回して磐座を目指すことはできる。もっとも、そうしてしまえば、到着したときにはすでに禊が完了している頃合いだろう。とはいえ、バブルやアクア、他の家族たちが間に合えばそれでも構わないのだ。
荒事が苦手なイチがここへ来た理由。それは、バブルの家長命令。風中家を止めるという決定。
イチは説得を試みたのだ。けれど、それは通じなかった。シフウの気難しさはバブルもよく知っているはずだ。彼女とて、シフウを止められるなど――ましてそれがイチに可能だなどと、毛頭思ってはいないだろう。
だから、きっと流清家の中で最も、諦めるという選択肢が許される状況なのだ。それが身の安全のためで、誰も咎めることができないほどに明白な劣勢だから。
その選択肢に、甘んじることはできる。
――イチがここにいる理由が、流清家当主の命令だけによるならば、だ。
メキッ、バリバリッ――。
ついに、二本目の木の防壁が限界を迎えた。ゆっくりと、しかし確実に横向きの裂け目が幹に走ったかと思うと、あとは一息に傾き――一瞬前にイチが立っていた地面に倒れ伏した。
イチは三度大樹を頼ることはなく、シフウの眼前に躍り出た。それを捉えたシフウが、勢いよく右腕を振りぬく。直後、イチの頭上で風が渦巻き、鉄槌を振り下ろすがごとく上からの打擲を見舞った。
ドォンッ……。
低い音と共に、大量の土ぼこりが舞い上がる。シフウは操った風の流れで土煙を寄せ付けないまま、腕組みをして結末を睥睨していた。
もうもうと立ち上る灰褐色の砂塵が晴れるころに、伸びた流清家の男が残っていることを期待する眼差しで。
冬風が吹き抜ける。残った土煙が、ろうそくの炎のように乱れて消え――。
同時、シフウ目がけて何かが飛んできた。
「……!」
シフウはとっさに一歩退く。それだけでは到底逃れられない速度で飛来したそれは、しかしシフウに当たることなく、彼を回り込むように大きくカーブした。一つではない。二つ、三つ、四つ――計五つの水の刃が、それぞれ異なる回転軸で、シフウの周囲を飛び回っていた。
組んだ腕をほどきかけた姿勢で静止したシフウ。その身体にぎりぎり触れない距離を保ちながら、水の刃はひゅんひゅんと高速で周回する。少しでも身体を動かせば、いずれかの刃に鋭く切りつけられることになる――そんな離散的な檻に閉じ込められたシフウは、身動きせずに立ちすくんでいた。
わずかに見開いた彼の目に浮かぶのは、驚愕未満で、感心以下で、だが想定外の事実に直面した者のそれだった。
水の刃――水術・游断は、鎌鼬と同じく、本来は直線運動する。あるいは、少し腕を上げれば、ブーメランのような軌道を描かせることもできる。しかし、今シフウを牽制している游断の動きは、はるかに複雑だ。緻密な動きを、目で追うことも難しい速度で繰り返し続けている。さらにいうなら、游断も鎌鼬も、飛行距離を経れば徐々に減衰していくはずなのに、それが全く見受けられない。
要するに、けた外れの技術による水術。
「――シフウさん」
風に流された土煙の跡地に立つ、刀印を構えた男。上等そうなマフラーもコートも、茶けた土で汚れてはいるが――無傷だ。
その周囲には、結界の残滓。
「僕のようなパッとしない男が、なぜ流清家に婿入りできたかわかりますか」
柔弱そうな顔で唯一、双眸だけが覚悟に研がれた鋭さを見せる。
「巫覡の二家は、特別な家系です。だから、特に正統後継者の伴侶には、二家に見合うだけの相応の人物しか選ばれません。二家の使命に資するよう、人間界学に明るい者。人脈を活用できるよう、顔が広い者。人間を守るすべを教授できるよう、武に――そして、術に長けた者」
イチは人間界に精通しているわけではない。今でこそ詳しくなったものの、若い頃は学院で学んだ程度の知識しかなかった。
人脈もひと並みだ。おとなしい性格とあって、交友関係もとりわけ広いわけでもない。
武術など縁遠い。気質的にも体力的にも、圧倒的に向いていない。
だが、唯一、水術にかけては――名家の免許皆伝、といってもよかった。
「僕の家系は、希兵隊への水術指南をも担う道場の血筋です。次男の僕もまた、その看板に恥じぬ技術は叩き込まれているんですよ」
「……さむ」
冷え込んだ森の中を歩きながら、男は身を縮めた。マフラーに手袋、ロングコートと重装備だが、それでも寒そうに震えながら歩を進めている。
そんな仕草も似つかわしい痩躯の彼は、三十路をこえてなお、青年と言われても違和感のないなよっとした男性だ。線は細く、色も白い。その見た目通り、荒事は不得手な文弱だ。姉さん女房の豪胆な指針には、いつも音を上げそうになりながら従うことになる。婿養子のイチには、流清家当主の決定をひっくり返すことはできないのだから。
今回とて同じだ。
バブルは、風中家を止めろとの家長命令を下した。当然、風中家が抵抗することを承知の上でだ。そんなことをすれば、今後の間柄が険悪になるのでは、と思いはする。しかし、過去に流清家が同じ過ちを犯そうとした時、風中家が止めたのだ。それにもかかわらず、現在良好な関係を築いているということは、そうとも限らないのかもしれない。
ただ、それも相手次第だとは思っている。
特に、イチには会いたくない相手がいる。
その人物は、風中家の中でも堅物で、嫡子であるがために誇り高い。自分とは正反対の境遇と肌合いだ。これまで、何度か関わる機会はあったが、正直付き合いにくい相手という印象であった。
まして、この状況なら一筋縄ではいかないことは間違いない。
「……誰にも会いたくないなぁ」
このまま磐座へ到着すれば、ウィンディを止めることくらいなら何とかできそうだ。彼女は話しあえる人物だ。相当に挙措を失っていない限り、穏便に済ませられるだろう。
イチは手元のスマホで方角を確認した。このまま、同じ方向に木立の中を進めばよさそうだ。
顔を上げようとした瞬間――突如として、突風が吹き荒れた。
イチは思わず身を縮め、目をつぶった。コートの裾がバサバサと音を立て、マフラーが大きくはためく。ビュオオ、と耳元を風の咆哮が通り過ぎていく。
木々を削る勢いで吹き抜ける猛烈な風。その中に――しわがれた男の声を聞いた。
「何しに来た、若造」
その響きに、ぎし、とイチの体がきしんだ。
恐る恐る目を開けて――さっきまで誰もいなかった前方に、その姿を認めた。
老体という概念を覆すような屈強な体つき。短髪の白髪とは裏腹な芯の通ったたたずまい。しわの刻まれた面で眼光を放つ、ブラウンの双眸。
風中シフウ。会いたくない相手そのひと、風中家前当主が仁王立ちしていた。
イチは顔に渋みがにじむのをこらえた。
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言葉を選ばずに言うなら、頑固で偏屈。人が右と言えば左、山と言えば川の性格で、娘のウィンディですら「もう、お父さんったら」と呆れる始末。
そんな彼だが、風中家に対する誇りはひと一倍だ。されど、家族への情がそれを上回っているのも事実。だからこそ、彼にとって禊という伝統は、フーの安全と秤にかけられれば、棚の上まで上がるだろう。
正直なことを言えば、イチはこのままシフウを素通りして磐座へ向かいたかった。だが、そんなことをすれば、通り過ぎたそばから背骨を折られそうだ。
仕方なく、イチは口を開くと、シフウの問いかけに対して答えた。
「……禊を見届けに来ました」
「わざわざオメェなんかが来なくとも、禊はつつがなく終わるわい。とっとと帰れ」
「……いいえ」
巻き舌交じりの迫力ある気炎には敵わないとわかっていても、イチは首を振った。どうせ言葉を交わすなら、単刀直入に言わなければ埒が明かないだろう。
「最後まで見届けさせてください。疑うようで大変心苦しいですが……我が流清家はかつて、禊に干渉したという史実があります。今回の禊の折、風中家におかれましてもそのようなことが起きないよう……監視する必要があります」
オブラートに包むのは途中から諦めた。下手に迂遠な言い回しを用いても、言葉尻を捉えられるだけだ。
イチの言葉に、シフウはぴくりと眉を動かした。だが、まだ動く気配はない。
仕掛けてはこないが、同時に、見逃されたわけでもない。
次の言葉で、どちらに転ぶか。博打を打つ心地で、イチは再び口を開いた。
「気分を害してしまったらすみません。しかし、両家の関係に鑑みても、道を外れたものではないこと、ご理解ください。流清家と風中家は元来、協力しあう傍ら、牽制しあうもの。ゆえに……」
――風が動いた。
気づいた時には、イチの足元で、空気が爆発するような衝撃が生まれていた。
土ぼこりが跳ね上がる。同時に、イチの体も張り手で押されたように突き飛ばされた。たたらを踏む余裕もなく倒れ込む。頭を打たなかったのは幸いだ。
地面に手をつきながら、イチは自分が悪手を打ったことを悟った。やや想定外だった。「監視する」という厳しい単語には激昂の片鱗さえ見せなかったのに。あとに続く言葉の一体何が、彼の逆鱗に触れたのか。
考えている暇はない。シフウの厚い手のひらが、起き上がろうとするイチに真っすぐ向けられていた。跳ね起きて横に跳んだイチの足元すれすれで、風砲が着弾する。一撃目も同じ術だったようだ。
イチはとっさに手近な木の陰に身を隠した。背をつけた幹を盾に、さらに襲い来る風砲をやり過ごそうとする。
何とか口を開く間を捻出して、イチは声を張り上げた。
「シフウさん、聞い――」
ドォンッ。
懇願を遮る、鈍い音。
枝葉が揺れ、ぱらぱらと細い葉が舞い落ちる。風の塊とは思えないほどの衝撃が、イチが盾にした木を襲っていた。
「……ッ!」
背中をつけていたせいで、幹越しに衝撃を受けてしまい、イチは深く咳き込んだ。その間にも、風砲はイチをかばう木を蹴破るかのように打ち据え続ける。
ドンッ、ドンッ、ドォンッ――。
次の瞬間、ミシッ、という異質な音が混ざった。
まずい、とイチはすばやく木陰から飛び出した。期を見計らう余裕もなかったので、ちょうど何撃目とも知れぬ風砲がコートの端を捉える。その勢いにあおられてバランスを崩しかけながらも、イチは別の木の裏に移った。
同時――ズゥゥン、と重低音が響き、地面がわずかに揺れた。戦慄するイチの視線の先で、直径一メートルはある大木が、中腹でばっきりと折れて地に沈んでいた。傷ひとつなかった木を倒すのに要したのは、風砲四発。風と侮れない。まるで巨大な拳だ。
「やめてください、シフウさん! 両家の聖域ですよ!」
聖域を乱す行為とあって、イチの語気も厳しいものになる。だが、シフウの風術は、それに触発されたかのように、かえって激しさを増した。
ドンドンドンドンッ。
連続で繰り出される風砲は、威力はすさまじいものの精度を欠いているのか、あちこちに飛んでいく。イチの足元に着弾しては砂埃を巻き上げ、別の木に命中してはその幹を抉り、上に飛んでいけば枝葉を吹き飛ばす。
「……っ!」
これ以上身を隠していたら、神聖な森が破壊され続けることになる。それはイチとしても心苦しく、避けたい事態だ。
シフウの風術は粗削りだが強烈だ。下手に出ていくと確実にケガをする。豆腐の角では頭は割れないが、彼の風であばらは折れるだろう。
とはいえ、相手はダークのような明確な敵ではない。イチが抵抗しなければ、進んで手傷を負わせようとはしないはずだ。
ズンッ、ズン……ッ。
背にした幹が揺れるたび、木の葉と木くずが頭上から振ってくる。それに顔をしかめながら、イチは葛藤に瞳を揺らした。
撤退する、という選択肢はある。一度戻って、シフウの目が届かないほど大きく迂回して磐座を目指すことはできる。もっとも、そうしてしまえば、到着したときにはすでに禊が完了している頃合いだろう。とはいえ、バブルやアクア、他の家族たちが間に合えばそれでも構わないのだ。
荒事が苦手なイチがここへ来た理由。それは、バブルの家長命令。風中家を止めるという決定。
イチは説得を試みたのだ。けれど、それは通じなかった。シフウの気難しさはバブルもよく知っているはずだ。彼女とて、シフウを止められるなど――ましてそれがイチに可能だなどと、毛頭思ってはいないだろう。
だから、きっと流清家の中で最も、諦めるという選択肢が許される状況なのだ。それが身の安全のためで、誰も咎めることができないほどに明白な劣勢だから。
その選択肢に、甘んじることはできる。
――イチがここにいる理由が、流清家当主の命令だけによるならば、だ。
メキッ、バリバリッ――。
ついに、二本目の木の防壁が限界を迎えた。ゆっくりと、しかし確実に横向きの裂け目が幹に走ったかと思うと、あとは一息に傾き――一瞬前にイチが立っていた地面に倒れ伏した。
イチは三度大樹を頼ることはなく、シフウの眼前に躍り出た。それを捉えたシフウが、勢いよく右腕を振りぬく。直後、イチの頭上で風が渦巻き、鉄槌を振り下ろすがごとく上からの打擲を見舞った。
ドォンッ……。
低い音と共に、大量の土ぼこりが舞い上がる。シフウは操った風の流れで土煙を寄せ付けないまま、腕組みをして結末を睥睨していた。
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冬風が吹き抜ける。残った土煙が、ろうそくの炎のように乱れて消え――。
同時、シフウ目がけて何かが飛んできた。
「……!」
シフウはとっさに一歩退く。それだけでは到底逃れられない速度で飛来したそれは、しかしシフウに当たることなく、彼を回り込むように大きくカーブした。一つではない。二つ、三つ、四つ――計五つの水の刃が、それぞれ異なる回転軸で、シフウの周囲を飛び回っていた。
組んだ腕をほどきかけた姿勢で静止したシフウ。その身体にぎりぎり触れない距離を保ちながら、水の刃はひゅんひゅんと高速で周回する。少しでも身体を動かせば、いずれかの刃に鋭く切りつけられることになる――そんな離散的な檻に閉じ込められたシフウは、身動きせずに立ちすくんでいた。
わずかに見開いた彼の目に浮かぶのは、驚愕未満で、感心以下で、だが想定外の事実に直面した者のそれだった。
水の刃――水術・游断は、鎌鼬と同じく、本来は直線運動する。あるいは、少し腕を上げれば、ブーメランのような軌道を描かせることもできる。しかし、今シフウを牽制している游断の動きは、はるかに複雑だ。緻密な動きを、目で追うことも難しい速度で繰り返し続けている。さらにいうなら、游断も鎌鼬も、飛行距離を経れば徐々に減衰していくはずなのに、それが全く見受けられない。
要するに、けた外れの技術による水術。
「――シフウさん」
風に流された土煙の跡地に立つ、刀印を構えた男。上等そうなマフラーもコートも、茶けた土で汚れてはいるが――無傷だ。
その周囲には、結界の残滓。
「僕のようなパッとしない男が、なぜ流清家に婿入りできたかわかりますか」
柔弱そうな顔で唯一、双眸だけが覚悟に研がれた鋭さを見せる。
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その子を屋敷に迎え入れることも、黙って受け入れてきた。
けれど――
跡取りを、正妻の子ではなく愛人の子にする。
その言葉を、人前で軽く口にした瞬間。
私は悟ったのだ。
この家では、息子を守れないと。
元々、実家との間には
「嫡子以外の子は実家の跡取りにする」という取り決めがあった。
ならば話は簡単だ。
役目を終えた私は、離縁を選ぶ。
息子と共に、この家を去るだけ。
後悔しているようですが――
もう、私の知るところではありません。
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