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14.巫覡の磐座編
68風発の誘い水 ⑤
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イチは刀印を解き、腕を下ろした。だが、水の刃は消える気配を見せずに、シフウの周りを飛び交い続けている。
「お願いします。僕らが正しい禊を見届けるまで……そこで待っていてください」
その横を通り過ぎるように、イチは目指す方へと歩き出した。
シフウは唯一動かせる首をわずかに回した。背後へと歩き去ろうとするイチへ、刺すような眼光を向ける。
禊が完了して、その役目を終えれば、水の刃は源子に戻り行くのだろう。イチとて、何もシフウに危害を加えようというわけではないのだ。ただ、邪魔されぬよう封じただけで。
だが、それでは意味がない。流清家を磐座に通した時点で、工作は見破られる。
そして、フーは無防備なまま湖面へと落ちる――。
シフウはその厚い胸いっぱいに息を吸い込んだ。限界まで肺を膨らませると――落雷のような咆哮を上げた。
「――喝ッ!」
瞬間、周囲を飛び回っていた水の刃が跳ね飛ばされ、跡形もなく散った。術の形をとらない爆発的な突風によるものだが、むしろ風圧さえ霞むほどの気迫が、水を源子に分解したかのように見えた。
瞬時に振り返ったイチと、すばやく踵を返して彼に相対したシフウの視線が交錯する。即座に応じたイチが刀印を振るのが早かった。
「轟け、洪瀧ッ!」
命令に従った源子が、シフウの周りに水の檻を成した。今度は、螺旋を描いて天に上る高圧水流だ。直進する洪瀧の原則を捻じ曲げながらも、触れれば体をもっていかれるほどの水圧を保つ、卓越した業前。
「シフウさん!」
再び動きを封じられたシフウに、イチは少しばかり息を切らしながら叫んだ。
「お願いします、抵抗はやめてください! あなたもわかっているでしょう! 禊は正しく行わなければ、やり遂げたことにはならない!」
「うるせえ!」
今度はシフウが叫ぶ番だった。身動きは取れずとも、その怒鳴り声はイチよりも数倍重く、激しい。
「んなこたぁ分かってんだよ! だからって何もせず孫娘が身投げするのをただ見てられっか!」
「その結果訪れるのは君臨者からの神罰です! あなたは全員を危険に晒すつもりですか!」
「口出しすんじゃねえよ! オメェには関係ねぇだろ!」
「あります!」
イチも、その細い喉からありったけの声量を吐き出して反駁する。
「『全員』には、流清家も含まれているんですよ! 禊への介入は、風中家だけでなく流清家にも神罰をもたらすんです! 流清家に危害が加わるというなら……僕だって黙っているわけにはいきません!」
禊への不介入のしきたり。
風中家制止の家長命令。
どちらも守られるべき命題で、此度の流清家の行動の原動力であった。
だが、イチを最も突き動かしたのは、そのどちらでもない。
「両家だの、流清家だの!」
シフウの額に青筋が走った。大きく目を開き、牙をむき出してがなり立てる。まるでその単語に火をつけられたかのように、熾烈な怒声を上げた。
「オメェがンな言葉で語るんじゃねえよ! よそ者に何がわかるってんだ! 婿養子の分際で知ったような口を利くんじゃねえ! よそ者は黙ってろ!」
「よそ者じゃない!」
大地をも揺るがしかねないシフウの怒号。だが、間髪入れずに返したイチの叫びには、一切の揺るぎもなかった。
「僕の名前は流清イチだ! 今や流清家の一員だ! 僕には家族を……流清家を守る義務がある!」
バブルの夫として。アワとアクアの父として。シスイとキンカの義子として。彼らに火の粉がかかるというなら、流清が買ってくれたこの水術を振るって、いくらでも払って見せる。
それが、昼の家族会議の折から、最も激しく胸で燃え上がった原動力。争いを好まない彼をこの地に赴かせた、最大の理由だった。
「生意気を――!」
爆風が巻き起こった。腕を振るうことも、刀印を作ることもなく、ただ念じるだけで暴れだす大気。
それはイチの洪瀧を内側から突き破り、爆発的なエネルギーと共に四散させた。
「……っ!」
突風と水しぶきが混ざりあった衝撃波が、台風のようにイチに押し寄せた。思わずコートの袖で顔を覆う。
イチの水術の腕は、誰が見ても確かだった。その精度と命令の複雑さは、シフウを大きく凌駕するものだった。
だが、シフウがそれにも勝って上回っていたのが――単純な馬力。
雌雄は決した。繊細な技術が、荒削りな剛力にへし折られる瞬間だった。
そして、自由を取り戻したシフウの手から、とどめが放たれる。
「風砲ッ!」
野太い呼号と共に、風の砲弾が射出。一抱えもある空気の圧縮砲が、相撲の寄り切りのように勢いよくイチにぶつかり、そのまま後ろの木に激突させた。
「がは……っ」
背中を強打したイチは、そのままずるずると座り込み、地面に倒れ込んだ。
げほげほと咳き込む彼に、シフウがヒグマのような貫禄で悠然と歩み寄る。
「懲りたらおとなしくしてろ……って言いてぇとこだがな。オメェのことだ、そのこざかしい水術で足をかけられたりしちゃたまらん。悪ぃが、今日一日は動けねぇ体にさせてもらうぞ」
刀印を結んだ指が、シフウを真っすぐに見据える。イチは何とか顔を上げて、風をまとい始める指先を見上げた。
イチの頭の中で、いくつかの策が組み上がる。刀印を結ぶ手を跳ね上げる、自らの体を回避させる、あるいは風術を使わせる余裕を奪う。
だが、どれもこの状況からでは間に合いそうにない。すでに後手に回っており、イチの体勢も呼吸も整ってはいない。
風が唸る。まるで空間ごと渦巻いているかのように空気がうねって、イチに狙いを定めて――。
「そこまでにしてやらんか、シフウ」
しわがれた老人の声がした。
磐座と反対方向、シフウの背後からだ。よく知る声に、シフウはハッと振り返った。その手に集まっていた風の渦が、溶けて消える。
いつの間にか、細身の猫が木立の間から歩み寄ってきていた。水色の体に、耳の先端だけ青い模様。顔は人間姿の時と同じように、ほけっと緩んだ表情だ。
流清家で唯一、シフウを呼び捨てにできる人物。
そして、彼の名もまた、風中家で唯一、シフウだけが呼び捨てにできるものだ。
「シスイ……」
その声からは、先程までの燃え上がるような情はそぎ落とされていた。
シスイはシフウを見上げながら、すぐそばまで歩み寄ってきた。一方のシフウは、どこか決まり悪そうに視線をそらしている。まるで先程までとは別人のようなおとなしさだ。
「……お前も、俺に刃向かうか」
シフウは低く問うた。脅しのような文言に見えて、答えを拒むような――むしろ恐れるような響きだった。
そんな彼に、シスイはほけほけと笑って答える。
「そんな気はないよ。同じ元正統後継者であり、今でも酒を酌み交わす無二の友に向ける水術など、私はもっとらん」
「だが、お前も邪魔だてをするために来たのだろう」
「いいや、そんなこと、ちーっとも思っとらんよ」
シフウは目をむいてシスイを見下ろした。シスイは好々爺然とした顔のまま、しっぽを揺らす。
「むしろ、お前はどうなんだい、シフウ。禊の介入を許すことが最善か? それを止めようとする流清家の者を傷めつけるのが本心か?」
「…………」
「自分でもわかっとるくせに。私はわかっとるよ。お前はただ、フーちゃんに破門の神託が下されたことが許せなくて、苛立って、それを誰かで発散したくて、ちょおーどそこに現れたのがイチ君だったんだろう? だからイチ君で発散しとったんだろう?」
シフウの顔が明らかに歪んだ。嫌悪……というより、苦手な食べ物を口に突っ込まれたような渋面。彼にこんな顔をさせられるのは、今となってはこの世界に一人しか存在しない。
その唯一の老人は、からからとおどけたように笑う。
「おお、いやだいやだ。弱い者いじめが好きなところは変わっとらんねェ。学院にいたころも、そりゃもうイチ君みたいなクラスメイトのもやしっ子をいじっていじって……」
「なっ……何十年前の話をしてんだ!」
「先生によく叱られとったねェ。そんで家に帰ったら閉め出し食らって、うちに来とったねェ」
「うるせえ!」
シフウは声を荒らげるが、わずかに紅潮した顔と額ににじんだ汗は敗北の証だ。いくら剛力の風術使いでも、家の内外を問わぬ弁慶でも、このつかみどころのない幼馴染に口で勝ったためしがない。何年たっても、何十年たっても。
倒れたままのイチが「弱くてすいません……もやしっ子ですいません……」と情けない声を上げる横で、屈辱感に身を震わせるシフウと、楽しげに肩を揺らすシスイの応酬は続いていた。
やがて、チッと舌打ちの白旗と共にそっぽを向いたシフウに、シスイが穏やかな声をかけた。
「シフウや」
まるで若かりし頃に戻ったような茶目っ気を見せていたシスイの声が、数十年の経年を取り戻したように聞こえて、シフウは振り返った。
シスイは細い目をさらに細めて微笑みながら言った。
「私はね、フーちゃんを助けに来たんだよ」
「……何?」
シフウがその太い眉をひそめる間に、シスイは人の姿をとった。バスローブに野袴を合わせたような、深い浅葱色の伝統装束。ゆったりとした袖を合わせて袖手すると、シスイは数歩足を運んだ。
「バブルもそうだが、なぜそう対立構造にするかねェ。何もぶつかる必要などないってのに。フーちゃんは素直に禊ノ淵に飛び込めばいいんだよ。そしてもし君臨者のご慈悲に預かれず、命危うくなれば――風中家と流清家が全力を合わせて救えばいい」
イチのそばまで来たシスイは、緩慢にしゃがみ込むと、ちょいちょいと手招きして見せた。その意図を察したイチは、申し訳なさそうにすると、主体に戻り、シスイの手を取った。
「私はバブルの意思とは違う。今言ったその目的のために来とるし、他の皆もそのために来ていたらよかったのになァ……ってところだねェ」
「……相変わらず偏屈なやつだ」
「お前にだけは言われとうないよ」
猫姿のイチを抱き上げると、シスイは「よっこいしょ」と立ち上がった。そして、しわだらけの顔でシフウに笑いかける。
「さあ、行こうか、シフウ」
「どこへだよ」
「お前は話を聞いとらんかったのかね」
呆れながらも、シスイの顔から笑顔が消えることはない。
「フーちゃんを助けるんだよ。ひとまずウィンディちゃんを止めて……おお、そうだ。沸泉で禊ノ淵の温度をいい塩梅にしとくかねェ。着水の邪魔はしちゃいかんが、禊ノ淵の温度を変えちゃいかんとは伝え聞いとらんしねェ」
途中から半ば独り言のように、そんな言葉を垂れ流しながら、シスイは林の奥、磐座の方角へと歩いて行った。
呆気にとられたのはシフウだ。何ということはないような調子で口にしていたが、聞き捨てならない発言だった。
禊が命に係わる理由の一つは、冷たい水への飛び込みだ。決して温かくない水温が、溺水のリスクを跳ね上げさせるのだ。
もちろん、十メートルという高所からの飛び込み、足のつかない水深という要因も小さくはない。けれど、少なくとも大きな要因の一つを取り除けるのであれば、生存率はぐっと上がるわけで――。
「オメッ……それを早く提案せんかい!」
「今思いついたからねェ。老人の知恵袋は気まぐれだねェ」
振り返ることなく先を行くシスイを、シフウものしのしと追う。
磐座の頂上をのぞかせる、さらなる木立の中へ向かって。
「お願いします。僕らが正しい禊を見届けるまで……そこで待っていてください」
その横を通り過ぎるように、イチは目指す方へと歩き出した。
シフウは唯一動かせる首をわずかに回した。背後へと歩き去ろうとするイチへ、刺すような眼光を向ける。
禊が完了して、その役目を終えれば、水の刃は源子に戻り行くのだろう。イチとて、何もシフウに危害を加えようというわけではないのだ。ただ、邪魔されぬよう封じただけで。
だが、それでは意味がない。流清家を磐座に通した時点で、工作は見破られる。
そして、フーは無防備なまま湖面へと落ちる――。
シフウはその厚い胸いっぱいに息を吸い込んだ。限界まで肺を膨らませると――落雷のような咆哮を上げた。
「――喝ッ!」
瞬間、周囲を飛び回っていた水の刃が跳ね飛ばされ、跡形もなく散った。術の形をとらない爆発的な突風によるものだが、むしろ風圧さえ霞むほどの気迫が、水を源子に分解したかのように見えた。
瞬時に振り返ったイチと、すばやく踵を返して彼に相対したシフウの視線が交錯する。即座に応じたイチが刀印を振るのが早かった。
「轟け、洪瀧ッ!」
命令に従った源子が、シフウの周りに水の檻を成した。今度は、螺旋を描いて天に上る高圧水流だ。直進する洪瀧の原則を捻じ曲げながらも、触れれば体をもっていかれるほどの水圧を保つ、卓越した業前。
「シフウさん!」
再び動きを封じられたシフウに、イチは少しばかり息を切らしながら叫んだ。
「お願いします、抵抗はやめてください! あなたもわかっているでしょう! 禊は正しく行わなければ、やり遂げたことにはならない!」
「うるせえ!」
今度はシフウが叫ぶ番だった。身動きは取れずとも、その怒鳴り声はイチよりも数倍重く、激しい。
「んなこたぁ分かってんだよ! だからって何もせず孫娘が身投げするのをただ見てられっか!」
「その結果訪れるのは君臨者からの神罰です! あなたは全員を危険に晒すつもりですか!」
「口出しすんじゃねえよ! オメェには関係ねぇだろ!」
「あります!」
イチも、その細い喉からありったけの声量を吐き出して反駁する。
「『全員』には、流清家も含まれているんですよ! 禊への介入は、風中家だけでなく流清家にも神罰をもたらすんです! 流清家に危害が加わるというなら……僕だって黙っているわけにはいきません!」
禊への不介入のしきたり。
風中家制止の家長命令。
どちらも守られるべき命題で、此度の流清家の行動の原動力であった。
だが、イチを最も突き動かしたのは、そのどちらでもない。
「両家だの、流清家だの!」
シフウの額に青筋が走った。大きく目を開き、牙をむき出してがなり立てる。まるでその単語に火をつけられたかのように、熾烈な怒声を上げた。
「オメェがンな言葉で語るんじゃねえよ! よそ者に何がわかるってんだ! 婿養子の分際で知ったような口を利くんじゃねえ! よそ者は黙ってろ!」
「よそ者じゃない!」
大地をも揺るがしかねないシフウの怒号。だが、間髪入れずに返したイチの叫びには、一切の揺るぎもなかった。
「僕の名前は流清イチだ! 今や流清家の一員だ! 僕には家族を……流清家を守る義務がある!」
バブルの夫として。アワとアクアの父として。シスイとキンカの義子として。彼らに火の粉がかかるというなら、流清が買ってくれたこの水術を振るって、いくらでも払って見せる。
それが、昼の家族会議の折から、最も激しく胸で燃え上がった原動力。争いを好まない彼をこの地に赴かせた、最大の理由だった。
「生意気を――!」
爆風が巻き起こった。腕を振るうことも、刀印を作ることもなく、ただ念じるだけで暴れだす大気。
それはイチの洪瀧を内側から突き破り、爆発的なエネルギーと共に四散させた。
「……っ!」
突風と水しぶきが混ざりあった衝撃波が、台風のようにイチに押し寄せた。思わずコートの袖で顔を覆う。
イチの水術の腕は、誰が見ても確かだった。その精度と命令の複雑さは、シフウを大きく凌駕するものだった。
だが、シフウがそれにも勝って上回っていたのが――単純な馬力。
雌雄は決した。繊細な技術が、荒削りな剛力にへし折られる瞬間だった。
そして、自由を取り戻したシフウの手から、とどめが放たれる。
「風砲ッ!」
野太い呼号と共に、風の砲弾が射出。一抱えもある空気の圧縮砲が、相撲の寄り切りのように勢いよくイチにぶつかり、そのまま後ろの木に激突させた。
「がは……っ」
背中を強打したイチは、そのままずるずると座り込み、地面に倒れ込んだ。
げほげほと咳き込む彼に、シフウがヒグマのような貫禄で悠然と歩み寄る。
「懲りたらおとなしくしてろ……って言いてぇとこだがな。オメェのことだ、そのこざかしい水術で足をかけられたりしちゃたまらん。悪ぃが、今日一日は動けねぇ体にさせてもらうぞ」
刀印を結んだ指が、シフウを真っすぐに見据える。イチは何とか顔を上げて、風をまとい始める指先を見上げた。
イチの頭の中で、いくつかの策が組み上がる。刀印を結ぶ手を跳ね上げる、自らの体を回避させる、あるいは風術を使わせる余裕を奪う。
だが、どれもこの状況からでは間に合いそうにない。すでに後手に回っており、イチの体勢も呼吸も整ってはいない。
風が唸る。まるで空間ごと渦巻いているかのように空気がうねって、イチに狙いを定めて――。
「そこまでにしてやらんか、シフウ」
しわがれた老人の声がした。
磐座と反対方向、シフウの背後からだ。よく知る声に、シフウはハッと振り返った。その手に集まっていた風の渦が、溶けて消える。
いつの間にか、細身の猫が木立の間から歩み寄ってきていた。水色の体に、耳の先端だけ青い模様。顔は人間姿の時と同じように、ほけっと緩んだ表情だ。
流清家で唯一、シフウを呼び捨てにできる人物。
そして、彼の名もまた、風中家で唯一、シフウだけが呼び捨てにできるものだ。
「シスイ……」
その声からは、先程までの燃え上がるような情はそぎ落とされていた。
シスイはシフウを見上げながら、すぐそばまで歩み寄ってきた。一方のシフウは、どこか決まり悪そうに視線をそらしている。まるで先程までとは別人のようなおとなしさだ。
「……お前も、俺に刃向かうか」
シフウは低く問うた。脅しのような文言に見えて、答えを拒むような――むしろ恐れるような響きだった。
そんな彼に、シスイはほけほけと笑って答える。
「そんな気はないよ。同じ元正統後継者であり、今でも酒を酌み交わす無二の友に向ける水術など、私はもっとらん」
「だが、お前も邪魔だてをするために来たのだろう」
「いいや、そんなこと、ちーっとも思っとらんよ」
シフウは目をむいてシスイを見下ろした。シスイは好々爺然とした顔のまま、しっぽを揺らす。
「むしろ、お前はどうなんだい、シフウ。禊の介入を許すことが最善か? それを止めようとする流清家の者を傷めつけるのが本心か?」
「…………」
「自分でもわかっとるくせに。私はわかっとるよ。お前はただ、フーちゃんに破門の神託が下されたことが許せなくて、苛立って、それを誰かで発散したくて、ちょおーどそこに現れたのがイチ君だったんだろう? だからイチ君で発散しとったんだろう?」
シフウの顔が明らかに歪んだ。嫌悪……というより、苦手な食べ物を口に突っ込まれたような渋面。彼にこんな顔をさせられるのは、今となってはこの世界に一人しか存在しない。
その唯一の老人は、からからとおどけたように笑う。
「おお、いやだいやだ。弱い者いじめが好きなところは変わっとらんねェ。学院にいたころも、そりゃもうイチ君みたいなクラスメイトのもやしっ子をいじっていじって……」
「なっ……何十年前の話をしてんだ!」
「先生によく叱られとったねェ。そんで家に帰ったら閉め出し食らって、うちに来とったねェ」
「うるせえ!」
シフウは声を荒らげるが、わずかに紅潮した顔と額ににじんだ汗は敗北の証だ。いくら剛力の風術使いでも、家の内外を問わぬ弁慶でも、このつかみどころのない幼馴染に口で勝ったためしがない。何年たっても、何十年たっても。
倒れたままのイチが「弱くてすいません……もやしっ子ですいません……」と情けない声を上げる横で、屈辱感に身を震わせるシフウと、楽しげに肩を揺らすシスイの応酬は続いていた。
やがて、チッと舌打ちの白旗と共にそっぽを向いたシフウに、シスイが穏やかな声をかけた。
「シフウや」
まるで若かりし頃に戻ったような茶目っ気を見せていたシスイの声が、数十年の経年を取り戻したように聞こえて、シフウは振り返った。
シスイは細い目をさらに細めて微笑みながら言った。
「私はね、フーちゃんを助けに来たんだよ」
「……何?」
シフウがその太い眉をひそめる間に、シスイは人の姿をとった。バスローブに野袴を合わせたような、深い浅葱色の伝統装束。ゆったりとした袖を合わせて袖手すると、シスイは数歩足を運んだ。
「バブルもそうだが、なぜそう対立構造にするかねェ。何もぶつかる必要などないってのに。フーちゃんは素直に禊ノ淵に飛び込めばいいんだよ。そしてもし君臨者のご慈悲に預かれず、命危うくなれば――風中家と流清家が全力を合わせて救えばいい」
イチのそばまで来たシスイは、緩慢にしゃがみ込むと、ちょいちょいと手招きして見せた。その意図を察したイチは、申し訳なさそうにすると、主体に戻り、シスイの手を取った。
「私はバブルの意思とは違う。今言ったその目的のために来とるし、他の皆もそのために来ていたらよかったのになァ……ってところだねェ」
「……相変わらず偏屈なやつだ」
「お前にだけは言われとうないよ」
猫姿のイチを抱き上げると、シスイは「よっこいしょ」と立ち上がった。そして、しわだらけの顔でシフウに笑いかける。
「さあ、行こうか、シフウ」
「どこへだよ」
「お前は話を聞いとらんかったのかね」
呆れながらも、シスイの顔から笑顔が消えることはない。
「フーちゃんを助けるんだよ。ひとまずウィンディちゃんを止めて……おお、そうだ。沸泉で禊ノ淵の温度をいい塩梅にしとくかねェ。着水の邪魔はしちゃいかんが、禊ノ淵の温度を変えちゃいかんとは伝え聞いとらんしねェ」
途中から半ば独り言のように、そんな言葉を垂れ流しながら、シスイは林の奥、磐座の方角へと歩いて行った。
呆気にとられたのはシフウだ。何ということはないような調子で口にしていたが、聞き捨てならない発言だった。
禊が命に係わる理由の一つは、冷たい水への飛び込みだ。決して温かくない水温が、溺水のリスクを跳ね上げさせるのだ。
もちろん、十メートルという高所からの飛び込み、足のつかない水深という要因も小さくはない。けれど、少なくとも大きな要因の一つを取り除けるのであれば、生存率はぐっと上がるわけで――。
「オメッ……それを早く提案せんかい!」
「今思いついたからねェ。老人の知恵袋は気まぐれだねェ」
振り返ることなく先を行くシスイを、シフウものしのしと追う。
磐座の頂上をのぞかせる、さらなる木立の中へ向かって。
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