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14.巫覡の磐座編
68風発の誘い水 ③
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スフレの朗らかな目元には、相反するような明確な威厳の光が宿っていた。その口から紡がれたのは、いつものそよ風のような柔らかな声ではなく、重く芯の通った響き。
「私だって、フーちゃんはいい子だと思っているわ。正統後継者の鑑といってもいい。でも、もしあの子自身も知らぬ間に罪を犯していたとしたら? それが君臨者の逆鱗に触れていたら? 禊を中断するつもりなど、君臨者にはハナからなかったとしたら?」
畳み掛けるスフレの声が、アクアの背中に冬よりも冷たい恐怖を這わせた。
スフレが口にした「もし」の事象は、アクアの中では蓋然性の低いものばかりだった。
だが、蓋然性が低いだけだ。可能性がないわけではない。その時点で、アクアが「はず」と訴えた事象と何ら変わらないのだ。
両者の不確かな想像のうち、もしもスフレの懸念が現実のものとなったら――。
(そんな……そんな)
ここに来るまで、そんな想定はわずかも頭に上らなかった。フーは正しくて、禊を潔く行うことは正しくて、だからその結果、誰もが救われると信じて疑わなかった。
フーに万が一のことはあって欲しくない。小さい頃から、本物の姉のようにアクアを可愛がってくれた幼馴染だ。彼女のことは、大好きだった。
けれど、そのために禊という儀式を曲げてよいかと言われたら、それも許せない。恣意的なものになどしていいわけがない。そうでなければ、あの時の屈辱は一体何だったのか。
だが、それではフーが。けれど、それではしきたりが。大好きな幼馴染が。誇りをもって守るべき掟が。
天秤が揺れる。無限に揺れる。答えは出ない。わからない。
そして、
「――――ッ!」
アクアの足が地を蹴った。
がんじがらめの葛藤の末に考えることをやめた頭は、体を野放しにした。
自身の意思を介することは放棄した。ただ、母なる当主が下した命を遂行するために。
「頭の固い子ねぇ」
三度うねった風が、アクアの足元をすくった。一瞬の無重力状態のうちに、突風に流される。勢いよく詰めた距離は、瞬く間に元の木阿弥に戻った。
先程から、スフレは全く立ち位置を動かしていない。動かしているのは、風を操る右の刀印のみ。もがいているのは、アクアだけだ。
それでも、立ち上がらずにはいられなかった。
「スフレさん、どいて!」
アクアの両手の前に水が湧き出した。踊りながらかさを増す流体に、命令を下す。
「跳ねろ、水砲っ!」
球体の形にまとまった水の塊が、スフレの右肩を狙う。威力は大きくないが、彼女の性根を映したようなまっすぐな水術だ。
スフレの右手が動く。刹那、水砲は彼女に届く直前にはじけ飛んだ。まるでシャボン玉が破裂するかのような、一瞬の出来事。
「……っ!」
アクアはつい身をすくませた。あの柔和なスフレが何かを破壊するところを、初めて見た。
それでも、ここで止まるわけにはいかない。
「禊は正しく行われなければならないんです! しきたりだから……しきたりは守らなければいけないんです!」
アクアは再び、言霊と共に二撃、三撃と撃ちはなっていく。水とはいえ、当たれば体ごと後方に持っていかれる威力をもつ砲弾で、活路を切り開こうとする。
けれど、そのどれも命中することはなかった。スフレの体の端、肩や腰辺りを狙ったとはいえ、外す距離ではなかった。どれもスフレの右手の一振りで、まるで見えない何かにいなされたように進路を変え、彼女の体を避けて後方へと飛び去っていったのだ。
先程も、今も、スフレの口から詠唱はなかった。風術ではない、その形をとる前の風の操作。誰もができる芸当ではない。
流清家と風中家は、希兵隊や猫力学者ほどではないにしろ、猫術の扱いに長けている。そうなるよう、生まれた時から決定づけられ、教育される。
理由は一つ。正統後継者となったとき、人間を守るため。
だからスフレも、そしてアクアも、幼いころから猫術に関しては英才教育を受けてきた。
いつかその努力が、人間達との名誉ある交流として結ばれるのだと信じて。
なのに――。
「アクアちゃん」
スフレはそっと手を下ろし、立ちすくむアクアに問いかける。
「どうして、そんなにしきたりにこだわるの?」
アクアの反応が一拍遅れた。
感情的になっていたからというのもあるが、その問いは完全にアクアの予想の外にあるものだった。しきたりなど、守って当然だと思っていたからだ。
だが、そこにまったく理由がないかといわれれば、答えは否だ。
アクアは、息を吐いて呼吸を整えると、体温と同じ熱をもった言葉を口にした。
「守らなきゃ、いけないものだからです。そのためには、つらい思いをしなきゃいけない時もある。でも、涙を呑んででも守らなきゃいけないのがしきたりなら……それはそのくらい大事なものってことでしょう」
話しているうちに、唇が震えていく。抑えられていた感情が、再び膨れ上がっていく。
「心を押し殺してでも守らなきゃいけないものってことなんでしょう! だったら、私達の気持ち一つで破っていいものなんかじゃない!」
いつの間にか、風はやんでいた。先を急ぐ足を止めて、じっとアクアを見下ろしているかのようだった。
アクアはぎゅっと手を握り込んでうつむいた。自分は、正しいことを言っているはずなのだ。何も間違っていないはずなのだ。
なのに。
なのに、どうして自分の叫びは、こんなにも虚しく空に響くのだろうか。
どうして、目の前の女性に届かないのだろうか。
同じ運命をたどったはずなのに、どうして。
スフレは、吹くのをやめた風と共にじっとアクアに耳を傾けている。驚きも、戸惑いもしない。
叫んで、訴えて、それでも揺らがない状況に――
「……スフレさんなら、わかってくれるでしょう」
その響きを自分の耳で聞いて初めて、アクアは気づいた。
それは、心の一番奥底に秘めたもののひとしずく。彼女の中心に隠された、表に出すことのない感情の泉の一端。
そのはずだったのに、動転は堤を破った。一度流れ出した水は、もう止まらない。
まるで、呼び水に誘われるように。
「正統後継者になれるかどうかもわからない時分から、そうなったときのためにと知識を詰め込まれて。学院を卒業する年になっても、まだ正統後継者が決まっていないからとその先の道はお預けを食らって。努力と我慢の末に、結局神託は得られなくて……積み上げた知識は無意味に腐って、友達に何年も後れを取って同じ道を歩み始める! 最初からその屈辱を味わうのは自分かもしれないとわかっていても、このレールから外れることはできない! しきたりだから! 痛みを伴ってでもしきたりを守らなきゃいけないこと、あなたなら知ってるはずです――正統後継者になれなかったあなたなら!」
まくし立てるごとに、吐き散らすたびに、最初の冷静な口上はメッキのようにはがれていく。見えてくるのは、くすんだ劣等感の色。
――どうして、そんなにしきたりにこだわるの?
スフレの問いへの本当の答えが、これだ。
敬虔などではない。従順などではない。もっと感情的で、未熟な動機。
かつてアクアが汗と血と涙を流して屈服したものに、今、家族ぐるみで抗おうとしている。
それが、許せなかった。
ただ、それだけだ。
胸に押し寄せていた言葉を出し切ったアクアは、うつむいたまま肩で息をしていた。面を上げることができない。顔が重くて。あるいは――熱くて。
「アクアちゃん」
その名の通りの、そよ風のような声が呼んだ。
「決まりを守るか守らないかで迷えるうちはまだ子供だと、私は思うの」
まるで歌うように軽やかな声は、アクアの顔をそっと包んで持ち上げた。視線の先、スフレはどこか遠いところを見つめてつぶやく。
「あなたもいずれ、わかるようになると思う。決まりを破るか破らないか迷う、大人の葛藤が」
スフレの口から紡がれるその言葉は、風に乗らない重みをもっていた。その意味するところが汲めず、たじろぐアクアに、スフレはゆるりと視線を向ける。アクアの心中を見透かしたような笑みを浮かべて。
「守らないのと破るのは同じだと思った? 違うのよ。守らないのは、決められたことからの逃げ。でも、破るのは――挑戦。決まりよりも大切なものを守るための、ね」
スフレは柔らかな足取りで歩み寄って来ながら、そっと呼びかける。
「アクアちゃん。あなたはさっき言ったわね。私ならわかるはずだって。ええ、その通りよ。青春をつぎ込んで、楽しいことをたくさん我慢して、そのかわり私だけにしか歩めない道を歩んでいる気でいて……結局、周回遅れでみんなと同じ道に戻ってきた。私もあなたと同じ。しきたりに従って努め、しきたりに従ってその結実を諦めた……痛みをもってしきたりの重さを知った者の一人よ」
アクアはハッとして、スフレの顔を見つめた。一瞬だけ――ごく一瞬だけ、スフレの顔にもにじんで見えた。アクアが抱えるものと同じ痛みが、ほんの少しだけ。
けれど、次の瞬間には、彼女は元のすました表情に戻っていた。いつもの、大人の顔に。
「今考えても、あのしきたりは守るべきだった。守って正解だった。抗ったって仕方なかったから。でも、今回は違う。愛する家族を失うかもしれないなら、私は守ろうとは思わない。だってしきたりなんて、かわいくも愛しくもないもの」
くるん、とムートンブーツで踵を返して、アクアに背を向ける。そうして、同じ歩幅で今来た道を戻っていく。
「だから、私達は抗うの。かわいくて愛しいフーちゃんを守るためにね」
「っ、でも……!」
「それに」
再びコートの裾をひるがえして振り返ったスフレは、くすっと笑みをこぼしながら言った。
「あなたのお母さんがあなた達を差し向けてきた一番の理由は、『しきたりは守るべき』なんて意固地なものじゃないでしょう。おおかた、禊が正しく行われなかった時に下るとされる神罰を恐れてのことでしょうね」
「え……あ」
そうだ。「しきたりは守るべき」という崇高な主張よりも、まして「自分は守ったのに」という醜い嫉妬心なんかよりも、ずっと尤もな大義名分があったのに。
そんなことも忘れて私情に走った自分に、アクアはじわじわと熱をもち始めた顔を、思わず伏せた。
のぼせる耳に、スフレの笑い声が届く。
「私達だって、それはわかってるわ。それでも、フーちゃんを助けることを選んだの。神罰がどんなものなのかはわからない。でも、今ここでフーちゃんを失うのが、神罰よりも怖かった。……家族みんな、怖かったのよ」
「……そんなの」
自分だって同じだ、と言いたかった。同じくらい、神罰だって怖い、とも思った。
けれど、そのどちらも、自分の口から出すにはふさわしくない。なにせ、今の今まで神罰のことなど忘れていたのだ。
代わりにアクアの口からこぼれたのは、やはり未熟な迷いだけだった。
「……私は、どうしたら……」
「そうねえ」
スフレの声は、いつもののんきなものだ。その時点で、もう勝敗は決しているのだろうが、彼女はマイペースに言葉を紡ぐ。
「諦めて、って言いたいところだけれど……アクアちゃんももう十三歳。子供とみるならそれでいいけれど、大人とみるなら、もう選択を他者にゆだねるのは卒業しなきゃね。もしまだ立ち向かって来るなら、私はいくらでもお相手するわ」
風が吹き始めた。花々を揺らし、木々をさざめかせながら流れてきたものを両手に集めながら、大人は微笑んだ。
「さあ、あなたはどうしたい?」
いまだ揺れるアクアにそう問うスフレの心は、決まっていた。
「私だって、フーちゃんはいい子だと思っているわ。正統後継者の鑑といってもいい。でも、もしあの子自身も知らぬ間に罪を犯していたとしたら? それが君臨者の逆鱗に触れていたら? 禊を中断するつもりなど、君臨者にはハナからなかったとしたら?」
畳み掛けるスフレの声が、アクアの背中に冬よりも冷たい恐怖を這わせた。
スフレが口にした「もし」の事象は、アクアの中では蓋然性の低いものばかりだった。
だが、蓋然性が低いだけだ。可能性がないわけではない。その時点で、アクアが「はず」と訴えた事象と何ら変わらないのだ。
両者の不確かな想像のうち、もしもスフレの懸念が現実のものとなったら――。
(そんな……そんな)
ここに来るまで、そんな想定はわずかも頭に上らなかった。フーは正しくて、禊を潔く行うことは正しくて、だからその結果、誰もが救われると信じて疑わなかった。
フーに万が一のことはあって欲しくない。小さい頃から、本物の姉のようにアクアを可愛がってくれた幼馴染だ。彼女のことは、大好きだった。
けれど、そのために禊という儀式を曲げてよいかと言われたら、それも許せない。恣意的なものになどしていいわけがない。そうでなければ、あの時の屈辱は一体何だったのか。
だが、それではフーが。けれど、それではしきたりが。大好きな幼馴染が。誇りをもって守るべき掟が。
天秤が揺れる。無限に揺れる。答えは出ない。わからない。
そして、
「――――ッ!」
アクアの足が地を蹴った。
がんじがらめの葛藤の末に考えることをやめた頭は、体を野放しにした。
自身の意思を介することは放棄した。ただ、母なる当主が下した命を遂行するために。
「頭の固い子ねぇ」
三度うねった風が、アクアの足元をすくった。一瞬の無重力状態のうちに、突風に流される。勢いよく詰めた距離は、瞬く間に元の木阿弥に戻った。
先程から、スフレは全く立ち位置を動かしていない。動かしているのは、風を操る右の刀印のみ。もがいているのは、アクアだけだ。
それでも、立ち上がらずにはいられなかった。
「スフレさん、どいて!」
アクアの両手の前に水が湧き出した。踊りながらかさを増す流体に、命令を下す。
「跳ねろ、水砲っ!」
球体の形にまとまった水の塊が、スフレの右肩を狙う。威力は大きくないが、彼女の性根を映したようなまっすぐな水術だ。
スフレの右手が動く。刹那、水砲は彼女に届く直前にはじけ飛んだ。まるでシャボン玉が破裂するかのような、一瞬の出来事。
「……っ!」
アクアはつい身をすくませた。あの柔和なスフレが何かを破壊するところを、初めて見た。
それでも、ここで止まるわけにはいかない。
「禊は正しく行われなければならないんです! しきたりだから……しきたりは守らなければいけないんです!」
アクアは再び、言霊と共に二撃、三撃と撃ちはなっていく。水とはいえ、当たれば体ごと後方に持っていかれる威力をもつ砲弾で、活路を切り開こうとする。
けれど、そのどれも命中することはなかった。スフレの体の端、肩や腰辺りを狙ったとはいえ、外す距離ではなかった。どれもスフレの右手の一振りで、まるで見えない何かにいなされたように進路を変え、彼女の体を避けて後方へと飛び去っていったのだ。
先程も、今も、スフレの口から詠唱はなかった。風術ではない、その形をとる前の風の操作。誰もができる芸当ではない。
流清家と風中家は、希兵隊や猫力学者ほどではないにしろ、猫術の扱いに長けている。そうなるよう、生まれた時から決定づけられ、教育される。
理由は一つ。正統後継者となったとき、人間を守るため。
だからスフレも、そしてアクアも、幼いころから猫術に関しては英才教育を受けてきた。
いつかその努力が、人間達との名誉ある交流として結ばれるのだと信じて。
なのに――。
「アクアちゃん」
スフレはそっと手を下ろし、立ちすくむアクアに問いかける。
「どうして、そんなにしきたりにこだわるの?」
アクアの反応が一拍遅れた。
感情的になっていたからというのもあるが、その問いは完全にアクアの予想の外にあるものだった。しきたりなど、守って当然だと思っていたからだ。
だが、そこにまったく理由がないかといわれれば、答えは否だ。
アクアは、息を吐いて呼吸を整えると、体温と同じ熱をもった言葉を口にした。
「守らなきゃ、いけないものだからです。そのためには、つらい思いをしなきゃいけない時もある。でも、涙を呑んででも守らなきゃいけないのがしきたりなら……それはそのくらい大事なものってことでしょう」
話しているうちに、唇が震えていく。抑えられていた感情が、再び膨れ上がっていく。
「心を押し殺してでも守らなきゃいけないものってことなんでしょう! だったら、私達の気持ち一つで破っていいものなんかじゃない!」
いつの間にか、風はやんでいた。先を急ぐ足を止めて、じっとアクアを見下ろしているかのようだった。
アクアはぎゅっと手を握り込んでうつむいた。自分は、正しいことを言っているはずなのだ。何も間違っていないはずなのだ。
なのに。
なのに、どうして自分の叫びは、こんなにも虚しく空に響くのだろうか。
どうして、目の前の女性に届かないのだろうか。
同じ運命をたどったはずなのに、どうして。
スフレは、吹くのをやめた風と共にじっとアクアに耳を傾けている。驚きも、戸惑いもしない。
叫んで、訴えて、それでも揺らがない状況に――
「……スフレさんなら、わかってくれるでしょう」
その響きを自分の耳で聞いて初めて、アクアは気づいた。
それは、心の一番奥底に秘めたもののひとしずく。彼女の中心に隠された、表に出すことのない感情の泉の一端。
そのはずだったのに、動転は堤を破った。一度流れ出した水は、もう止まらない。
まるで、呼び水に誘われるように。
「正統後継者になれるかどうかもわからない時分から、そうなったときのためにと知識を詰め込まれて。学院を卒業する年になっても、まだ正統後継者が決まっていないからとその先の道はお預けを食らって。努力と我慢の末に、結局神託は得られなくて……積み上げた知識は無意味に腐って、友達に何年も後れを取って同じ道を歩み始める! 最初からその屈辱を味わうのは自分かもしれないとわかっていても、このレールから外れることはできない! しきたりだから! 痛みを伴ってでもしきたりを守らなきゃいけないこと、あなたなら知ってるはずです――正統後継者になれなかったあなたなら!」
まくし立てるごとに、吐き散らすたびに、最初の冷静な口上はメッキのようにはがれていく。見えてくるのは、くすんだ劣等感の色。
――どうして、そんなにしきたりにこだわるの?
スフレの問いへの本当の答えが、これだ。
敬虔などではない。従順などではない。もっと感情的で、未熟な動機。
かつてアクアが汗と血と涙を流して屈服したものに、今、家族ぐるみで抗おうとしている。
それが、許せなかった。
ただ、それだけだ。
胸に押し寄せていた言葉を出し切ったアクアは、うつむいたまま肩で息をしていた。面を上げることができない。顔が重くて。あるいは――熱くて。
「アクアちゃん」
その名の通りの、そよ風のような声が呼んだ。
「決まりを守るか守らないかで迷えるうちはまだ子供だと、私は思うの」
まるで歌うように軽やかな声は、アクアの顔をそっと包んで持ち上げた。視線の先、スフレはどこか遠いところを見つめてつぶやく。
「あなたもいずれ、わかるようになると思う。決まりを破るか破らないか迷う、大人の葛藤が」
スフレの口から紡がれるその言葉は、風に乗らない重みをもっていた。その意味するところが汲めず、たじろぐアクアに、スフレはゆるりと視線を向ける。アクアの心中を見透かしたような笑みを浮かべて。
「守らないのと破るのは同じだと思った? 違うのよ。守らないのは、決められたことからの逃げ。でも、破るのは――挑戦。決まりよりも大切なものを守るための、ね」
スフレは柔らかな足取りで歩み寄って来ながら、そっと呼びかける。
「アクアちゃん。あなたはさっき言ったわね。私ならわかるはずだって。ええ、その通りよ。青春をつぎ込んで、楽しいことをたくさん我慢して、そのかわり私だけにしか歩めない道を歩んでいる気でいて……結局、周回遅れでみんなと同じ道に戻ってきた。私もあなたと同じ。しきたりに従って努め、しきたりに従ってその結実を諦めた……痛みをもってしきたりの重さを知った者の一人よ」
アクアはハッとして、スフレの顔を見つめた。一瞬だけ――ごく一瞬だけ、スフレの顔にもにじんで見えた。アクアが抱えるものと同じ痛みが、ほんの少しだけ。
けれど、次の瞬間には、彼女は元のすました表情に戻っていた。いつもの、大人の顔に。
「今考えても、あのしきたりは守るべきだった。守って正解だった。抗ったって仕方なかったから。でも、今回は違う。愛する家族を失うかもしれないなら、私は守ろうとは思わない。だってしきたりなんて、かわいくも愛しくもないもの」
くるん、とムートンブーツで踵を返して、アクアに背を向ける。そうして、同じ歩幅で今来た道を戻っていく。
「だから、私達は抗うの。かわいくて愛しいフーちゃんを守るためにね」
「っ、でも……!」
「それに」
再びコートの裾をひるがえして振り返ったスフレは、くすっと笑みをこぼしながら言った。
「あなたのお母さんがあなた達を差し向けてきた一番の理由は、『しきたりは守るべき』なんて意固地なものじゃないでしょう。おおかた、禊が正しく行われなかった時に下るとされる神罰を恐れてのことでしょうね」
「え……あ」
そうだ。「しきたりは守るべき」という崇高な主張よりも、まして「自分は守ったのに」という醜い嫉妬心なんかよりも、ずっと尤もな大義名分があったのに。
そんなことも忘れて私情に走った自分に、アクアはじわじわと熱をもち始めた顔を、思わず伏せた。
のぼせる耳に、スフレの笑い声が届く。
「私達だって、それはわかってるわ。それでも、フーちゃんを助けることを選んだの。神罰がどんなものなのかはわからない。でも、今ここでフーちゃんを失うのが、神罰よりも怖かった。……家族みんな、怖かったのよ」
「……そんなの」
自分だって同じだ、と言いたかった。同じくらい、神罰だって怖い、とも思った。
けれど、そのどちらも、自分の口から出すにはふさわしくない。なにせ、今の今まで神罰のことなど忘れていたのだ。
代わりにアクアの口からこぼれたのは、やはり未熟な迷いだけだった。
「……私は、どうしたら……」
「そうねえ」
スフレの声は、いつもののんきなものだ。その時点で、もう勝敗は決しているのだろうが、彼女はマイペースに言葉を紡ぐ。
「諦めて、って言いたいところだけれど……アクアちゃんももう十三歳。子供とみるならそれでいいけれど、大人とみるなら、もう選択を他者にゆだねるのは卒業しなきゃね。もしまだ立ち向かって来るなら、私はいくらでもお相手するわ」
風が吹き始めた。花々を揺らし、木々をさざめかせながら流れてきたものを両手に集めながら、大人は微笑んだ。
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