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14.巫覡の磐座編
68風発の誘い水 ②
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***
聖森領域は、広大な森林だ。
同じような針葉樹が無数に立ち並ぶため、景色がそう変わるわけでもない。ゆえに、方角を見失うと延々さまよう羽目になりかねない。
だが、大部分がそんな木立に埋め尽くされている中、開けた場所がないわけではない。
今、流清アクアが目指して歩いているのも、その一つだ。毎年、人間界でいう初詣のようにこの地を訪れるたびに覗きたくなる、アクアお気に入りの場所。
ぽっかりと木々が途絶えた円形の空間。その地面には、短い草に交じって色とりどりの花が一面に咲いている。真冬でも枯れない花畑は、澄んだ空の下なら太陽がさんさんと降り注ぎ、幻想的な風景を見せてくれるのだ。
だが、今日のような曇天の下では、花の輝きもくすみがちだろう。
そう考えると、どうせなら目の保養ができる場所を通って磐座に近づきたかった彼女の心も、蓋をされたようにふさがってしまっていた。
「…………」
流清アクアは、ジーンズに包まれた足で歩を進めながら、何度目とも知れないため息を吐いた。
まさか、こんなことになるとは思っていなかった。禊のしきたりの存在は、流清家の子として当然知っていたが、どこか自分のいない時代の出来事のように感じていたのに。
風中家と対立関係になるのは、アクアも気が進まなかった。
だが、だからといってこの持ち場を放棄するつもりもなかった。
風中家は、しきたりに背こうとしている。ならば、それを止めようとしている流清家が正しいことは明白だからだ。二家の慣習は守られなければならない。どれだけ自由な形を求めようとも、方円の器に従うのが水なのだ。
それは、現在流清家最年少のアクアも身にしみてわかっていることだった。
――自分だからこそ、とさえ彼女自身は思っていた。
此度の件に比べるべくもないだろうが、彼女もまた、二家の要ともいえるしきたりに翻弄され、辛酸を舐めたからだ。
忘れはしない。突然にして積み上げたものが崩れたあの日。水泡に帰すとはどういう心地かを知ったあの朝。膨大な時間と努力が虚無に葬られた喪失感を泣く泣く受け入れるとともに、知ったのだ――しきたりとは、痛みを伴いながらも守るべきものなのだと。
白い息を吐きながら、アクアは密かに願った。
(もし、ここで会うなら。風中の誰かと対峙することになるなら――私は、あのひとがいい)
一番は、リーゼだ。六つ年上の、落ち着いた雰囲気の少女。今はアクセサリーデザイナーとして人気を博している彼女だが、かつてはアクアと同じく、しきたりに翻弄された。同じ境遇をもつ先輩ならば、たとえどれだけ身を切られる思いをしようとも定めを受け入れることの重要性を知っているはずだ。アクアの訴えに耳を貸してくれるかもしれない。
けれど、彼女はきっとここへは来ない。今頃、妹の名を騙りながら、アワとともに人間のそばにいるのだろう。
そういえばアワは禊の話も聞かぬまま家を飛び出して行ったが、リーゼからうまく事情を聞いているだろうか。まさか人間たちの前でリーゼの名を呼んで術を解いてしまったりしていないだろうか。
気を揉んでも仕方がない――とにかく、ここにはアクアが最も望む風中家の少女はいない。
ならば、対峙するのは、二番のあのひとがいい。
いつも作ったお菓子をお裾分けに来てくれる彼女。
ふわふわと飄々と、少女のように朗らかで、けれど自分やリーゼと同じ運命を辿った――
――そのひとが、たどり着いた花畑の中心に立っていた。
「こんにちは、雑誌モデルさん」
望んだ響き。聞くだけで、いつもまとっているクッキーの香りさえ思い起こされる、朗らかな女性の声。
肩から前に流した赤茶色の三つ編み。一五三センチの小柄な身長。フリルがあしらわれたピンクベージュのフレアーコート。茶色いムートンブーツ。
歳を重ねても少女のようなかわいらしさを残す彼女は、やはり少女のような笑みを見せて言った。
「今日はお花畑で撮影かしら?」
アクアは思わず頬を緩め、駆け寄りそうになった。
だが、その寸前ではたと止まった。
今日の彼女からは、いつもの甘い香りはしなかった。
そして、その柔らかく細められた目を見て、アクアは悟った。
――どうやら、穏便に和解とはいきそうにない。
アクアは止めた足を再び動かして、ゆっくりと三歩だけ進み寄ると、硬い表情で問うた。
「もしそうだとしたら、あなたはどうしてここに? ――スフレさん」
「それはもちろん、あなたをかわいく撮るためよ」
そう言って、スフレは小さくカメラを構える真似をした。
粋な返しとおどけたような仕草は、一見して緩い態度に見える。
だが、愛想よく笑みの形をした目の奥には、断固として譲らない一つの目的が透いて見えた。アクアが崩すべき、しきたりに背く目的が。
これは、アクアの望む通りにはいかなさそうだ。
アクアは頬を冷たくこわばらせたまま、彼女のペースに乗るそぶりをみせた。
「どうせなら、ウィンディさん達にも来てもらいましょうか。モデルは見られてこそですよ」
「残念だけど、姉さんたちは忙しいのよ」
「何で忙しいんですか? 全員こっちに来ているんでしょう?」
リズムよく言葉を返していたスフレが、初めて沈黙で返した。それでものほほんとした顔を崩さないのはさすがというべきか。けれど、普段は一緒にいて和む彼女のほのぼのとした空気が、今は苛立ちしか与えてこない。茶番は児戯に等しいことなど、お互い分かっているはずだ。
アクアは小さく嘆息して切り込んだ。
「しらじらしいことはやめませんか。あなた達は今、フーちゃんの禊に干渉しようとしているんでしょう。禊の淵に飛び込む直前に、君臨者の意向に見せかけて風を起こして、フーちゃんを助ける算段……違いますか」
「どうしてそう思うの?」
「そうじゃなきゃ、ここにあなたがいるはずがないからです」
「かわいい姪が禊に出ているのよ。叔母の私も聖域に足を運んで見守りたいと思うのは変?」
「だからこそですよ。見守りたいなら禊が行われる磐座に行くはず。こんなところに立っているのは変でしょう」
スフレは、再び口を閉ざした。
それでも構わなかった。答えは求めていない。それはアクアの口からだって紡げることだからだ。
「磐座に行ったのは、きっとウィンディさんですね。フーちゃんを送っていって、そのまま横から手を出すつもりでしょう。そしてスフレさんは……いえ、他の風中家のひとびとは、周辺に手分けして控えている。どこから磐座へやってくるかわからない流清家を足止めするために」
聖域の中には道らしい道はない。ゆえに、どのルートを通って流清家が磐座にたどり着くかは風中家にも予想ができないのだ。そのため、不正が行われる磐座に近づけまいとするならば、磐座を中心として手分けして散らばり、流清家が近づいてきた方向にいる者が足止めをするだろう。バブルはそこまで見抜いていたからこそ、アクアたち流清家にも同様に手分けして磐座に近づくよう指示したのだ。
加えて言うなら、フーを直接助ける役回りを担うのがウィンディだというのもバブルの推測だ。最愛の娘を手ずから助けたい母親が買って出るのは、アクアにも想像に難くない。
「もうわかってるんです、禊に手出しをしようとしていることは。この状態では、いくらフーちゃんが飛び降りたとしても、私達としてはやり直しを唱えるしかありません」
「見てもいないのに手出しをしたと決めつけて、やり直しを命じるなんて、ちょっといただけないんじゃないかしら」
スフレは頬に手を当てて、憂うように言った。
アクアが、もといバブルが想像していた通りの答えだった。だからこそ、流清家は禊がまさに行われるその場に立ち会わなければならないのだ。
剣呑な方針が変わらないことに落胆を覚えながら、アクアは言葉を重ねた。
「スフレさん。禊の最中は私達が干渉するなんて許されません。それはスフレさんも分かっているはず。しきたりは守られなければなりません」
アクアは一歩踏み出してそう訴えた。怒っているわけではない。指図したいわけでもない。
ただ、切に願いながら伝えていた。二家のしきたりに従う以外の道などないと知っているはずの彼女に、希うように。
けれど、スフレの表情は変わらなかった。柔らかな笑顔も、その目に宿る対照的に固い決意も。
潮時、とアクアは見た。ここで押し問答をしている時間はない。禊に間に合わなければ、風中家の不正の現場を押さえることが、あるいは風中家を押しとどめて正常に禊を執り行うことができない。
アクアは思い切って足を踏み出し、ずんずんと歩みを進めた。磐座はスフレが立っている方角だ。花を踏まないように気をつけながら、スフレの横を通り過ぎようとした時。
何かに手をつかまれた。
ハッと自らの右手を見やる。ショートコートの袖口から伸びた手の周りには、何もない。
だが、次の瞬間、右手をぐっと引かれるようにして、アクアは元いた後方へと転がされた。
そこで、彼女は何につかまれていたのかを悟った。
風だ。
とっさに受け身を取りながら、アクアは前方に立つ女性をにらんだ。
「……スフレさん……!」
彼女はなおも、朗らかにたたずんでいる。けれど、その右手は刀印の形を象っていた。
二人の対立構造は、明白になった。
普段お茶目でかわいらしくて、まるでアクアとも対等のように話していた彼女は――今、本気の大人として立ちはだかっていた。
アクアは立ち上がると、緊張にこわばった声で問うた。
「……フーちゃんは、このことを知ってるんですか」
「知ったら止めるでしょうね」
スフレは開き直ったように言う。だが、その点はアクアも見解は一致していた。
「……私も、そう思います。フーちゃんはしきたりに忠実なひとだから」
アワとフーがそうであるように、アクアもまた、フーとは幼馴染の関係だ。当時から、正統後継者候補の先輩である彼女の振る舞いはそばで見てきた。
おしとやかで、優しくて、上品で、そして二家の定めにひたむき。幼いアクアにもわかるほどだった。風中フーは、模範的な巫覡の子だ。
「……フーちゃんは、いつだって正しいんです。だから禊に小細工なんていりません。清く正しく行った禊の結果、フーちゃんは君臨者に許されるはずなんです! それを大人が邪魔しちゃいけない!」
言って、アクアは今度は地を蹴って走り出した。スフレから距離を取り、大きく迂回するようにして。
だが、正面を向いたままのスフレがおもむろに右手を振ると同時、彼我の距離を無視した風がアクアを捉えた。
地面を起点とした強い上昇気流が、人間姿のアクアをも軽々と浮かせる。そしてそのまま、Uターンさせる格好で、さっきと同じように後方へと送り返された。
地に足つかないアクアは、されるがままになるしかない。
「……っ」
再び地を転がったアクア。その耳に、今度はスフレから話しかける声が届いた。
「アクアちゃん、さっき『許されるはず』って言った?」
「っ、そうです!」
聞く耳を持ってくれた。
明光を見出したように、アクアは体を跳ね上げて叫ぶ。
「禊は確かに命がけです。でも、君臨者は二の判でその必要がないと判断したら、禊を中断するはず。それは知っているでしょう!」
説得の好機。切言の時宜。ここぞとばかりに、アクアはまくしたてた。
スフレの表情に、少しばかりの神妙さがにじんだ。あごに指をあてて、アクアの言葉を繰り返す。
「禊を中断する、はず……」
「そうです! だからわざわざ干渉しなくたって、フーちゃんは無事に帰ってくるはずで……!」
「あのねぇ」
寒風が吹き抜けた――そう錯覚するような一声だった。
ぞわ、とアクアの全身が粟立った。ダークと相対した時のような戦慄とは違う。湧き上がる罪悪感と畏怖を伴うそれは、もっと身近で、けれどスフレから受けるとは思いもよらなかった感覚。
大人に射すくめられた子供の委縮だった。
「『はず』に命をかけられたら、たまったものじゃないのよ」
聖森領域は、広大な森林だ。
同じような針葉樹が無数に立ち並ぶため、景色がそう変わるわけでもない。ゆえに、方角を見失うと延々さまよう羽目になりかねない。
だが、大部分がそんな木立に埋め尽くされている中、開けた場所がないわけではない。
今、流清アクアが目指して歩いているのも、その一つだ。毎年、人間界でいう初詣のようにこの地を訪れるたびに覗きたくなる、アクアお気に入りの場所。
ぽっかりと木々が途絶えた円形の空間。その地面には、短い草に交じって色とりどりの花が一面に咲いている。真冬でも枯れない花畑は、澄んだ空の下なら太陽がさんさんと降り注ぎ、幻想的な風景を見せてくれるのだ。
だが、今日のような曇天の下では、花の輝きもくすみがちだろう。
そう考えると、どうせなら目の保養ができる場所を通って磐座に近づきたかった彼女の心も、蓋をされたようにふさがってしまっていた。
「…………」
流清アクアは、ジーンズに包まれた足で歩を進めながら、何度目とも知れないため息を吐いた。
まさか、こんなことになるとは思っていなかった。禊のしきたりの存在は、流清家の子として当然知っていたが、どこか自分のいない時代の出来事のように感じていたのに。
風中家と対立関係になるのは、アクアも気が進まなかった。
だが、だからといってこの持ち場を放棄するつもりもなかった。
風中家は、しきたりに背こうとしている。ならば、それを止めようとしている流清家が正しいことは明白だからだ。二家の慣習は守られなければならない。どれだけ自由な形を求めようとも、方円の器に従うのが水なのだ。
それは、現在流清家最年少のアクアも身にしみてわかっていることだった。
――自分だからこそ、とさえ彼女自身は思っていた。
此度の件に比べるべくもないだろうが、彼女もまた、二家の要ともいえるしきたりに翻弄され、辛酸を舐めたからだ。
忘れはしない。突然にして積み上げたものが崩れたあの日。水泡に帰すとはどういう心地かを知ったあの朝。膨大な時間と努力が虚無に葬られた喪失感を泣く泣く受け入れるとともに、知ったのだ――しきたりとは、痛みを伴いながらも守るべきものなのだと。
白い息を吐きながら、アクアは密かに願った。
(もし、ここで会うなら。風中の誰かと対峙することになるなら――私は、あのひとがいい)
一番は、リーゼだ。六つ年上の、落ち着いた雰囲気の少女。今はアクセサリーデザイナーとして人気を博している彼女だが、かつてはアクアと同じく、しきたりに翻弄された。同じ境遇をもつ先輩ならば、たとえどれだけ身を切られる思いをしようとも定めを受け入れることの重要性を知っているはずだ。アクアの訴えに耳を貸してくれるかもしれない。
けれど、彼女はきっとここへは来ない。今頃、妹の名を騙りながら、アワとともに人間のそばにいるのだろう。
そういえばアワは禊の話も聞かぬまま家を飛び出して行ったが、リーゼからうまく事情を聞いているだろうか。まさか人間たちの前でリーゼの名を呼んで術を解いてしまったりしていないだろうか。
気を揉んでも仕方がない――とにかく、ここにはアクアが最も望む風中家の少女はいない。
ならば、対峙するのは、二番のあのひとがいい。
いつも作ったお菓子をお裾分けに来てくれる彼女。
ふわふわと飄々と、少女のように朗らかで、けれど自分やリーゼと同じ運命を辿った――
――そのひとが、たどり着いた花畑の中心に立っていた。
「こんにちは、雑誌モデルさん」
望んだ響き。聞くだけで、いつもまとっているクッキーの香りさえ思い起こされる、朗らかな女性の声。
肩から前に流した赤茶色の三つ編み。一五三センチの小柄な身長。フリルがあしらわれたピンクベージュのフレアーコート。茶色いムートンブーツ。
歳を重ねても少女のようなかわいらしさを残す彼女は、やはり少女のような笑みを見せて言った。
「今日はお花畑で撮影かしら?」
アクアは思わず頬を緩め、駆け寄りそうになった。
だが、その寸前ではたと止まった。
今日の彼女からは、いつもの甘い香りはしなかった。
そして、その柔らかく細められた目を見て、アクアは悟った。
――どうやら、穏便に和解とはいきそうにない。
アクアは止めた足を再び動かして、ゆっくりと三歩だけ進み寄ると、硬い表情で問うた。
「もしそうだとしたら、あなたはどうしてここに? ――スフレさん」
「それはもちろん、あなたをかわいく撮るためよ」
そう言って、スフレは小さくカメラを構える真似をした。
粋な返しとおどけたような仕草は、一見して緩い態度に見える。
だが、愛想よく笑みの形をした目の奥には、断固として譲らない一つの目的が透いて見えた。アクアが崩すべき、しきたりに背く目的が。
これは、アクアの望む通りにはいかなさそうだ。
アクアは頬を冷たくこわばらせたまま、彼女のペースに乗るそぶりをみせた。
「どうせなら、ウィンディさん達にも来てもらいましょうか。モデルは見られてこそですよ」
「残念だけど、姉さんたちは忙しいのよ」
「何で忙しいんですか? 全員こっちに来ているんでしょう?」
リズムよく言葉を返していたスフレが、初めて沈黙で返した。それでものほほんとした顔を崩さないのはさすがというべきか。けれど、普段は一緒にいて和む彼女のほのぼのとした空気が、今は苛立ちしか与えてこない。茶番は児戯に等しいことなど、お互い分かっているはずだ。
アクアは小さく嘆息して切り込んだ。
「しらじらしいことはやめませんか。あなた達は今、フーちゃんの禊に干渉しようとしているんでしょう。禊の淵に飛び込む直前に、君臨者の意向に見せかけて風を起こして、フーちゃんを助ける算段……違いますか」
「どうしてそう思うの?」
「そうじゃなきゃ、ここにあなたがいるはずがないからです」
「かわいい姪が禊に出ているのよ。叔母の私も聖域に足を運んで見守りたいと思うのは変?」
「だからこそですよ。見守りたいなら禊が行われる磐座に行くはず。こんなところに立っているのは変でしょう」
スフレは、再び口を閉ざした。
それでも構わなかった。答えは求めていない。それはアクアの口からだって紡げることだからだ。
「磐座に行ったのは、きっとウィンディさんですね。フーちゃんを送っていって、そのまま横から手を出すつもりでしょう。そしてスフレさんは……いえ、他の風中家のひとびとは、周辺に手分けして控えている。どこから磐座へやってくるかわからない流清家を足止めするために」
聖域の中には道らしい道はない。ゆえに、どのルートを通って流清家が磐座にたどり着くかは風中家にも予想ができないのだ。そのため、不正が行われる磐座に近づけまいとするならば、磐座を中心として手分けして散らばり、流清家が近づいてきた方向にいる者が足止めをするだろう。バブルはそこまで見抜いていたからこそ、アクアたち流清家にも同様に手分けして磐座に近づくよう指示したのだ。
加えて言うなら、フーを直接助ける役回りを担うのがウィンディだというのもバブルの推測だ。最愛の娘を手ずから助けたい母親が買って出るのは、アクアにも想像に難くない。
「もうわかってるんです、禊に手出しをしようとしていることは。この状態では、いくらフーちゃんが飛び降りたとしても、私達としてはやり直しを唱えるしかありません」
「見てもいないのに手出しをしたと決めつけて、やり直しを命じるなんて、ちょっといただけないんじゃないかしら」
スフレは頬に手を当てて、憂うように言った。
アクアが、もといバブルが想像していた通りの答えだった。だからこそ、流清家は禊がまさに行われるその場に立ち会わなければならないのだ。
剣呑な方針が変わらないことに落胆を覚えながら、アクアは言葉を重ねた。
「スフレさん。禊の最中は私達が干渉するなんて許されません。それはスフレさんも分かっているはず。しきたりは守られなければなりません」
アクアは一歩踏み出してそう訴えた。怒っているわけではない。指図したいわけでもない。
ただ、切に願いながら伝えていた。二家のしきたりに従う以外の道などないと知っているはずの彼女に、希うように。
けれど、スフレの表情は変わらなかった。柔らかな笑顔も、その目に宿る対照的に固い決意も。
潮時、とアクアは見た。ここで押し問答をしている時間はない。禊に間に合わなければ、風中家の不正の現場を押さえることが、あるいは風中家を押しとどめて正常に禊を執り行うことができない。
アクアは思い切って足を踏み出し、ずんずんと歩みを進めた。磐座はスフレが立っている方角だ。花を踏まないように気をつけながら、スフレの横を通り過ぎようとした時。
何かに手をつかまれた。
ハッと自らの右手を見やる。ショートコートの袖口から伸びた手の周りには、何もない。
だが、次の瞬間、右手をぐっと引かれるようにして、アクアは元いた後方へと転がされた。
そこで、彼女は何につかまれていたのかを悟った。
風だ。
とっさに受け身を取りながら、アクアは前方に立つ女性をにらんだ。
「……スフレさん……!」
彼女はなおも、朗らかにたたずんでいる。けれど、その右手は刀印の形を象っていた。
二人の対立構造は、明白になった。
普段お茶目でかわいらしくて、まるでアクアとも対等のように話していた彼女は――今、本気の大人として立ちはだかっていた。
アクアは立ち上がると、緊張にこわばった声で問うた。
「……フーちゃんは、このことを知ってるんですか」
「知ったら止めるでしょうね」
スフレは開き直ったように言う。だが、その点はアクアも見解は一致していた。
「……私も、そう思います。フーちゃんはしきたりに忠実なひとだから」
アワとフーがそうであるように、アクアもまた、フーとは幼馴染の関係だ。当時から、正統後継者候補の先輩である彼女の振る舞いはそばで見てきた。
おしとやかで、優しくて、上品で、そして二家の定めにひたむき。幼いアクアにもわかるほどだった。風中フーは、模範的な巫覡の子だ。
「……フーちゃんは、いつだって正しいんです。だから禊に小細工なんていりません。清く正しく行った禊の結果、フーちゃんは君臨者に許されるはずなんです! それを大人が邪魔しちゃいけない!」
言って、アクアは今度は地を蹴って走り出した。スフレから距離を取り、大きく迂回するようにして。
だが、正面を向いたままのスフレがおもむろに右手を振ると同時、彼我の距離を無視した風がアクアを捉えた。
地面を起点とした強い上昇気流が、人間姿のアクアをも軽々と浮かせる。そしてそのまま、Uターンさせる格好で、さっきと同じように後方へと送り返された。
地に足つかないアクアは、されるがままになるしかない。
「……っ」
再び地を転がったアクア。その耳に、今度はスフレから話しかける声が届いた。
「アクアちゃん、さっき『許されるはず』って言った?」
「っ、そうです!」
聞く耳を持ってくれた。
明光を見出したように、アクアは体を跳ね上げて叫ぶ。
「禊は確かに命がけです。でも、君臨者は二の判でその必要がないと判断したら、禊を中断するはず。それは知っているでしょう!」
説得の好機。切言の時宜。ここぞとばかりに、アクアはまくしたてた。
スフレの表情に、少しばかりの神妙さがにじんだ。あごに指をあてて、アクアの言葉を繰り返す。
「禊を中断する、はず……」
「そうです! だからわざわざ干渉しなくたって、フーちゃんは無事に帰ってくるはずで……!」
「あのねぇ」
寒風が吹き抜けた――そう錯覚するような一声だった。
ぞわ、とアクアの全身が粟立った。ダークと相対した時のような戦慄とは違う。湧き上がる罪悪感と畏怖を伴うそれは、もっと身近で、けれどスフレから受けるとは思いもよらなかった感覚。
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