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13.水鏡編
63スワンプマンの実証実験 ④
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苦笑いとともに、地を蹴る。
疾走の果てで、つかさの刀が頭上に掲げられた刻雨の刃と切り結んだ。希兵隊一の刀剣使いにもひるまぬ斬り込み。鋼と鋼のぶつかる音が二人を中心に響き渡り、周囲の木々をも恐れおののかせる。
それもつかの間、刻雨の体が一瞬のうちに横へ平行移動した。
かと思えば、押し合っていた刀の姿と重みが消える。
一見無防備になった刻雨の体は、つかさが刃を斜め気味に下ろせば簡単に終わる。並みの相手ならそうしただろう。
が、つかさはとっさに右足を引き、同時に垂直に立てた刀を右脇に引き戻した。
直後、刀身を横からの衝撃が激震させた。刃に刃で斬り込み、十文字を象る。やはり、刻雨の斬撃は弧を描く瞬間すら見せなかった。
つかさが大きく下がる。その胸の前すれすれで、勢い余った凶刃が風を切った。
降りぬいた直後の隙を狙って、つかさの足が地を蹴る。反撃の刀が、幼馴染の顔をもつ頭部を飛ばそうと跳ね上がる。
しかし、またしても一瞬で現れた黒刀が、そうは問屋が卸さぬと邪魔だてした。
つかさは舌打ちした。まるで二振り目の出現を疑うような光景だった。だが、まぎれもなく刻雨は、一振りしか使用していない。
ギチギチと音を立てて競り合う刃。小刻みに震え、ぶれて――。
一瞬後、刻雨の剣が突然激しく動いた。
そのさらに一瞬後には、つかさが半ば体重をかけ、まるで相手の剣ごと自分の方へ巻き込むような勢いで押しとどめる。
両者の刀は、引きずり込まれるように鍔迫り合いを余儀なくされた。
その光景から数秒たって初めて、後方で見ていた雷奈は、数瞬の間に起きた現象を理解した。
刻雨は、加力のあまり震える剣先が、偶然つかさの方を向いたのを見逃さず、突き込んだ――ように見えた。だが、刻雨のことだ。きっと偶然などではなく狙ったのだろう。
他の希兵隊員の追随を許さない一撃必殺のオンパレード。つかさは力ずくで阻止していたが、刻雨に挑んだのが雷奈だったなら、どれ一つとして確実に反応できなかっただろう。
体勢を整えながら、つかさは刻雨と目を合わせた。剣術で見るべきは相手の刀ではなく、目だ。目を通して見据える、相手の全体像だ。
一瞬の気の緩みも許さぬつかさのまなざしを、刻雨は余裕の笑みで見つめ返した。
直後、つかさは息をつめて一気に後退した。
動く。まるでプールいっぱいの水に一滴だけ垂らしたような希薄な予感だったが、つかさの体は相手の腕も足も動かぬうちに退避命令を叫んだ。臆病風などではないことは、刻雨の感心したような笑みを見れば瞭然だ。動作の前の「起こり」を見抜けていなければ、どんな手でやられていたかわからない。
間合いが空いたところで、刻雨は悠然と腕を下ろして笑んだ。
「希兵隊じゃない割に、なかなかのやり手だね」
「まあね」
刀を構えなおしながら、つかさは肺の空気を入れ替える。
「万屋の仕事で剣術指導することもあるし、たまに水月道場を借りて霞冴の稽古相手もするしね。あの子に無敗だったのは私くらいだし」
「だった、ね」
無造作な立ち姿の刻雨が、下ろしていた剣先をゆっくりと上げ始める。
「今は?」
その短い問いかけが終わらないうちに、つかさは飛び出した。猫の跳躍力を存分に発揮した急接近で逆袈裟に持ち込む。
だが、刻雨はひらりと片手間のような余裕でかわしてしまう。追撃の水平斬りも、柔軟に体を半身にさばいて、剣先すらかすらせない。
霞冴の武術の経験値は、鏡像である刻雨にも反映されている。つまり、刻雨もまた、技の「起こり」を見抜く目は長けているのだ。つかさが正面から斬りかかろうとしても、水平に薙ぎ払おうとしても、突きで貫こうとしても、彼女はまるで相手の動きを先読みしているかのような動きを見せる。
つかさとて、その手の洞察力は養ってきたつもりだ。だが、それは霞冴から受け継いだ刻雨の俊敏さの前には歯が立たない。来る、と分かった瞬間には、すでに来ている。冴えわたった剣技が、水月道場きっての瞬速に乗って飛んでくる。
今だって、刻雨が不意打ちに出ようとした瞬間を目では捉えていたのに、万全の姿勢でないままに辛くも刀身で受け止める羽目になっている。
再び鍔迫り合いにもつれこむ中、刻雨は再び問いかける。
「今でも手合わせしてるんでしょ? 最近の戦績はどうなのさ?」
つかさは答えず、刻雨の目を見つめたまま体幹に込める力を増した。
水月道場の門下生だった頃、練習試合で霞冴を負かした時に飛んでくる恨み言は、いつも同じだった。
――スピードなら私の方が速いのに、つかさってば、やたら力が強いんだもん!
その分析は正しく、霞冴の俊敏さに対するつかさの武器は、単純なパワーだ。ゆえに、鍔迫り合いになれば思い切り相手を突き飛ばして体勢を崩すことなど造作もない……はずなのだが、刻雨にはそれが通用しなかった。
刻雨は鍔元に近い部分でつかさの刀を受け止め、逆につかさの刀の切っ先に近い部分に力を加える形で押してきている。ただそれだけで、つかさは苦戦を強いられる。腕力云々の問題ではなく、力学的に不利な構図なのだ。
無論、これも偶然ではなく、刻雨が意図して狙った状況だ。いくら力に覚えがあるつかさでも、物理法則には敵わない。しばらく手合わせをしない間に、どうやら最近の霞冴は腕を上げたらしい。
刻雨は狙い通りとほくそ笑むと、両腕を内側に巻き込むように、刀の柄を体に密着させた。そのまま、一気に体幹の力でつかさの刀を押し倒す。さすがは力学的エネルギーを駆使する一条ユウガの免許皆伝を賜った弟子だ。物理学的有利性にかなった動きで、つかさの体勢をあっさりと崩した。
ためらうまでもなく退避だ。
すばやく下がろうとするつかさ。その後を真一文字の斬撃が追った。
とっさに受け止めながら大きく後退し、数メートルの間合いを空けて相対する。
二人の足元に数滴の血が滴った。
刻雨の剣先から。そして、つかさの右腕から。
「つかさ!」
「お姉ちゃん……!」
雷奈とまつりが、つかさの背中を見つめて思わず声を上げる。当の本人は、振り返ることもなく、表情を変えずに刻雨を見つめている。
「どうやら、ここしばらくの旗色は悪いみたいだね」
言いながら、刻雨は右足を引いて、刀を顔の横で水平に、刃を天に向けて構えた。血に濡れた剣先が、つかさを虎視眈々と見据える。
己の体から流れ出たものを突きつけられてもなお、つかさは動じることなく、ふうっと息をついた。そして、同じく右足を引いて、剣先を相手に向ける。ただし、刀は横に寝かせた、平突きの構え。
「君は今の時尼霞冴には勝てない。けれど、私は彼女に勝った」
刻雨は霞の構えのまま、微動だにせず言った。表には一ミリの動きも出さない刻雨だが、次の瞬間の突貫に備え、重心を右足にたくわえていくのが、つかさにはわかった。自身も然りゆえだ。
互いの気が満ちる――同時。
「それならこの勝負……君は私に降る!」
地を蹴る音は一つ。瞬間を同じくして飛び出した二人の距離は、まばたき一つの間に急速に食い尽くされていく。
刻雨の剣が突き出される。
つかさの剣も突き出される。
左目を狙った互いの剣先は、同じようにそらした顔の横をすれすれで通過し、逃げ遅れた横髪をちりちりと削り散らした。
狙いを外した両者の剣は、相手の肩越しの空間を貫いた。遅れて、それぞれの主が正面から至近距離に迫る。
菖蒲色と紺色の双眸が、抜き身の眼光をぶつけ合った。互いの鼻先さえ触れ合いそうな距離。その手に握った殺意も、十分すぎるほど届く間合い。
言わずもがな、先に剣を振るった方に軍配が上がる状況で。
先に剣を振るうのは、当然すばやさに長けた方であって。
しかし、それは剣を振るった場合の話であった。
「バカね」
ガツンッ!
硬い音が鳴り響いた。激突したつかさと刻雨の額の間に、火花さえ錯覚しそうなほどの衝撃。
目を白黒させた刻雨の頭が、大きくのけぞる。彼女と同じように額に赤い跡をつけながら、つかさはぶれることのない声で刻雨の認識を両断した。
「私が敵わないのは、両刀の霞冴よ。一振りなら、今でもまだ私の方が優勢」
よろめき、たたらを踏んだ刻雨に、反撃の余力はない。その隙に刀を引き戻したつかさは、追うように踏み込んで袈裟懸けに斬り下ろした。
しかし、そこはさすが刻雨、まだ視界がくらむ中でも反射的に切り結んだ。とはいえ、足元が盤石でない以上、刻雨には万全の鍔迫り合いは不可能だ。
その好機を読み取れない元護衛官ではない。
鍔迫り合い中にもかかわらず、つかさは恐れることなく、刀の柄からぱっと左手を離した。鍔は相手のそれに合わせたまま、接点を軸に、剣先が自分の後方を指すように刀身を回転させる。
必然的に、柄が刻雨に垂直に向く。同時、つかさは鍔に手のひらを添え、叩きつける勢いで思い切り押し込んだ。ドスッ、と鈍い音とともに、柄の先が刻雨のみぞおちに突き刺さる。
「う、ぐっ……!」
一瞬だけ背中を痙攣させた刻雨は、体を折って後ずさった。その直前、苦し紛れに一太刀だけ、半円を描くように薙ぐが、その時にはつかさはすでに十分に後方へ退避していた。
「打たれ弱いのは霞冴と同じね」
つかさが無感動に考察を投げる先で、刻雨は立っているのもやっとの様子で、ぎゅっと丸めた体を震わせていた。それでもしっかりと握ったままの得物は、近づけば番犬のごとく牙をむくだろう。
なので、十分な距離を味方に、安心して柄から手を離せるがゆえの手段に出る。
「刈れ、鎌鼬」
刀をもった左手を休ませ、突き出した右手から繰り出すのは、つかさが扱えるもう一つの刃だ。
鋭い風の三連射が、彼我の距離を切り裂きながら滑空する。刻雨は苦しそうにみぞおちを押さえながらも、飛来する風切り音に顔を上げ――。
ヒュヒュヒュンッ!
高い空気音を奏でながら、目にもとまらぬ速さで、片手で刀を操った。
風でできた刃ゆえに視認しにくいが、彼女は確かに、立て続けに襲い掛かってきた鎌鼬を一瞬で斬り伏せた。それも、ダメージを受けた体幹に負担がかからぬよう、ほとんど手首の動きだけで。
さらに。
「……ッ!」
彼女は苦痛を気力で押し込めると、ダッと地を蹴って肉薄してきた。顔の右横で刀を垂直に立てる、八相の構えで。
再びの近接戦を予感したつかさが、刀を両手で握りなおして真っ向から斬り下ろす。刻雨はそれを当然のように横にかわすと、とんと小さく飛び――空ぶって地を斬ったつかさの刀の峰に、軽やかに着地した。
相手の武器と移動を封じながら、至近距離に立つ。その圧倒的優位性を、絶妙な平衡感覚と瞬発力で実現した刻雨は、柄を握ったまま動きを止めたつかさへ黒鉄を閃かせた。
つかさの首へ、死が迫る。
転瞬、つかさの手がぱっと柄を離した。
当然、柄は重力に従って落ちる。その上の者もしかり。
「っ!?」
突然支えを失った刀の上で、刻雨は体勢を崩した。その脇腹に、身一つとなったつかさの蹴りが叩き込まれる。短い悲鳴とともに、刻雨の体が地面を転がった。
そのめくるめく戦局の展開に、雷奈はまばたきを忘れて立ちすくんでいた。
鍔迫り合い中の頭突き。柄での打突。刀の上への着地。柄から手を離しての体技――。
人間界の剣道とは異なる、どころではない。ルシルが使う剣術でさえ、まだ剣術らしいほうだ。
これはもはや、剣と剣の勝負ですらない。剣を手にした状態での戦闘。そう呼ぶ方がふさわしい。
忘れてはいけない。ここはフィライン・エデン。様式美を置いてでも相手を倒すための技術が息づく世界。
そして、この二人は紛れもなく――実践と実戦を重んじる水月道場の卒業生だ。
どのような形であれ、相手を倒した方が勝者。
その実現のために、型にとらわれない剣を使うのが刻雨で、剣を使うという型にとらわれないのがつかさ。
今、その雌雄に一つの答えが出される。
「刈れ、鎌鼬!」
再び襲い掛かる風の刃。地に伏せたままの刻雨だが、いまだ剣は手放さず――やはり、倒れたまま体勢だけを変えると、二連続で訪れた無色の刃を、最低限の動きで斬り払った。
その時には、すでにつかさは風に乗って大きく後退していた。
「雷奈!」
追い風に背中を押された雷奈が、つかさとすれ違って飛び出す。その手には、合図と同時に蓄えたスパーク。
「……!」
刻雨は倒れたまま目を見開いた。明滅するその武器は、刻雨の得物で斬り伏せることはできない。
さりとて、先の鎌鼬を防ぐのに注力していた刻雨には、起き上がって雷術を回避するだけの時間は残されておらず。
「――奔れ! 超電流っ!」
迸った電撃が、刻雨を容赦なく蹂躙する。
「――――ッ!」
悲鳴とノイズが競り合うように木々に反響した。
雷光の明滅は激しさを増す。夕暮れの薄暗さの中、昼間のような明るさが、かんしゃくを起こしたかのように荒れ狂う。
やがて、しばらくして響き渡るものがノイズ一色になると、雷奈はゆっくりと腕を下ろした。暴れまわっていた電撃は、彼女の意に従って眠りにつく。
閃光が止んで視認できるようになった地面には、刻雨の姿はなかった。ただ、黒刀と、人型に濡れた地面だけが残っていた。
「……水に、なった……?」
否、シズクの水から作り出されたのであれば、水に戻ったというべきか。ともかく、そこから蘇るということはなさそうだった。
雷奈は小さく息をついた。林間の道に訪れた静寂に、まだ余韻のように残る戦闘音を錯聴しつつ、立ちすくむ。
そこへ、新たな音が現れた。
警戒して振り返った雷奈が見たのは、執行着の少年と、その肩に乗った主体の猫。後者がつけている首輪は、緑色だ。初めて見る色だが、確か四番隊の色だと聞いている。
十七、八歳くらいだろうか、少し大人びた顔立ちの少年が辺りを見回しながら問う。
「……鏡像は」
「倒したわ。遅いわよ、希兵隊」
「……すみません」
疲れたように座り込んだつかさの口調が妙に馴れ馴れしいのは、相手が自分の前職だからだろう。それを知らない四番隊の少年は、戸惑いつつ謝った。だが、すぐに次の最優先事項へと移る。
「……応急処置してくださったんですね。ありがとうございます」
「いえっ……」
彼はなおも心配そうなまつりから霞冴を預かると、そっと抱き上げた。霞冴は細い呼吸のままぐったりとしているが、まつりお得意の猫術と、セーラースカーフとベルトを駆使した止血で、何とか出血は抑えられている。
「十番隊へ手配を」
「はい。……あの、ヤイバ隊長。こちらの方は……」
肩口の猫が、手でつかさを示す。正確には、つかさの腕の傷を。
「私はいいから。早く霞冴を連れて帰ってあげて」
「隊長、自分が残ってこの方の治療をしてから帰りますので、隊長は先に……」
「いいって言ってんでしょ。そこのまつりに治してもらうから。回解処法の腕がいいのは霞冴の傷を見ればわかるでしょ」
ヤイバと呼ばれた少年は、ちらとまつりを一瞥した。彼女がびくっと肩をすくませながらこくこくと頷くのを見ると、小さく会釈して了解の意を示し、弾趾でその場から去った。
「とりあえず……何とかなったっちゃかね?」
「ええ。霞冴のことは十番隊に任せましょう。……あ、まつり、腕より先にこっちをお願いできる? 誰かに見られたら、バレる」
斬られた腕の傷に手を伸ばした妹に、つかさは左の手のひらを向けた。それを見たまつりは「ひゃっ」と小さく声を上げた。
雷奈ものぞきこんで、「ありゃ」と顔をしかめる。
つかさの手のひらは、皮が大きくめくれかけていた。
剣道の初心者にもみられることだが、柄を握って剣を振り回していると、特に力の入る左手の皮がむけることが往々にある。
時々剣を手にしているというつかさでさえこうなったのは、布を巻いただけの荒い柄だったからかもしれない。
あるいは、それに加えて――相当強い力で刀を握っていたのだろう。
「あれが、鏡像……初めて見たわ」
「つかさとまつりは鏡像には襲われんかったと?」
「ええ、今のところはまったく。私達の鏡像を見たっていう話も聞かないわね」
治療のために手を重ね合う姉妹は、顔を見合わせて「ね」と声をそろえた。
雷奈には何となくその理由が分かった。つまり、二人は――あの大雨の日、外出していないのだろう。シズクの力が宿った水に、その姿を映していないのだ。
「……今日はもう疲れたわ。まつり、帰ったらちょっと寝かせてちょうだい」
「うん、お疲れさま、お姉ちゃん」
手のひらの治療を終え、腕の治療に移ったまつりが、愛想よく答える。
よく考えたら、つかさの働きは希兵隊のそれに匹敵するものであって、くたびれたサラリーマンのような一言で済む程度ではないのと思うのだが、そんなさばけたところも彼女らしい。
雷奈は小さく苦笑してから、「それにしても」視線を上げた。
「あの光……何だったっちゃろ」
きょろきょろと林のほうを見回しながら、首をかしげる。
霞冴にとどめを刺そうとしていた刻雨から刀を奪った、まばゆい攻撃。
あれは、雷奈の術ではない。
絶体絶命の霞冴を木々の間から見つけて、すわやられると思った直前に、おそらく林を越えて上から飛来してきた何か。それが誰によるものかもわからないまま、雷奈はとかく千載一遇の機を逃すまいと術を放ちながら乱入したのだ。
そのままつかさも伴っての戦闘に相成ったわけだが――結局、あれが何だったのかは分からずじまいだ。
同じ認識のまつりと首をかしげ合う雷奈をよそに、つかさは林の向こうにわずかに見える高い建物に目をやった。低層の建物が多いフィライン・エデンだ。この場所から見えるほどの高さの建物は、あの一つしかない。
かなり距離があるせいで、決して悪い方ではないつかさの視力でも、はっきりとは視認できないが――柵もない屋上の端に、誰かいる。
こちらを見下ろすように、人影が二つ。そのように見える。
今、そのうちの一つが、ふいっと端から離れて動き出した。
色も分からないほどの小さなシルエットを、つかさはじっと見つめる。
言い訳をするならば、林の中から倒れた霞冴を発見しながらも、雷奈より出遅れたのは――刻雨を妨害したまばゆいものに、雷奈以上の反応をしてしまったからだ。
屋上の奥へと去った影を追うように、もう一つの影も動き出す。
おそらく、先に動いた方がそうだと思いながら、つかさは心の中で呼びかける。
(……そこに、いるのね)
あれから、姿は見ていない。消息さえも知らない。
けれど、霞冴を守るためならどんなに遠くからでも飛んでくる光など、一つしか知らない。
忘れはしない。忘れるわけがない。
短い間とはいえ、他ならぬつかささえ――彼のために、刀を振るったのだから。
疾走の果てで、つかさの刀が頭上に掲げられた刻雨の刃と切り結んだ。希兵隊一の刀剣使いにもひるまぬ斬り込み。鋼と鋼のぶつかる音が二人を中心に響き渡り、周囲の木々をも恐れおののかせる。
それもつかの間、刻雨の体が一瞬のうちに横へ平行移動した。
かと思えば、押し合っていた刀の姿と重みが消える。
一見無防備になった刻雨の体は、つかさが刃を斜め気味に下ろせば簡単に終わる。並みの相手ならそうしただろう。
が、つかさはとっさに右足を引き、同時に垂直に立てた刀を右脇に引き戻した。
直後、刀身を横からの衝撃が激震させた。刃に刃で斬り込み、十文字を象る。やはり、刻雨の斬撃は弧を描く瞬間すら見せなかった。
つかさが大きく下がる。その胸の前すれすれで、勢い余った凶刃が風を切った。
降りぬいた直後の隙を狙って、つかさの足が地を蹴る。反撃の刀が、幼馴染の顔をもつ頭部を飛ばそうと跳ね上がる。
しかし、またしても一瞬で現れた黒刀が、そうは問屋が卸さぬと邪魔だてした。
つかさは舌打ちした。まるで二振り目の出現を疑うような光景だった。だが、まぎれもなく刻雨は、一振りしか使用していない。
ギチギチと音を立てて競り合う刃。小刻みに震え、ぶれて――。
一瞬後、刻雨の剣が突然激しく動いた。
そのさらに一瞬後には、つかさが半ば体重をかけ、まるで相手の剣ごと自分の方へ巻き込むような勢いで押しとどめる。
両者の刀は、引きずり込まれるように鍔迫り合いを余儀なくされた。
その光景から数秒たって初めて、後方で見ていた雷奈は、数瞬の間に起きた現象を理解した。
刻雨は、加力のあまり震える剣先が、偶然つかさの方を向いたのを見逃さず、突き込んだ――ように見えた。だが、刻雨のことだ。きっと偶然などではなく狙ったのだろう。
他の希兵隊員の追随を許さない一撃必殺のオンパレード。つかさは力ずくで阻止していたが、刻雨に挑んだのが雷奈だったなら、どれ一つとして確実に反応できなかっただろう。
体勢を整えながら、つかさは刻雨と目を合わせた。剣術で見るべきは相手の刀ではなく、目だ。目を通して見据える、相手の全体像だ。
一瞬の気の緩みも許さぬつかさのまなざしを、刻雨は余裕の笑みで見つめ返した。
直後、つかさは息をつめて一気に後退した。
動く。まるでプールいっぱいの水に一滴だけ垂らしたような希薄な予感だったが、つかさの体は相手の腕も足も動かぬうちに退避命令を叫んだ。臆病風などではないことは、刻雨の感心したような笑みを見れば瞭然だ。動作の前の「起こり」を見抜けていなければ、どんな手でやられていたかわからない。
間合いが空いたところで、刻雨は悠然と腕を下ろして笑んだ。
「希兵隊じゃない割に、なかなかのやり手だね」
「まあね」
刀を構えなおしながら、つかさは肺の空気を入れ替える。
「万屋の仕事で剣術指導することもあるし、たまに水月道場を借りて霞冴の稽古相手もするしね。あの子に無敗だったのは私くらいだし」
「だった、ね」
無造作な立ち姿の刻雨が、下ろしていた剣先をゆっくりと上げ始める。
「今は?」
その短い問いかけが終わらないうちに、つかさは飛び出した。猫の跳躍力を存分に発揮した急接近で逆袈裟に持ち込む。
だが、刻雨はひらりと片手間のような余裕でかわしてしまう。追撃の水平斬りも、柔軟に体を半身にさばいて、剣先すらかすらせない。
霞冴の武術の経験値は、鏡像である刻雨にも反映されている。つまり、刻雨もまた、技の「起こり」を見抜く目は長けているのだ。つかさが正面から斬りかかろうとしても、水平に薙ぎ払おうとしても、突きで貫こうとしても、彼女はまるで相手の動きを先読みしているかのような動きを見せる。
つかさとて、その手の洞察力は養ってきたつもりだ。だが、それは霞冴から受け継いだ刻雨の俊敏さの前には歯が立たない。来る、と分かった瞬間には、すでに来ている。冴えわたった剣技が、水月道場きっての瞬速に乗って飛んでくる。
今だって、刻雨が不意打ちに出ようとした瞬間を目では捉えていたのに、万全の姿勢でないままに辛くも刀身で受け止める羽目になっている。
再び鍔迫り合いにもつれこむ中、刻雨は再び問いかける。
「今でも手合わせしてるんでしょ? 最近の戦績はどうなのさ?」
つかさは答えず、刻雨の目を見つめたまま体幹に込める力を増した。
水月道場の門下生だった頃、練習試合で霞冴を負かした時に飛んでくる恨み言は、いつも同じだった。
――スピードなら私の方が速いのに、つかさってば、やたら力が強いんだもん!
その分析は正しく、霞冴の俊敏さに対するつかさの武器は、単純なパワーだ。ゆえに、鍔迫り合いになれば思い切り相手を突き飛ばして体勢を崩すことなど造作もない……はずなのだが、刻雨にはそれが通用しなかった。
刻雨は鍔元に近い部分でつかさの刀を受け止め、逆につかさの刀の切っ先に近い部分に力を加える形で押してきている。ただそれだけで、つかさは苦戦を強いられる。腕力云々の問題ではなく、力学的に不利な構図なのだ。
無論、これも偶然ではなく、刻雨が意図して狙った状況だ。いくら力に覚えがあるつかさでも、物理法則には敵わない。しばらく手合わせをしない間に、どうやら最近の霞冴は腕を上げたらしい。
刻雨は狙い通りとほくそ笑むと、両腕を内側に巻き込むように、刀の柄を体に密着させた。そのまま、一気に体幹の力でつかさの刀を押し倒す。さすがは力学的エネルギーを駆使する一条ユウガの免許皆伝を賜った弟子だ。物理学的有利性にかなった動きで、つかさの体勢をあっさりと崩した。
ためらうまでもなく退避だ。
すばやく下がろうとするつかさ。その後を真一文字の斬撃が追った。
とっさに受け止めながら大きく後退し、数メートルの間合いを空けて相対する。
二人の足元に数滴の血が滴った。
刻雨の剣先から。そして、つかさの右腕から。
「つかさ!」
「お姉ちゃん……!」
雷奈とまつりが、つかさの背中を見つめて思わず声を上げる。当の本人は、振り返ることもなく、表情を変えずに刻雨を見つめている。
「どうやら、ここしばらくの旗色は悪いみたいだね」
言いながら、刻雨は右足を引いて、刀を顔の横で水平に、刃を天に向けて構えた。血に濡れた剣先が、つかさを虎視眈々と見据える。
己の体から流れ出たものを突きつけられてもなお、つかさは動じることなく、ふうっと息をついた。そして、同じく右足を引いて、剣先を相手に向ける。ただし、刀は横に寝かせた、平突きの構え。
「君は今の時尼霞冴には勝てない。けれど、私は彼女に勝った」
刻雨は霞の構えのまま、微動だにせず言った。表には一ミリの動きも出さない刻雨だが、次の瞬間の突貫に備え、重心を右足にたくわえていくのが、つかさにはわかった。自身も然りゆえだ。
互いの気が満ちる――同時。
「それならこの勝負……君は私に降る!」
地を蹴る音は一つ。瞬間を同じくして飛び出した二人の距離は、まばたき一つの間に急速に食い尽くされていく。
刻雨の剣が突き出される。
つかさの剣も突き出される。
左目を狙った互いの剣先は、同じようにそらした顔の横をすれすれで通過し、逃げ遅れた横髪をちりちりと削り散らした。
狙いを外した両者の剣は、相手の肩越しの空間を貫いた。遅れて、それぞれの主が正面から至近距離に迫る。
菖蒲色と紺色の双眸が、抜き身の眼光をぶつけ合った。互いの鼻先さえ触れ合いそうな距離。その手に握った殺意も、十分すぎるほど届く間合い。
言わずもがな、先に剣を振るった方に軍配が上がる状況で。
先に剣を振るうのは、当然すばやさに長けた方であって。
しかし、それは剣を振るった場合の話であった。
「バカね」
ガツンッ!
硬い音が鳴り響いた。激突したつかさと刻雨の額の間に、火花さえ錯覚しそうなほどの衝撃。
目を白黒させた刻雨の頭が、大きくのけぞる。彼女と同じように額に赤い跡をつけながら、つかさはぶれることのない声で刻雨の認識を両断した。
「私が敵わないのは、両刀の霞冴よ。一振りなら、今でもまだ私の方が優勢」
よろめき、たたらを踏んだ刻雨に、反撃の余力はない。その隙に刀を引き戻したつかさは、追うように踏み込んで袈裟懸けに斬り下ろした。
しかし、そこはさすが刻雨、まだ視界がくらむ中でも反射的に切り結んだ。とはいえ、足元が盤石でない以上、刻雨には万全の鍔迫り合いは不可能だ。
その好機を読み取れない元護衛官ではない。
鍔迫り合い中にもかかわらず、つかさは恐れることなく、刀の柄からぱっと左手を離した。鍔は相手のそれに合わせたまま、接点を軸に、剣先が自分の後方を指すように刀身を回転させる。
必然的に、柄が刻雨に垂直に向く。同時、つかさは鍔に手のひらを添え、叩きつける勢いで思い切り押し込んだ。ドスッ、と鈍い音とともに、柄の先が刻雨のみぞおちに突き刺さる。
「う、ぐっ……!」
一瞬だけ背中を痙攣させた刻雨は、体を折って後ずさった。その直前、苦し紛れに一太刀だけ、半円を描くように薙ぐが、その時にはつかさはすでに十分に後方へ退避していた。
「打たれ弱いのは霞冴と同じね」
つかさが無感動に考察を投げる先で、刻雨は立っているのもやっとの様子で、ぎゅっと丸めた体を震わせていた。それでもしっかりと握ったままの得物は、近づけば番犬のごとく牙をむくだろう。
なので、十分な距離を味方に、安心して柄から手を離せるがゆえの手段に出る。
「刈れ、鎌鼬」
刀をもった左手を休ませ、突き出した右手から繰り出すのは、つかさが扱えるもう一つの刃だ。
鋭い風の三連射が、彼我の距離を切り裂きながら滑空する。刻雨は苦しそうにみぞおちを押さえながらも、飛来する風切り音に顔を上げ――。
ヒュヒュヒュンッ!
高い空気音を奏でながら、目にもとまらぬ速さで、片手で刀を操った。
風でできた刃ゆえに視認しにくいが、彼女は確かに、立て続けに襲い掛かってきた鎌鼬を一瞬で斬り伏せた。それも、ダメージを受けた体幹に負担がかからぬよう、ほとんど手首の動きだけで。
さらに。
「……ッ!」
彼女は苦痛を気力で押し込めると、ダッと地を蹴って肉薄してきた。顔の右横で刀を垂直に立てる、八相の構えで。
再びの近接戦を予感したつかさが、刀を両手で握りなおして真っ向から斬り下ろす。刻雨はそれを当然のように横にかわすと、とんと小さく飛び――空ぶって地を斬ったつかさの刀の峰に、軽やかに着地した。
相手の武器と移動を封じながら、至近距離に立つ。その圧倒的優位性を、絶妙な平衡感覚と瞬発力で実現した刻雨は、柄を握ったまま動きを止めたつかさへ黒鉄を閃かせた。
つかさの首へ、死が迫る。
転瞬、つかさの手がぱっと柄を離した。
当然、柄は重力に従って落ちる。その上の者もしかり。
「っ!?」
突然支えを失った刀の上で、刻雨は体勢を崩した。その脇腹に、身一つとなったつかさの蹴りが叩き込まれる。短い悲鳴とともに、刻雨の体が地面を転がった。
そのめくるめく戦局の展開に、雷奈はまばたきを忘れて立ちすくんでいた。
鍔迫り合い中の頭突き。柄での打突。刀の上への着地。柄から手を離しての体技――。
人間界の剣道とは異なる、どころではない。ルシルが使う剣術でさえ、まだ剣術らしいほうだ。
これはもはや、剣と剣の勝負ですらない。剣を手にした状態での戦闘。そう呼ぶ方がふさわしい。
忘れてはいけない。ここはフィライン・エデン。様式美を置いてでも相手を倒すための技術が息づく世界。
そして、この二人は紛れもなく――実践と実戦を重んじる水月道場の卒業生だ。
どのような形であれ、相手を倒した方が勝者。
その実現のために、型にとらわれない剣を使うのが刻雨で、剣を使うという型にとらわれないのがつかさ。
今、その雌雄に一つの答えが出される。
「刈れ、鎌鼬!」
再び襲い掛かる風の刃。地に伏せたままの刻雨だが、いまだ剣は手放さず――やはり、倒れたまま体勢だけを変えると、二連続で訪れた無色の刃を、最低限の動きで斬り払った。
その時には、すでにつかさは風に乗って大きく後退していた。
「雷奈!」
追い風に背中を押された雷奈が、つかさとすれ違って飛び出す。その手には、合図と同時に蓄えたスパーク。
「……!」
刻雨は倒れたまま目を見開いた。明滅するその武器は、刻雨の得物で斬り伏せることはできない。
さりとて、先の鎌鼬を防ぐのに注力していた刻雨には、起き上がって雷術を回避するだけの時間は残されておらず。
「――奔れ! 超電流っ!」
迸った電撃が、刻雨を容赦なく蹂躙する。
「――――ッ!」
悲鳴とノイズが競り合うように木々に反響した。
雷光の明滅は激しさを増す。夕暮れの薄暗さの中、昼間のような明るさが、かんしゃくを起こしたかのように荒れ狂う。
やがて、しばらくして響き渡るものがノイズ一色になると、雷奈はゆっくりと腕を下ろした。暴れまわっていた電撃は、彼女の意に従って眠りにつく。
閃光が止んで視認できるようになった地面には、刻雨の姿はなかった。ただ、黒刀と、人型に濡れた地面だけが残っていた。
「……水に、なった……?」
否、シズクの水から作り出されたのであれば、水に戻ったというべきか。ともかく、そこから蘇るということはなさそうだった。
雷奈は小さく息をついた。林間の道に訪れた静寂に、まだ余韻のように残る戦闘音を錯聴しつつ、立ちすくむ。
そこへ、新たな音が現れた。
警戒して振り返った雷奈が見たのは、執行着の少年と、その肩に乗った主体の猫。後者がつけている首輪は、緑色だ。初めて見る色だが、確か四番隊の色だと聞いている。
十七、八歳くらいだろうか、少し大人びた顔立ちの少年が辺りを見回しながら問う。
「……鏡像は」
「倒したわ。遅いわよ、希兵隊」
「……すみません」
疲れたように座り込んだつかさの口調が妙に馴れ馴れしいのは、相手が自分の前職だからだろう。それを知らない四番隊の少年は、戸惑いつつ謝った。だが、すぐに次の最優先事項へと移る。
「……応急処置してくださったんですね。ありがとうございます」
「いえっ……」
彼はなおも心配そうなまつりから霞冴を預かると、そっと抱き上げた。霞冴は細い呼吸のままぐったりとしているが、まつりお得意の猫術と、セーラースカーフとベルトを駆使した止血で、何とか出血は抑えられている。
「十番隊へ手配を」
「はい。……あの、ヤイバ隊長。こちらの方は……」
肩口の猫が、手でつかさを示す。正確には、つかさの腕の傷を。
「私はいいから。早く霞冴を連れて帰ってあげて」
「隊長、自分が残ってこの方の治療をしてから帰りますので、隊長は先に……」
「いいって言ってんでしょ。そこのまつりに治してもらうから。回解処法の腕がいいのは霞冴の傷を見ればわかるでしょ」
ヤイバと呼ばれた少年は、ちらとまつりを一瞥した。彼女がびくっと肩をすくませながらこくこくと頷くのを見ると、小さく会釈して了解の意を示し、弾趾でその場から去った。
「とりあえず……何とかなったっちゃかね?」
「ええ。霞冴のことは十番隊に任せましょう。……あ、まつり、腕より先にこっちをお願いできる? 誰かに見られたら、バレる」
斬られた腕の傷に手を伸ばした妹に、つかさは左の手のひらを向けた。それを見たまつりは「ひゃっ」と小さく声を上げた。
雷奈ものぞきこんで、「ありゃ」と顔をしかめる。
つかさの手のひらは、皮が大きくめくれかけていた。
剣道の初心者にもみられることだが、柄を握って剣を振り回していると、特に力の入る左手の皮がむけることが往々にある。
時々剣を手にしているというつかさでさえこうなったのは、布を巻いただけの荒い柄だったからかもしれない。
あるいは、それに加えて――相当強い力で刀を握っていたのだろう。
「あれが、鏡像……初めて見たわ」
「つかさとまつりは鏡像には襲われんかったと?」
「ええ、今のところはまったく。私達の鏡像を見たっていう話も聞かないわね」
治療のために手を重ね合う姉妹は、顔を見合わせて「ね」と声をそろえた。
雷奈には何となくその理由が分かった。つまり、二人は――あの大雨の日、外出していないのだろう。シズクの力が宿った水に、その姿を映していないのだ。
「……今日はもう疲れたわ。まつり、帰ったらちょっと寝かせてちょうだい」
「うん、お疲れさま、お姉ちゃん」
手のひらの治療を終え、腕の治療に移ったまつりが、愛想よく答える。
よく考えたら、つかさの働きは希兵隊のそれに匹敵するものであって、くたびれたサラリーマンのような一言で済む程度ではないのと思うのだが、そんなさばけたところも彼女らしい。
雷奈は小さく苦笑してから、「それにしても」視線を上げた。
「あの光……何だったっちゃろ」
きょろきょろと林のほうを見回しながら、首をかしげる。
霞冴にとどめを刺そうとしていた刻雨から刀を奪った、まばゆい攻撃。
あれは、雷奈の術ではない。
絶体絶命の霞冴を木々の間から見つけて、すわやられると思った直前に、おそらく林を越えて上から飛来してきた何か。それが誰によるものかもわからないまま、雷奈はとかく千載一遇の機を逃すまいと術を放ちながら乱入したのだ。
そのままつかさも伴っての戦闘に相成ったわけだが――結局、あれが何だったのかは分からずじまいだ。
同じ認識のまつりと首をかしげ合う雷奈をよそに、つかさは林の向こうにわずかに見える高い建物に目をやった。低層の建物が多いフィライン・エデンだ。この場所から見えるほどの高さの建物は、あの一つしかない。
かなり距離があるせいで、決して悪い方ではないつかさの視力でも、はっきりとは視認できないが――柵もない屋上の端に、誰かいる。
こちらを見下ろすように、人影が二つ。そのように見える。
今、そのうちの一つが、ふいっと端から離れて動き出した。
色も分からないほどの小さなシルエットを、つかさはじっと見つめる。
言い訳をするならば、林の中から倒れた霞冴を発見しながらも、雷奈より出遅れたのは――刻雨を妨害したまばゆいものに、雷奈以上の反応をしてしまったからだ。
屋上の奥へと去った影を追うように、もう一つの影も動き出す。
おそらく、先に動いた方がそうだと思いながら、つかさは心の中で呼びかける。
(……そこに、いるのね)
あれから、姿は見ていない。消息さえも知らない。
けれど、霞冴を守るためならどんなに遠くからでも飛んでくる光など、一つしか知らない。
忘れはしない。忘れるわけがない。
短い間とはいえ、他ならぬつかささえ――彼のために、刀を振るったのだから。
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