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【第二章】 「腹黒王子に逃げた俺、逃げきれませんでした」
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しおりを挟む護堂会長の部屋での生活には、少しずつ慣れてきた。
洗面台はきちんと片付いているし、机の上の書類も整理されていて、空気も妙に落ち着いている。
要は俺のことを放っておくようで、放っておかない。
最低限の干渉しかしない会長との生活は、背中を預けられるような安心感がある。
凪くんとの距離も、変わった。
もともと優しい人だったけど、今は……たぶん俺のことをキコ晴人に壊されかけたやつ″として見てくれている。
だから、俺が自分で何かを選ぶたび、少しだけ嬉しそうに頷いてくれる。
一言で言えば、今の生活は——安全だ。
それに、冷静に考えたら、俺にとってはめちゃくちゃ″捗る環境″のはずだった。
俺様生徒会長と同室というだけでも美味しい展開なのに、護堂先輩相手なら何の心配もなく凪くんを相手にして妄想が出来る。
それに推しカプの二人のやり取りが目の前で見られるし、前よりプライベートな空間で見られる二人の関係は俺の心を騒がせた。
———はずなのに、
(……最近、ノート開いてないな)
自分でも驚くくらい、創作意欲が湧かない。
せっかく美味しい素材が目の前にあるのに、筆が動かない。
なんとなく罪悪感が勝ってしまって、手が止まる。
——まるで、自分の感情が、まだどこか宙ぶらりんで定まってないみたいだった。
放課後の廊下。
教室から生徒たちがぞろぞろと出ていくなか、俺はいつものように、空気のようにその波に紛れていた。
けれど、曲がり角を抜けたところで、ぴたりと足を止める影があった。
「——久しぶり、根津くん」
声に顔を上げると、そこにいたのは新聞部のアイツだった。
特徴的な無造作パーマに、いつも笑ってるような口。
正直、苦手なタイプだ。何を考えてるのか、全然読めない。
「王子様とはもういいの?」
「……あの記事、委員長に全部バラしてたのか…?」
新聞部員は口元に指を当てて、「しー」とやる。
「いいや? 言ったじゃん、俺、君のこと好きなんだよね。
だから君のことは裏切ったりしないよ?」
……その笑顔が、本気なのか冗談なのか分からないのがまた腹立たしい。
「“あれ”は俺も驚いたけど……多分、アドリブじゃない?
あの人、ほら、怖いくらい賢いからさ」
″あれ″とは、あの掲示板前でのことだろう。
衆人の前で、俺が予想もしていなかった“恋人宣言”をされた、風紀委員長に捕まった日。
「あの人、ぜんぶ想定済みでやってたと思うよ?
君が何も言えなくなるのも、断れないのも、全部わかってて」
言われなくてもわかってる。
でも、他人の口から言われると、なんだか急に目の前の現実が重くのしかかってくる。
「ねぇ、逃げたいなら俺のとこ来てもいいよ?」
「……は?」
「寮部屋の空きはないけど、部室にはソファもあるし、匿える環境はあるよ。ついでに生徒会もやめて、新聞部入ったら?」
軽い口調で言うくせに、目はまったく笑っていない。
新聞部がただの暇人の集まりじゃないことくらい、俺でも分かってる。
「……最終手段にしとく……」
「うんうん! その時がこなかったらいいね!」
笑って、手を振る彼の背中を見送りながら、俺はひとつ息を吐いた。
——彼が“逃げ道”を提示してくれたことは、素直にありがたかった。
だけど、それと同時に、どこかで自分がそれを使ってしまう未来を怖れてもいた。
(……ほんとに、俺、戻れないのかな)
晴人の部屋。
あの整った空間、整えられた生活。
あの人の匂い、声、手の温度。
考えないようにしていたはずなのに、思い出すたびに胸がちくりと痛んだ。
——これは未練か、それとも恐怖か。
自分でも、もうよく分からない。
***
——《王子様、崩壊のとき。》
そんな見出しをつけたくなるような、ちょっとした光景だった。
風紀委員室の片隅、書類を仕分けるふりをしながら、俺はそれとなく視線を送る。
天瀬晴人。
二年生なのに学園を執り仕切る″風紀委員長″で、この学園で最も支持される人気者。
最も気高く、そして最も「完成されすぎている」生徒のひとり。
その彼が、今や誰もが気づかないほど微細なほころびを纏っていた。
服の襟はわずかに乱れ、シャツの袖はまくったまま戻っていない。
机の端に置かれたペンは彼らしくもなくキャップが外れたままで、指示の口調にもどこか力がない。
——ぱっと見では、まだ完璧だ。
でも、近くにいる者にしか分からない″温度の喪失″がある。
(芯が壊れるほど、あの子が大事なのか)
彼は、根津くんに触れない。
誰にも何も話していない。
風紀委員長としての仕事は淡々とこなしているし、昼休みに食堂に行く姿もいつも通り。
だけど、あの男の周囲だけ、音が失われている。
王子様は、誰にも弱音を吐かない。
だから、こうやって“誰にも気づかれないまま”崩れていくんだろう。
(ま、無理もないよねぇ)
誰だって、自分の世界の中心だった存在に、ふいに背を向けられたら。
委員長が根津くんを″好き″だったのかは知らない。
ただ、彼にとって根津美咲が″自分の一部″だったことは確かだ。
だからこそ、突然それを失ったことを、彼はまだ直視できていない。
気づかないふりをして、平常運転を演じているだけだ。
——その様が、実に美しい。
崩れていくのに、それすらも美しさに変えてしまう人間っているんだなあと、俺は心のどこかで感心していた。
(ま、根津くんも馬鹿だよね)
波風を立てたくなかったんなら、わざわざこんな人気者を選んで“偽装カップル”なんてするべきじゃなかった。
誰だって羨むような相手と付き合ってるように見せかけて、それで「自分だけ安全なままでいたい」なんて——
甘いんだよ、根津くん。
「……よし、これで風紀強化月間の資料、全部まとめました!」
声を張って報告すると、天瀬晴人はいつもの微笑みを浮かべて「ありがとう」と返してくる。
その表情すら、少し色が抜けたように感じる。
(うん。いいねいいね!もっと壊れて。)
そう思ったとき、背後から声がかかった。
「おい。そろそろ帰るぞ」
低くて少し不機嫌そうな声。
振り返れば、僕の″彼氏″の澪が居た。
「おー、澪ちゃん! 待ってたー」
軽く手を振って近づくと、彼は少し呆れたようにため息をついた。
「その呼び方、どうにかならないか」
「え、違った? 俺たち、周囲にはラブラブに見えてるって評判なのに」
「勝手に言ってろ」
「じゃ、すみません委員長。ダーリンが迎えに来たんで、僕、そろそろ失礼しますねー!」
「誰がダーリンだ!」
ふざけた調子で言いながら、俺は晴人に軽く頭を下げる。
晴人は一瞬だけ目を細めたが、何も言わなかった。
部室を出て、並んで廊下を歩きながら、澪が小さく言った。
「……あの人、かなり来てるな」
「うん。大事なもの、失ってはじめて人って変わるもんだよ」
「お前の言う“変わる”って、ロクな意味じゃないよな」
「失礼な」
俺はにっこりと笑って、隣の澪の腕にひょいと自分の腕を絡めた。
「でも、俺と澪ちゃんは平和でしょ? 一応、偽装カップルってことで手を組んでるけど、少なくとも“所有”なんかし合ってないもん」
「お前がそれを望んでるうちはな」
「ん~? 何それ、怖~い」
ふざける俺に、澪は目を細めながら「さっさと帰るぞ」と一言。
こんな関係もある。
互いに嘘と秘密で成立しているけど、割り切ってる分だけ楽。
それが分かってるからこそ、俺は王子様みたいに一方的な愛情を誰かに注ごうなんて、冗談でも思わない。
——それにしても、あの王子様。
次に“感情”を暴走させるときが来たら、どんな顔をするのか。
今から、ちょっとだけ楽しみだ。
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