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【第二章】 「腹黒王子に逃げた俺、逃げきれませんでした」
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しおりを挟む(晴人視点)
「あんな顔、はじめて見たな……」
ぽつりと呟いた声は、思っていたより部屋に深く響いた。
壁掛け時計の針はとっくに深夜を過ぎているのに、彼はまだ帰ってこない。
二人で寝ていたベッドを久しぶりに一人で使うと広くて、妙に寝心地が悪かった。
あの時、いつものように、そっと寄り添ってくるはずだったのに。
『踏み込まれたくないことくらいあるだろ』
あのときの、根津くんの声が頭から離れない。
怒っていた。確かに。
でも、それは僕が悪かったわけじゃない。
好きだから、知りたかっただけだ。
誰にでもあるだろう。恋人のことを、もっとちゃんと理解したいっていう気持ち。
たとえば、嫌いな食べ物とか、苦手な音楽とか。
それと同じように——家族構成も、価値観も、過去の恋人も。
恋人なら、全部知っておくべきだ。
知らないままでいるなんて、不誠実じゃないか。
「……何をそんなに、怖がってたんだろうね」
夕方に彼が飲んでいたミネラルウォーターのボトルは、僕が冷蔵庫に片付けた。
音のない深夜二時、意味もなく冷蔵庫を開けまだ半分以上残っていたそれを手に取った晴人は、静かに扉のポケットに戻してから、無意識のうちにテーブルの上を拭いていた。
整った部屋。食器は洗ってあるし、洗濯物も片付いている。
制服のシャツは明日の分までアイロンをかけて、ハンガーに吊ってある。
(……完璧だったのに)
何もかも、根津くんのために最適化していた。
夜更かしは肌に悪いから、起きる時間を早くして、朝の光で体内リズムを整えて。
食事のバランスも、髪や肌に良い栄養を考えて献立を作って。
匂いに敏感な彼のためにリネンの柔軟剤は匂いが強すぎないものを選び、ベッドのシーツは彼の好みの肌触りに替えた。
全部、僕が“してあげてた”。
彼はただ、それに身を委ねていればよかった。
なのに、あんな顔をするなんて。
(どうして……?)
僕は君を甘やかしていただけなのに。
君が何もしなくても、生活が回るようにしてあげたのに。
楽だったでしょう?
ぬるま湯みたいに、浸っていたい環境だったはずだよ。
君に選ばせてあげていた。
自由に見えるように、ちゃんと「キスしていい?」「明日は何時に起きたい?」って、毎日訊いてあげていた。
(……ねえ、根津くん。君はそれでも、まだ″自由じゃなかった″って言うの?)
答えは返ってこない。
代わりに、静寂が部屋を満たしていく。
ドアの前を見つめる。
まだ、何の通知もないスマホに目を落とす。
(きっと、すぐ戻ってくる)
だって、携帯しか持っていかなかった。
着替えも、財布も、教科書もない。
ほんの一時的な衝動で出ていっただけ。
冷たい空気に触れて、きっとすぐ気づく。
この部屋が、一番落ち着ける場所だったって。
(……ね、根津くん)
わかってるよ。君は、優しいから。
すぐに謝りに戻ってくる。
そのときは、何も言わずに抱きしめてあげよう。
今度は、きちんと“本物の恋人”として。
——もっと、深く。
——もっと、僕だけのものとして。
そのための準備は、もうとっくに整っているのだから。
***
翌朝——
目が覚めたとき、僕の隣はまだ空っぽのままだった。
(……あれ?)
スマホの通知もない。
扉の前に気配もない。
これは、少しおかしい——そう思い始めたそのときだった。
「晴人、いるか」
コンコン、と控えめにドアが叩かれる。
(…要?こんな、朝早くに?)
「……どうぞ、起きてるよ。」
無意識のうちに立ち上がり、部屋の鍵を開けると、要がすぐにドアの隙間から顔をのぞかせる。
「根津の教科書と、制服を取りに来た。……入っていいか?」
「……うん。」
言われるがまま、俺は棚から教科書を取り出し、ベッド脇のハンガーにかかっていた制服を手に取った。
(ああ、そうか。……美咲くん、学校に行くんだ)
少しホッとする。ちゃんと朝になったら戻ってくる。それなら昨日のことは、ちょっとしたすれ違いだっただけで——
「……要の部屋に、居るんだ?」
沈黙の中、静かに部屋に響いた声に要はわずかに眉を動かす。
「お前を部屋に入れる気はない」
その返答に、一瞬だけ、呼吸が止まった。
「……何か、根津くんから聞いた?」
「別に。聞かなくても分かるような話しかあいつはしなかった。」
鋭い視線が、俺を射抜く。
「……そう、彼、話したんだ?」
僕の秘密、守ってって言ったのに。彼は取り引きに応じたくせに、それを踏み躙ったんだ?
晴人の静かな怒りに、要の視線はより鋭くなる。
「お前が何を察してるのかは知らないが、俺はここにあいつを戻す気はない」
反射的に口にした。
でも、晴人の声の力は変わらない。
「″僕のもの″だから、返してくれない?」
「…晴人、人は″もの″じゃない。」
「要には、凪がいるでしょ?…不公平だと思わない?全部要が持ってるなんて」
「……俺は、たまにお前が、父さんに見えて怖いよ。」
要は、眉を顰め無感情に言い放った。
晴人が″怒っている″ことは分かる。
しかしなぜ″怒れる″のか俺には分からない。
諦めでも、悲しみでもなく、思い通りにならないことに怒りを表すのは大きな企業を支配する俺の父にそっくりだった。
「諦めろ。」
「…ずるいって言ったつもりなんだけど、伝わらなかった?」
「お前の手法が俺にも通じると思うな。
…お前のことも父さんのことも……尊敬はしているが、誰でも″それ″が受け入れられると勘違いするなよ」
「…………勘違い?」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
要は何を言っているんだろう。
だって、あの子はちゃんと受け入れてたじゃないか。
″受け入れさせていた″自覚なんてない晴人は、キョトンとした目で要を見る。
要は荷物を纏めると「これ以上話しても無駄だな」と部屋を出ようとする。
「俺は……全部、してあげてた。彼が困らないように、必要なことは全部……」
「それをあいつは望んでいたか」
「そんなの、聞かなくたって分かるでしょ」
「ああ。望んでなかったはずだ。」
要の言葉に、晴人は声を無くした。
″望んでない?″
うん、確かに。彼から率先して望まれたことはない。
でも気は利いていたでしょ?居心地は良かったでしょ?
「…………返してね。」
「……お前、怒ってるのか?」
「……そんなの、当たり前でしょ?」
初めてだった。
こんなに、苛立ちを感じたのは。
「どうして、僕じゃなくて……要のところに行ったのかな。
要と根津くん、そんなに仲良かったっけ?僕があの子に近付くのは、結構苦労したんだけどな」
言いかけて、言葉が詰まった。
要は一歩、近づく、その顔は強張っている。
「……なあ、晴人」
その声は、いつになく低くて、冷たい。
「お前は、“お前以外の人間に助けを求めたこと”に怒ってるのか、それとも、“お前から逃げたこと”に腹を立ててるのか——どっちだ?」
「……っ」
その問いに、答えられなかった。
心臓の奥を直撃されたような感覚。
「お前は、“恋人”を作ったんじゃない。“所有物”を手に入れたと思ってたんだろ」
その言葉が、あまりにも静かに刺さった。
「……根津は、もう戻らないと思っておいた方がいい」
制服とノートを手にした要が、最後にそう言って部屋を出る。
ドアが閉まる音が、妙に遠くに響いた。
(……どうして、)
昨日まで、毎朝起こして、顔を拭いて、着替えを用意していたのに。
帰ってくるたびに「おかえり」と言ってくれて、
目を閉じてキスを受け入れてくれていたのに。
何もかも、順調だったはずなのに——
ゆっくりと、俺はソファに腰を下ろした。
(……いない)
カップの並びが違う。
バスルームのタオルが一本だけ。
ベッドの端に置いてあった彼のスマホの充電器もない。
確かに、彼の気配が消えている。
残っているのは、冷蔵庫の中のボトルと、テーブルに敷かれたコースターだけ。
「……そっか」
言葉が、喉の奥で崩れた。
これが——喪失感なんだ。
ようやく、気づいた。
自分から捨てるのではなく、相手から見捨てられる感覚を初めて知った。
腹の底が冷たくて、目の奥が熱い。
カチカチと音を鳴らす時刻板が、やけに鬱陶しい。
その気持ちの正体が″寂しい″だと、晴人はまだ気がつかなかった。
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