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【第一章 ウィーン包囲】パン・コンパニオン
パン・コンパニオン(11)
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「兄上?」
グイードの訝しむ声。
「腹をどうされた?」
「………………」
ギクリとする。
エルミアに刺された傷は、肉の表層を傷つけたにすぎない。
布を巻いてきつく押さえているので、ほとんど痛みも感じないくらいだ。
しかし無意識のうちに庇っていたのだろう。
武人であるグイードは、背を叩かれた瞬間に従兄弟の頬に走った一瞬の歪みに目ざとく気付いたようだ。
「……ちょっと、腹が痛くてな」
「ム? 兄上、変な物でも食べたんじゃあるまいな」
「……まぁな」
すると背後から甲高い抗議の声が。
「僕のパンはヘンじゃないよ!」
ややこしいから黙っていろと言いたいところをぐっとこらえる。
このパン屋、下手に構うと面倒臭さが倍増するに違いない。
少々変わり者というのは分かるが、明るいのは良いことだと考えることにしよう。
ちら、と視線を走らせる。
ルイ・ジュリアスの背後で、ずっと俯いたままのリヒャルトを見やったのだ。
馬の歩みに合わせてゆらゆらと、生気を失ったように一点を見詰めている。
黙りこんだままだ。
先程オスマン兵の標的にされたことを、足を引っ張ったと気に病んでいるのだろう。
さっきから何度か声をかけようとして、しかしかける言葉を思いつかずやり過ごしていたのだ。
これでは敵と剣を交えることなど不可能だし、責任ある仕事を割り振ることも難しい。
口を開きかけ、結局今回もシュターレンベルクは息子から視線を逸らせたのだった。
「グイード、報告を聞こうか。市長が何だって? あんなのは待たせておきゃいいんだ。急いで帰ったところで、結局嫌味を言われるだけだ」
目の前の現実から逃れるための問いであったが、皮鎧の大男は弾かれたようにこちらを振り返った。
「い、いかにも。兄上に何点かご報告が……」
この男にしては珍しく言いよどむ様子を見せ、しかし意を決して一言。
「誘拐され申した」
「誘拐? 誰がだ?」
「マリア・カタリーナです。兄上の娘だ」
「は?」
馬の足取りが乱れる。
背後でパン屋がバランスを崩しかけ、慌ててシュターレンベルクの背にしがみついた。
「馬鹿な。娘は他都市に避難したはずだ」
ルイ・ジュリアスの背に顔をもたせたままのリヒャルトの口が「あっ」と小さく動いたのを視野に捉え、シュターレンベルクは嫌な予感が背に這い上がるのを感じた。
「おれもそう思っていた。兄上の奥方やお子らは、とうに避難したものと。だが、マリア・カタリーナだけこっそりと街に残っていたようだ。さきほど市長殿の元に脅迫状が届いた」
そこには、最高司令官シュターレンベルクの娘を誘拐した旨、解放してほしければ降伏してオスマン帝国軍にウィーンを明け渡せという要求が書き連ねてあったという。
「……それは、何とも胡散臭いな」
唸る指揮官と、頷く副官。
「兄上、それからもう一点」
なんだと問われ、グイードの野太い声が一瞬詰まる。
次に口を開いた時、この男にしては珍しく声が掠れていた。
「逃げ申した」
「今度は誰が?」
「それが……」
早々に言うべきであった。
兄上が襲撃を受けたというからついそちらの話が気になって……と言い訳ともとれぬことを小さく呟く。
「誰もおらぬ。諸侯ほぼ全員だ。アーレンベルク公も、クレーフェ公も……。今朝早くに市の東側から逃亡した。オスマン帝国軍の一隊が彼らを追撃し、ドナウ艦隊が応戦、壊滅したとの報が」
「なに……っ」
落馬よりも強い衝撃が全身を貫く。
挙げられた名は頼みにしていた諸侯らのものだ。
彼らは今朝方、唯一の脱出方向である東に向かったらしい。
配下の兵を残して単身、或いはごく少数での脱出というから彼らの本気の程が伝わってこよう。滅びる都市と運命を共にするものか、と。
「陛下の元へ駆けつけるから留守を頼むと家中の者に言いおいたとの話だ。報告が入ったのが昼過ぎで、急ぎ兄上に知らせようとしたのだが」
兄上の姿が市壁内になかったから手間取ったと言いたかいらしい。
どちらにしても手遅れである。
もう対処は出来ない。
秘密裏に脱出した諸侯らのことも、ドナウ艦隊のことも。
レオポルトの元へ行くなど、そんなものは口実に過ぎない。
皇帝に見捨てられた首都でどれほど活躍したところで、自身の評価など得られやしない。
利に敏い連中の行動を予測しておくべきだった。
それにしても奴らの言い草が余計に腹が立つ。
勝手に領地に帰るというなら反逆として責めることもできようが、皇帝の元へ馳せ参じると言いおかれては、一介の家臣たる自分には処分を講じることもできない。
何より痛いのは、秘策としていたドナウ艦隊が巻き込まれたことだ。
貴族たちが逃亡の足として使ったのだろう。
少数で機能する隠密部隊が姿を晒すことになってはまずい。
攻撃され、為す術なく壊滅した。諸侯らが逃亡に成功したか、艦隊と共に沈んだかは今は確かめようもない。
今朝の時点で唯一開いていた東とて、既にオスマン軍が布陣しているだろう。
ウィーンはオスマン帝国軍によって完全に包囲された。
一六八三年七月十六日のことである。
グイードの訝しむ声。
「腹をどうされた?」
「………………」
ギクリとする。
エルミアに刺された傷は、肉の表層を傷つけたにすぎない。
布を巻いてきつく押さえているので、ほとんど痛みも感じないくらいだ。
しかし無意識のうちに庇っていたのだろう。
武人であるグイードは、背を叩かれた瞬間に従兄弟の頬に走った一瞬の歪みに目ざとく気付いたようだ。
「……ちょっと、腹が痛くてな」
「ム? 兄上、変な物でも食べたんじゃあるまいな」
「……まぁな」
すると背後から甲高い抗議の声が。
「僕のパンはヘンじゃないよ!」
ややこしいから黙っていろと言いたいところをぐっとこらえる。
このパン屋、下手に構うと面倒臭さが倍増するに違いない。
少々変わり者というのは分かるが、明るいのは良いことだと考えることにしよう。
ちら、と視線を走らせる。
ルイ・ジュリアスの背後で、ずっと俯いたままのリヒャルトを見やったのだ。
馬の歩みに合わせてゆらゆらと、生気を失ったように一点を見詰めている。
黙りこんだままだ。
先程オスマン兵の標的にされたことを、足を引っ張ったと気に病んでいるのだろう。
さっきから何度か声をかけようとして、しかしかける言葉を思いつかずやり過ごしていたのだ。
これでは敵と剣を交えることなど不可能だし、責任ある仕事を割り振ることも難しい。
口を開きかけ、結局今回もシュターレンベルクは息子から視線を逸らせたのだった。
「グイード、報告を聞こうか。市長が何だって? あんなのは待たせておきゃいいんだ。急いで帰ったところで、結局嫌味を言われるだけだ」
目の前の現実から逃れるための問いであったが、皮鎧の大男は弾かれたようにこちらを振り返った。
「い、いかにも。兄上に何点かご報告が……」
この男にしては珍しく言いよどむ様子を見せ、しかし意を決して一言。
「誘拐され申した」
「誘拐? 誰がだ?」
「マリア・カタリーナです。兄上の娘だ」
「は?」
馬の足取りが乱れる。
背後でパン屋がバランスを崩しかけ、慌ててシュターレンベルクの背にしがみついた。
「馬鹿な。娘は他都市に避難したはずだ」
ルイ・ジュリアスの背に顔をもたせたままのリヒャルトの口が「あっ」と小さく動いたのを視野に捉え、シュターレンベルクは嫌な予感が背に這い上がるのを感じた。
「おれもそう思っていた。兄上の奥方やお子らは、とうに避難したものと。だが、マリア・カタリーナだけこっそりと街に残っていたようだ。さきほど市長殿の元に脅迫状が届いた」
そこには、最高司令官シュターレンベルクの娘を誘拐した旨、解放してほしければ降伏してオスマン帝国軍にウィーンを明け渡せという要求が書き連ねてあったという。
「……それは、何とも胡散臭いな」
唸る指揮官と、頷く副官。
「兄上、それからもう一点」
なんだと問われ、グイードの野太い声が一瞬詰まる。
次に口を開いた時、この男にしては珍しく声が掠れていた。
「逃げ申した」
「今度は誰が?」
「それが……」
早々に言うべきであった。
兄上が襲撃を受けたというからついそちらの話が気になって……と言い訳ともとれぬことを小さく呟く。
「誰もおらぬ。諸侯ほぼ全員だ。アーレンベルク公も、クレーフェ公も……。今朝早くに市の東側から逃亡した。オスマン帝国軍の一隊が彼らを追撃し、ドナウ艦隊が応戦、壊滅したとの報が」
「なに……っ」
落馬よりも強い衝撃が全身を貫く。
挙げられた名は頼みにしていた諸侯らのものだ。
彼らは今朝方、唯一の脱出方向である東に向かったらしい。
配下の兵を残して単身、或いはごく少数での脱出というから彼らの本気の程が伝わってこよう。滅びる都市と運命を共にするものか、と。
「陛下の元へ駆けつけるから留守を頼むと家中の者に言いおいたとの話だ。報告が入ったのが昼過ぎで、急ぎ兄上に知らせようとしたのだが」
兄上の姿が市壁内になかったから手間取ったと言いたかいらしい。
どちらにしても手遅れである。
もう対処は出来ない。
秘密裏に脱出した諸侯らのことも、ドナウ艦隊のことも。
レオポルトの元へ行くなど、そんなものは口実に過ぎない。
皇帝に見捨てられた首都でどれほど活躍したところで、自身の評価など得られやしない。
利に敏い連中の行動を予測しておくべきだった。
それにしても奴らの言い草が余計に腹が立つ。
勝手に領地に帰るというなら反逆として責めることもできようが、皇帝の元へ馳せ参じると言いおかれては、一介の家臣たる自分には処分を講じることもできない。
何より痛いのは、秘策としていたドナウ艦隊が巻き込まれたことだ。
貴族たちが逃亡の足として使ったのだろう。
少数で機能する隠密部隊が姿を晒すことになってはまずい。
攻撃され、為す術なく壊滅した。諸侯らが逃亡に成功したか、艦隊と共に沈んだかは今は確かめようもない。
今朝の時点で唯一開いていた東とて、既にオスマン軍が布陣しているだろう。
ウィーンはオスマン帝国軍によって完全に包囲された。
一六八三年七月十六日のことである。
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