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陰気なマリア
陰気なマリア(1)
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「オスマン帝国軍など、おれの歌で跳ね返してやるぞ」
グイードが声を張り上げた。
音楽をこよなく愛する皇帝レオポルトに、いつだったか声を褒められたことがあるらしい。
以来、公衆の面前でも実に堂々と自慢の喉を披露するようになっていたのだ、この男は。
「や、やめろ……」
シュターレンベルク、両手で耳を塞ぎながら呻く。
壊れた弦楽器と大太鼓を同時に耳元で打ち鳴らされているようだ。
オスマン帝国軍の砲撃と比べてどちらがマシかと問われれば、返答に窮するというのが正直なところ。
いや、グイードの大音量のだみ声に比べれば、敵軍の攻撃など可愛くすら思える時もある。
ああ、この「歌」が向こうにまで届いたなら、敵に対してせめてもの嫌がらせになるだろうに──そう思うと、無念な思いが込み上げる。
「や、やめろ、グイード。市壁にヒビでも入れたら殺すぞ」
「なんと、兄上。はははっ! 硝子を震わせることは出来ようが、さすがのおれも壁にヒビなど……。いや、兄上。それは買いかぶりというものだ」
「………………」
嫌味も通じやしない。
先程、敵の斥候と戦闘を行った話が、そろそろあちらの指揮官の耳に届いた頃合いだろうか。
敵に動きはみえるだろうか。
いや、どちらにしろ問題はない。
堅牢なウィーンの市壁内にこもっている限り、向こうは手出しなんてできやしないのだから。
小屋の撤去は既に手配済みだ。
近くまで行って丁寧に解体する必要はない。
弓矢の届くぎりぎりの距離から火矢を射かけておけば万事完了だ。
今現在、差し迫った問題は──とシュターレンベルクは目の前で声を荒げる二人の人物に視線を送った。
そして、おもむろに溜め息をつく。
「女性がさらわれたのなら、すぐに救出部隊を繰り出すのが当然だろうが」
今のこの街では珍しく白銀巻き毛のカツラを被った、まだ若い男が叫んだ。
「お待ちなさい。救出部隊なと組織する余裕がどこにあると言うのです」
諫めるのは齢五十ほどの貫禄ある男だ。
ゆったりした外套から、武人でないことが伺える。
「それはそうだが。だがな、市長よ。とっととアイツの娘を救い出してやりゃあ、いけすかねぇシュターレンベルクの鼻を明かしてやれる。良い機会じゃねぇか」
「それはそうですが。あなた、あまりにあからさまですよ。そもそもどうして防衛司令官殿のご令嬢がウィーンに残っているのですか。とうに避難されたはずです。真偽も定かでない以上、この手紙は怪文書にすぎません。第一、防衛司令官殿はどこに消えたのですか!」
「それだよ! あの野郎。壁から出てグラシで呑気に馬を駆ってるらしいぜ」
「何ですって!」
怒鳴り合いを、兵士らが遠巻きに見ている。
市民が行き交う往来でなく、兵らの詰所とされている王宮の庭でやり合っているのは、まだ思慮深い行為だといえようか。
「何ですって」のタイミングで、彼らは自分たちの元に近付いて来るウィーン防衛司令官の存在に気付いたらしい。
「あっ……」
カツラの男が小さく声をあげた。
しまったという思いが、表情ににじみ出ている。
優美な白銀のカツラと派手な赤色の上着。
腰には黄金で装飾された剣を帯びている。
いかにも貴族らしい出で立ちの、それでいて若さが先立って思慮が浅そうなこの男。
名をルートヴィヒ・フォン・バーデン伯という。
グイードと同年代でありながら、帝国軍事参謀議長の甥ということもあって、シュターレンベルクにとっては気を遣わなければならない相手のひとりであった。
いや、悪口を言っている相手がすぐ側にいたと気付いて居心地悪そうに視線を逸らすだけ、バーデン伯にはまだ可愛げがあろうか。
問題はもうひとり。
年かさの男の方だ。
「おや、いずこかで乗馬を楽しんでいらした防衛司令官殿がお戻りになったところで、喫緊の課題についてご意見を伺いましょうか」
サラリと嫌味を吐いてから──ヒラリ。
その手には一枚の紙が翻っていた。
先程、その口で怪文書と断じていた手紙を手に、外套を着た男がジロリとシュターレンベルクを睨み据える。
指揮官の靴下に泥の跳ね返りが付いていること、何より身にまとう血の匂いから、あらかたのことは悟った様子だ。
ウィーン市長ヨハン・アンドレアス・フォン・リュベンベルク。
彫りの深い顔立ちは人格者と評されるに相応しい容貌である。
市民の信頼を背に、王宮での存在感も大きい。
ただこの男……シュターレンベルクに言わせると、いささか嫌味っぽくていけない。この嫌味男を、陰では「ジジィ」と呼んでいるのは秘密だ。
喰えない男──印象はその一語につきる。
市民の代表という立場である市長と、軍人の反りが合わないのは、どの都市でも同じであろう。
「防衛司令官殿が我々の知らない間に市壁の外へ出られて、もしも戦闘にでも巻き込まれて怪我でもされては、市内全体の士気にも関わります。グイード殿、あなたもです」
シュターレンベルクの後ろにいて知らぬ顔を決め込んでいた弟分が、さっと顔を俯ける。
返事をしないところをみると、無視を決め込むつもりのようだ。
グイードが声を張り上げた。
音楽をこよなく愛する皇帝レオポルトに、いつだったか声を褒められたことがあるらしい。
以来、公衆の面前でも実に堂々と自慢の喉を披露するようになっていたのだ、この男は。
「や、やめろ……」
シュターレンベルク、両手で耳を塞ぎながら呻く。
壊れた弦楽器と大太鼓を同時に耳元で打ち鳴らされているようだ。
オスマン帝国軍の砲撃と比べてどちらがマシかと問われれば、返答に窮するというのが正直なところ。
いや、グイードの大音量のだみ声に比べれば、敵軍の攻撃など可愛くすら思える時もある。
ああ、この「歌」が向こうにまで届いたなら、敵に対してせめてもの嫌がらせになるだろうに──そう思うと、無念な思いが込み上げる。
「や、やめろ、グイード。市壁にヒビでも入れたら殺すぞ」
「なんと、兄上。はははっ! 硝子を震わせることは出来ようが、さすがのおれも壁にヒビなど……。いや、兄上。それは買いかぶりというものだ」
「………………」
嫌味も通じやしない。
先程、敵の斥候と戦闘を行った話が、そろそろあちらの指揮官の耳に届いた頃合いだろうか。
敵に動きはみえるだろうか。
いや、どちらにしろ問題はない。
堅牢なウィーンの市壁内にこもっている限り、向こうは手出しなんてできやしないのだから。
小屋の撤去は既に手配済みだ。
近くまで行って丁寧に解体する必要はない。
弓矢の届くぎりぎりの距離から火矢を射かけておけば万事完了だ。
今現在、差し迫った問題は──とシュターレンベルクは目の前で声を荒げる二人の人物に視線を送った。
そして、おもむろに溜め息をつく。
「女性がさらわれたのなら、すぐに救出部隊を繰り出すのが当然だろうが」
今のこの街では珍しく白銀巻き毛のカツラを被った、まだ若い男が叫んだ。
「お待ちなさい。救出部隊なと組織する余裕がどこにあると言うのです」
諫めるのは齢五十ほどの貫禄ある男だ。
ゆったりした外套から、武人でないことが伺える。
「それはそうだが。だがな、市長よ。とっととアイツの娘を救い出してやりゃあ、いけすかねぇシュターレンベルクの鼻を明かしてやれる。良い機会じゃねぇか」
「それはそうですが。あなた、あまりにあからさまですよ。そもそもどうして防衛司令官殿のご令嬢がウィーンに残っているのですか。とうに避難されたはずです。真偽も定かでない以上、この手紙は怪文書にすぎません。第一、防衛司令官殿はどこに消えたのですか!」
「それだよ! あの野郎。壁から出てグラシで呑気に馬を駆ってるらしいぜ」
「何ですって!」
怒鳴り合いを、兵士らが遠巻きに見ている。
市民が行き交う往来でなく、兵らの詰所とされている王宮の庭でやり合っているのは、まだ思慮深い行為だといえようか。
「何ですって」のタイミングで、彼らは自分たちの元に近付いて来るウィーン防衛司令官の存在に気付いたらしい。
「あっ……」
カツラの男が小さく声をあげた。
しまったという思いが、表情ににじみ出ている。
優美な白銀のカツラと派手な赤色の上着。
腰には黄金で装飾された剣を帯びている。
いかにも貴族らしい出で立ちの、それでいて若さが先立って思慮が浅そうなこの男。
名をルートヴィヒ・フォン・バーデン伯という。
グイードと同年代でありながら、帝国軍事参謀議長の甥ということもあって、シュターレンベルクにとっては気を遣わなければならない相手のひとりであった。
いや、悪口を言っている相手がすぐ側にいたと気付いて居心地悪そうに視線を逸らすだけ、バーデン伯にはまだ可愛げがあろうか。
問題はもうひとり。
年かさの男の方だ。
「おや、いずこかで乗馬を楽しんでいらした防衛司令官殿がお戻りになったところで、喫緊の課題についてご意見を伺いましょうか」
サラリと嫌味を吐いてから──ヒラリ。
その手には一枚の紙が翻っていた。
先程、その口で怪文書と断じていた手紙を手に、外套を着た男がジロリとシュターレンベルクを睨み据える。
指揮官の靴下に泥の跳ね返りが付いていること、何より身にまとう血の匂いから、あらかたのことは悟った様子だ。
ウィーン市長ヨハン・アンドレアス・フォン・リュベンベルク。
彫りの深い顔立ちは人格者と評されるに相応しい容貌である。
市民の信頼を背に、王宮での存在感も大きい。
ただこの男……シュターレンベルクに言わせると、いささか嫌味っぽくていけない。この嫌味男を、陰では「ジジィ」と呼んでいるのは秘密だ。
喰えない男──印象はその一語につきる。
市民の代表という立場である市長と、軍人の反りが合わないのは、どの都市でも同じであろう。
「防衛司令官殿が我々の知らない間に市壁の外へ出られて、もしも戦闘にでも巻き込まれて怪我でもされては、市内全体の士気にも関わります。グイード殿、あなたもです」
シュターレンベルクの後ろにいて知らぬ顔を決め込んでいた弟分が、さっと顔を俯ける。
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