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第三章
縮まる距離(1)
しおりを挟む「お先に失礼します。お疲れ様でした」
十二月五日。
彩は、昼休憩中の上司と医師たちに挨拶をして医局をあとにした。その手には、青いハンドバッグと重要書類の入ったA4サイズの茶封筒が握られている。
医局秘書課に所属する彩は、医事課やその他の事務職員たちとは違って制服がないから、更衣室に寄って着替える必要もない。今日は院外に出なければならない業務はなく、コートの下は七分袖の白いコットンリネンのブラウスとそれに合う膝下丈の黒いフレアスカートというシンプルな装いだった。
廊下ですれ違った院内薬局の薬剤師と軽い雑談をして、タイムカードに打刻する。職員通用口から外に出ると、冬陽にしては熱のある強い日差しがさんさんと降りそそいでいた。
時刻は十二時二十三分。駅までは徒歩で十五分ほどだから、ゆっくり行っても待ち合わせの時間より少し早く着くだろう。
「あれぇ、彩さん。今日は半休なんだ?」
背後から声をかけてきたのは、数カ月前に医局長に任命された外科の篠田医師三十五歳。クセ毛のようなパーマがかもしだすイマドキの外見に、濃紺のスクラブの上に羽織ったドクターコートの袖を腕の中ほどまでまくるのは、彼の通年定番スタイルだ。
「はい。所用があって、お休みをいただきました」
「ふぅん。彩さんの机の上に、先生たちの勤務希望の紙を置いといたんだけど、気づいたかな」
「来週中には当直と日直を組んで先生にお渡ししますね」
「いつもごめん」
悪いとはこれっぽっちも思っていない、ただの社交辞令だと明白な篠田の軽い口調。それでも彩は、顔色一つ変えずに応える。実をいうと、彩は篠田が苦手だ。彼の軽薄さや聞きたくなくても耳に入ってくる噂、年配の先生に対する敬意のないものの言い方。言葉遣いや口調の荒さが高圧的に感じるし、納得できないと相手をとことん問い詰めて論破してくるところも面倒で扱いづらい。
しかし、彼は育った境遇と経験から、確固たる信念をもって医師の仕事と向き合っている。仕事にストイックで、一切の妥協を許さない。それを間近で見ているから、彩は私情と仕事を切り離して、篠田のいいところに目を向けるよう心がけている。それは篠田に限らず、他の医師に対しても同じだ。
「先生が忙しいのは承知しているので、気になさらないでください。でも、わたしが当直と日直を組んでいることは、絶対に内緒ですよ。事務が勤務を決めていると知ったら、先生たちの不平不満が爆発して収拾つかなくなっちゃいますから」
「分かってるよ。彩さんには世話になってばかりだな。そうだ、御礼に飯でもおごろうか」
「お気持ちだけいただきます」
「俺と二人で飯食うの、嫌なわけ?」
篠田が、片方の口角をあげて笑う。
「先生と二人はちょっと」
「はぁ? どういう意味だ、こら」
おかしそうに笑う彩をどう思ったのか、篠田が「じゃあね。お疲れ様」と笑顔で言い残して、ひらひらと手を振りながら職員通用口に入っていく。その背中を見送って、彩は日傘を広げた。生成りのリネン生地にマリーゴールドがワンポイントで刺繍されたそれは、百貨店で一目惚れして買ったお気に入りだ。
じりじりと地面をこがすような日差しの中、駅前にあるコーヒー専門店を目指す。ヒールの高い靴を好まない彩の足音は、猫の忍び足のように静かだった。
――暑いなぁ。
もう十二月だというのに、晴れた日の昼間は夏と変わらない。途中でたまらずコートを脱ぐ。車通りの多い片側一車線の県道を渡って、駅へ続く小道を歩くこと十五分。彩は待ち合わせ場所のコーヒー専門店に入ると、スマートフォンの画面をタップしてお店のアプリを立ち上げた。炎天下を歩いて乾いた喉を、冷たいコーヒーで潤そうと思ったのだ。
注文カウンターに並ぶ前に一度、店内を見回す。待ち合わせ相手の姿はまだない。新商品のかわいいフラペチーノにマキアート、それからラテも魅力的だったが、結局、シンプルなドリップアイスコーヒーを注文して奥の窓際に座る。
店内は、コーヒー特有の芳香と女性たちの陽気な笑い声に満ちていた。壁に掛けられた有名なイラストレーターの絵が描かれたカレンダーを見ると、今日の日付に赤字でポイント五倍と書かれている。どおりで、平日の昼過ぎにもかかわらず繁盛しているわけだ。
コーヒーのグラスにさしたストローを唇ではさんで、外に目を向ける。大きなガラス張りの窓の向こうには、スーツ姿のサラリーマンや小さな子供を連れた女性たちが闊歩する日常的な光景が一枚絵のように広がっていた。それを眺めながら、冷たいアイスコーヒーを喉に流し込む。
――あぁ、生き返る。
普段は会議や打ち合わせに事務作業、時には医師と別の病院へ行ったり、タイトなスケジュールで埋まっている午後が休みだと気分が一気に開放的になる。二カ月に一度あるかないかの午後半休は、彩にとって貴重なリフレッシュの時間だ。
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