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第三章
縮まる距離(2)
しおりを挟むテーブルに置いていたスマートフォンが、振動してメッセージの受信を知らせる。メッセージアプリをタップすると、待ち合わせの相手からだった。
『今、駅の駐車場に着いた』
彩は、アイスコーヒーのグラスを置いて、末尾に汗をかきながら走る人の絵文字がついたメッセージにスタンプで返事をする。選んだスタンプは、由香や親しい女友達にしか使わない、パステルカラーのモコモコしたかわいいクマ。胸に抱えた大きなハートマークに大きく「OK」と書かれている。送信すると、すぐに既読がついた。
指先でメッセージの履歴をさかのぼる。
仁寿の院外研修が始まってからの主な連絡手段は、このメッセージアプリだ。以前なら業務的な味気ない内容ばかりだったのに、日常の何気ない話だったり今日みたいに会う約束だったり、スクロールする画面にはプライベートなメッセージが並んでいる。
『じゃあ十二月五日、午後一時に駅前のコーヒー店で』
仁寿からのメッセージの所でスクロールを止める。彩の顔が、ふわりと自然な笑顔になった。
彩が勤務する病院は、いわゆる市中の中小規模の病院だ。標榜している診療科は、外科と内科、それから小児科と麻酔科。病床数は一二〇床ほどで、常勤医師は三十人に満たない。一定の基準をクリアして臨床研修施設の認定を受けているのだが、研修医は研修プログラムに沿って、よその病院で必修の診療科をローテートする必要がある。
彩の病院に在籍する一年目の初期臨床研修医三名は、十一月一日からそれぞれ別の病院での研修がスタートしている。仁寿は、一カ月の精神科専門病院での精神科研修を終えて、市内の総合病院のERで研修を始めたばかり。
そういう事情で、彩と仁寿が職場で顔を合わせる機会はなくなってしまった。プライベートでも、合鍵は使わずじまいだったから一度も会っていない。
彩は仁寿との、いわゆる同棲に踏み切れずにいる。
過去を引きずっていてもなにも変わらないと頭では分かっていても、気持ちがまだ過去と決別できなくて、すんなり前を向けない。それに、軽蔑する理由がないと言ってくれたけれど、一点の曇りなく生きてきたであろう彼に対して引け目を感じてしまう。
隣の席の若い男女が、空っぽになったコーヒーカップと笑い声を残して席を立った。
――彩さんが、僕とつき合うにあたって障害だと思っているもの。
仁寿の言葉も胸に引っかかっている。仁寿の実家は、もと士席の藩医という由緒ある家柄だ。細かな話までは定かではないが、廃藩置県以降も代々医師を務めている家系で、両親とも医師だと聞いた覚えがある。過去や気持ち云々の前に、田舎の平凡な一般家庭で育った自分とは、なにもかもが違い過ぎる。軽率に同棲なんかしたら、彼の実家にも迷惑だろう。
――考え方が古いって、笑われるかな。
でも、つき合うのと同棲するのとでは意味が違う、と彩は思っている。年齢を考えても、きっと周りはそういう目で見るはずだし……。
――うじうじしてばかりで、なんか嫌だな。
彩は、腕時計を見てハンドバッグからコンパクトを取り出すと、がらにもなく髪を整えて小鼻や口元をチェックする。それから、コンパクトをバッグにしまって、窓の外を眺めながら残りのアイスコーヒーを飲んだ。
「おまたせ」
聞き覚えのある懐かしい声に、彩の目が声の主に向く。すぐそばに、黒いステンカラーコートを着た仁寿が立っていた。仁寿の顔を見た彩の目が、驚いたように大きくなる。甘いルックスにすらりとした長身。コートの着こなしが様になっていて、はっきりいってかっこいい。しかし、彩が意表をつかれたのは、黒いナイロールのメガネだった。
――先生、メガネなんてかけてたっけ?
「久しぶりだね」
脱いだコートをイスの背もたれに掛けて、仁寿が向かいの席に座る。
「彩さん、元気だった?」
仁寿が何事もないように尋ねるので、彩はメガネを気にしつつもそれには触れずに答える。
「はい、元気にしていましたよ。先生も変わりないですか?」
「うん。見てのとおり、すこぶる元気」
「なによりです。えっと、先生から頼まれていた医師免許証のコピーと、これ……、保健所に提出する書類を持ってきました。医師免許証は縮小してますけど、問題はないのでこのままあちらの秘書さんに渡してください。他の書類も確認していただいていいですか?」
「ああ……、うん」
彩が、封筒から書類を出してテーブルに置く。仁寿がそれを手に取って、書類には目もくれずに彩の顔を覗き込んだ。メガネのレンズ越しに、つぶらな目がじっとこちらを見ている。
「どうかしました?」
「やっと会えたのに、彩さんが完全に仕事モードだ」
「そんなことないですよ」
「温度差を感じる」
ぼそりとつぶやいた仁寿が、うなじをかいてがっくりとうなだれる。
「わたし、先生に会えるのを楽しみにしていました」
嘘じゃない。先日メッセージアプリで会う約束をした時も、今日医局を出る時も、気分が高揚して晴れやかな気持ちだった。
「本当?」
ぱあっと光が差すように、仁寿の表情が明るさを取り戻す。
「彩さん、今日は午後から休みだって言ってたよね。予定があるの?」
「出張の準備をしようと思って、半休にしてもらったんです。予定らしい予定はなにも」
「じゃあ、とりあえずその書類を持って僕の家に帰ろう。あとで彩さんの家まで送るよ」
「え……、でも」
「実は僕、当直明けなんだ。仮眠をとる暇がなかったから、ちょっと限界かも。書類の確認は、少し寝てからでもいい?」
「あ、先生は当直明けでしたね。ごめんなさい、気が利かなくて」
「ううん、気にしないで」
行こう、と仁寿がコートを羽織って席を立つ。彩は、書類を封筒にしまってコートに袖を通すと、ハンドバッグと日傘をつかんで仁寿のあとを追った。
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