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第三章
縮まる距離(3)
しおりを挟む店を出たところで、仁寿が彩の持っている封筒とハンドバッグを取って、空っぽになった彩の手を握る。動作があまりにも自然すぎて、手をひっこめる暇もない。彩が仁寿の顔を見あげると、ぎゅっと強い力で握られた。
狭い道幅の路地を通って、駅の真裏にある立体駐車場へ向かう。外は、相変わらずじりじりとした日差しに照らされていた。でも、手を介して伝わる仁寿の温度は快適で、嫌味も痛みもなくそっと体にしみ込んでくる。
「救急は、やっぱり大変ですか? ほら、前に性格が救急向きじゃないって言っていたでしょう?」
「それがね、意外とやれるのかもしれない。面白いよ、すごくハードだけどね。先生たちみんな親切だし、看護師さんも専門性が高くていろいろアドバイスしてくれる。思い込みを捨てると、可能性が広がるよね」
「いい研修ができているみたいですね」
「うん。総合病院の救急を選んでよかった」
立体駐車場前の歩行者用信号が赤に変わって、二人は大きな街路樹の下に立ち止まった。冬なのに落葉せずに生い茂った葉が、二人にそそぐ陽光を遮る。仁寿の前向きな考え方がうらやましくもあり、自分もそうなりたいと彩は思う。仁寿の横顔は、彩を勇気づけるように輝いて見える。
「出張、楽しみだなぁ」
仁寿が、遠くを見ながら独り言のように言う。
諸事情により、仁寿は同期の竹内の名代として急遽、彩と出張することになったのだ。
「彩さんと二人で出張に行けるなんて、酔っぱらって足を骨折した竹内に感謝しないとね」
「感謝だなんて。竹内先生が心配じゃないんですか? あんなに仲がいいのに」
「仲がいいからこそ、男に心配されても竹内は喜ばないと思う」
「……まぁ、そうかもしれませんね」
「でしょ? それに、レントゲン見せてもらったけど、転位もないし本人もケロッとしてたから大丈夫」
「それならいいですけど」
「ねぇ、彩さん。出張って、夜は自由だよね?」
「ええ、そうです」
「そっか」
「公私混同はだめですよ。仕事ですからね」
「はい、分かってます」
「絶対分かってない」
彩が疑うように目を細める。仁寿がそれを笑ってかわすと、タイミングを見計らったように信号が青に変わった。駐車場から仁寿のマンションまで、裏道を通れば十分もかからない。
「じゃあ、僕はシャワーを浴びてくるから、彩さんはリビングで待ってて」
玄関で靴を脱ぐと、仁寿はそれだけ言い残してさっさとバスルームに行ってしまった。車の中で、体がベタベタして気持ちが悪いと言っていたから、彩は特に気にとめずリビングに行く。
そして、リビングに入って瞠目した。ダイニングテーブルの上には何冊もの本が散乱して、ソファーの前にあるテーブルにも雑誌が広げられたままになっていたからだ。
「わぁ……、これはすごい」
内科と違って救急はとにかくハードだと、別の研修医からも聞いている。仁寿が仮眠をとる暇がなかったと言っていたのを思い出しながら、彩はテーブルに広げられている薄っぺらな雑誌に手を伸ばす。それはどこの医局にも必ずある、有名なイギリスの医学雑誌だ。幅数ミリの天と前小口に、朱色で病院名が押印されている。どうやら、総合病院の図書室から借りてきたらしい。
開いてあるページを閉じないようにテーブルの隅に雑誌を寄せて、次はダイニングテーブルに散乱した本をそろえて積み重ねた。キッチンはきれいに片づいていたから、ソファーに腰かけて仁寿を待つ。しばらくすると、すっきりとした表情の仁寿が、左手に掛布団を右手にコミック数冊を持って颯爽とリビングにあらわれた。
「本を片づけてくれたんだね。ありがとう、彩さん」
リビングを見回した仁寿が、彩に笑顔を向ける。メガネのせいで、笑顔の好感度がいつもより増している気がする。
「毎日、忙しそうですね」
「忙しいのかな……。なんか時間が足りない。僕の要領が悪いのかもしれないね」
はい、と仁寿に渡されたコミックを自然な流れで受けとって、彩がソファーの端に寄る。すると、仁寿がメガネをテーブルに置いてソファーの上に寝転んだ。ソファーの幅は仁寿の背丈に足りないから、必然的に彩の太腿が枕になる。
「な、なにしてるんですか?」
「お昼寝」
太腿に乗った仁寿の頭部を驚いた顔で凝視する彩にかまわず、仁寿がクッションを器用に使って首が痛くならないように体勢を整える。それから仁寿は、長身の体を丸めて肩まで掛布団をかぶった。
なにもわたしを枕にしなくても。寝心地だってよくないのでは。そんな言葉が浮かんで、でも、と彩は口をつぐむ。朝から普通に仕事をしてそのまま当直に入るのだから、疲れているだろうし、今はいろいろ言わないほうがいいと思ったからだ。
「彩さんの顔を見たら、ほっとした」
太腿に頬をすりすりして仁寿が目を閉じる。はふ、と大きなあくびをして、仁寿はそのまま寝入ってしまった。ほのかに香るラベンダーは、先生の匂い。アロマみたいで癒される。
寝顔をまじまじと見てみると、かわいいと思っていた顔は鼻筋とかあごとかの骨格がしっかりしていて、しっかり大人の色気みたいなものがある。
ぴんと伸ばした背筋をソファーの背もたれに預けて、仁寿の頭が動かないようにもぞもぞと小さな動きでお尻の位置を調整する。それから仁寿が持ってきたコミックに手を伸ばした。それは十数年前、女子中高校生の間で大流行してアニメにもなった少女マンガだった。当時に買ったのだろうか。年季の入った黄ばんだ紙が年月を物語っている。
――なつかしい!
ぱらりと一巻の表紙をめくって、内心で歓喜の叫び声をあげる。中学生のころ、このマンガが大好きだった。友達と回し読みして、みんなで主人公とその彼氏の恋愛に一喜一憂したり憧れたり。とても楽しかった。
そうそう、ここで彼氏がかっこいいこと言ってきゅんとするのよ! ここ感動的なんだよね!
当時にタイムスリップしたかのように心の中で大はしゃぎして、泣きそうな顔をしたりニヤニヤしたりを繰り返す。読み進めてはページを戻り、彩は時間を贅沢に使ってマンガの世界を堪能する。
すっかり夢中になって、はっと腕時計を見ると一時間近くたっていた。仁寿が起きる気配はない。
「藤崎君」
彼が医学生だったころ、彩は仁寿をそう呼んだ。
「どうして、わたしなんかを好きなのよ」
虫の羽音のようにかすかな声で言って、彩の指先が仁寿の首筋に触れる。すると、もぞもぞと掛布団が動いて手首をつかまれた。
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