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第二章
何気ない日常こそ幸せ(2)
しおりを挟む「彩さん、食べよ」
「はい」
ダイニングテーブルで向かい合って、いただきますと声を揃える。食べやすいように四つ切にされたトーストにいろどりがきれいな野菜のサラダ。あまりパンは好きじゃないけれど、食欲をそそられる。
「先生は寝起きが弱いんですね。当直の時、どうしてるんですか?」
「そうなんだよ。目が覚めるまでがね……。当直の時は、当直室のベッドは使わないようにしてる。寝入っちゃうとコールされてもすぐに頭が働かないから、医局のソファーで座って目を閉じるだけ」
「それだと体が疲れませんか?」
「最初はね。でも、もうすっかり慣れた」
「慣れるものなんだ……。今日の当直は鈴木先生でしたっけ。先生は初めてですよね、鈴木先生と当直に入るの」
「うん」
「鈴木先生は引きが強いから、眠れない夜になるかもしれませんね」
「鈴木先生って本当にすごいらしいね。この前は竹内が、CPAの救急搬入と病棟の急変が立て続けにあって、どうにかなりそうだったって言ってた。あのタフな竹内がだよ?」
「わたしも竹内先生からお聞きしました。鈴木先生は、あれくらいの忙しさと緊張感がちょうどいいって笑ってましたけど」
「さすが、もともと救急やってた先生だけあるよね。今夜も忙しい夜になるといいな」
「先生は救急に興味があるんですか?」
「んー。興味はあるけど、性格的には救急向きじゃないと思う。ただ、経験ってすごく重要だからさ」
「なるほど」
フォークに刺した生野菜を頬張りながら納得したように相槌を打つ彩に、仁寿がにこやかにほほえみかける。
「ああ。いいなぁ、こういうの」
「なにがですか?」
「何気ない日常こそ幸せ。彩さんと話していると、そのとおりだなって実感する」
奥歯で噛んだトマトの果汁が、フルーツみたいに甘く口に広がる。仁寿の言葉がくすぐったくて、彩の顔がほんのり朱に染まった。
「あ、そうだ彩さん。忘れないうちに、鍵を渡しておくね」
「は、はい。すみません」
仁寿が「ごちそうさま」と言って席を立つ。そして、空いた食器をキッチンにさげて、ダイニングテーブルに二種類の鍵を置いた。エントランスと玄関の鍵だ。
「それは彩さんのだから、返さなくていいよ」
「わたしの……?」
食べかけのパンをコーヒーと一緒に飲み込んで、彩は仁寿の顔を見あげた。仁寿が、どうしたの? というように少し目を大きくする。
「わたしがここに住んだら、先生の邪魔になりませんか?」
「どうして邪魔になると思うの?」
「だって、院外研修が始まったら大変でしょう?」
「大変だろうけど、彩さんが邪魔になるなんてことはないよ。そもそも、邪魔なら一緒に住もうとは言わない」
「あの、先生」
「ん?」
「もうすぐ調査の時期が来たり医大の訪問があったり、これから仕事が忙しくなります。わたしは、たくさんの物事を同時にこなせるほど器用ではなくて。それに……」
恋愛するのが怖い。その一言はぐっとこらえて喉の奥に閉じ込める。
「いろいろ時間がかかってしまうかもしれません。それでもいいですか?」
彩は、すみませんと謝ってバツが悪そうに顔を伏せた。
「彩さん」
仁寿が、目線を合わせるように床にしゃがんで彩の顔を覗き込む。
「僕は、彩さんを所有したいわけじゃないよ」
「……はい」
「今みたいに、彩さんの気持ちとか思っていることとか、なんでも話してくれると嬉しいな。僕は、彩さんをもっと知りたいし理解したい」
まっすぐで優しい仁寿のまなざしに、彩は目をそらせなくなった。
先生の言葉には、からからに乾いた砂に染みる水のようにじわりと心を潤す不思議な力がある。過去にとらわれたまま怖がってばかりでは、きっとなにも変わらない。先生なら信じても大丈夫なのかも……。
彩が、仁寿の目を見つめて小さく頷く。同時に、仁寿の顔がくしゃりとほころんだ。
「よし、僕は病棟の採血に行ってくる」
「やる気がみなぎっていますね、先生」
「でしょ? 今朝は彩さんの声で目が覚めたから、明日の昼まで溌溂と頑張れるよ。目覚まし時計の電子音とは大違いだ」
「当直明けは無理せず、ちゃんとお昼で帰ってくださいね」
「うん、分かった」
「シャツは後ろ前だけど素敵ですよ、頑張る研修医」
「え?」
目を丸くして立ちあがった仁寿が、自分のティーシャツを引っ張って愕然とする。
「ほんとだ。まさか彩さん、起きた時から気づいてたの? 経験って重要だとか真顔で語ったの、全部台無し! 恥ずかしいなぁ、もう」
朝六時四十分。
遮光カーテンを開けたリビングに、オレンジ色をした盛秋の朝日が差し込む。重たいリュックサックを背負った仁寿を見送ったあと、彩は二人分の食器を洗って仁寿の服を干した。
身だしなみ程度の軽いメイクと着替えを済ませて、仁寿のマンションを出る。十分ちょっとの距離を歩いてアパートに戻ると、いつも出勤する時間になっていた。荷物の中から洗濯物だけを取り出して、ささっと干す。そして、検査の予約票と診察券、保険証をファイルに挟むと、彩は急いで職場へ向かった。
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