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029 初恋の香り
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大広間の灯は落とされ、外では夜風に揺れる提灯が遠くの笑い声を運んでくる。
だが宮殿の奥、執務室にひとり残るノアは、その賑わいから切り離された場所にいた。
机に広げられた文書へ視線を落としながらも、指先は紙に触れるたびにわずかに震える。
(……なんだこの感覚は)
不意に頭痛に襲われる。
いつかの記憶が頭の中にぼんやり浮かんでは消えるーー。
それはまるで封じられているかのような感覚だ。
自分の意志ではなく、細やかな花弁の香りが、記憶の底を叩いている。
これはーー庭園のライラックの香り。
ーーそして突然、柔らかな光景が頭の中に広がった。
記憶の中の少女は緊張でこわばりながら、ぎこちなく庭園を歩いていた。
春の風に揺れる白い裾。小鳥の声を追うようにふと立ち止まったとき、枝先の薄紫の花に目を留めた。
「これは……?」
問いかけられた自分は、とっさに言葉を返した。
「君のために植えたんだ」
それだけで済ませればよかった。
だが、花を指先で撫でる少女の横顔を見て、口が勝手に続けてしまった。
「……花言葉は、初恋なんだって」
恥ずかしくて身体中の血液が一気に顔に集まった気がした。
「初恋……」
風に流れるようなその声は、ただ花を愛でる少女の無垢な響きだったのに、自分の胸には強く焼き付いた。
――その記憶が、今、蘇っている。
(なんだこれは…彼女は一体…まさか…皇后なのか…?)
失われたはずのものが、ひとつの香りで揺り戻される。
額に手を当て、ノアは小さく息を吐いた。
脳裏に焼きついたのは、ライラックの淡い香りと”初恋”という花言葉。
美しい少女の無垢な声。
机に広げた文書は、もう何も頭に入らなかった。
ふと、気づけば視線は扉の方へ向いている。
(……なぜ、来るはずもないのに)
ルシェルが来るのを待っている自分に気づき、ノアはかすかに笑った。
彼女は自ら近づいてくるような人ではない。
皇后としての立場を守り、常に一歩引いている。
だが、果たして彼女は元からそういう人だったのだろうかーー?
(いや…今見た記憶はきっと幻だ)
そう言い聞かせるほどに、胸のざわめきは大きくなっていく。
「くだらん」と小さく吐き捨てた。
夜が明けても、ノアはほとんど眠れなかった。
机に突っ伏したまま、瞼を閉じてもライラックの花影が消えない。
あの声も、あの香りも、何度追い払おうとしても蘇ってくる。
ノアは、あの夜から自分の内側にできた小さな亀裂を、どう折り合いをつけるべきか分からずにいた。
記憶が完全に戻ったわけではない。
断片が断続的に、まるで潮の満ち引きのように押し寄せるだけだ。
しかしその断片は、確かな熱を伴って彼の身体に伝わる。
ライラックの香り。少女のはにかんだ笑み。
囁きめいた”初恋”という言葉――それらは、彼の硬い鎧をじわじわと溶かし始めていた。
***
光華祭が幕を閉じてから数日、宮廷の空気はいつもより柔らかい熱を帯びていた。
大広間に飾られていた花々はすでに片付けられたはずなのに、床や壁の隅々からまだ祭の匂いが残っているように感じられる。
光華祭の後も、各国の使節団はしばらく宮廷に滞在していた。国王が彼らを正式に歓待し、次の条約や交流を取り決めるためである。
その日常は、ルシェルにとっても新鮮なものであった。
ルクレルは、毎朝のように武具を手入れしては、訓練場で兵士たちを相手に模擬戦を挑んでいた。
「皇后陛下、いかがです! そちらの兵どもも骨はありますが、まだまだ鍛え甲斐がありますな!」
汗を拭いながら豪快に笑う姿は、まるで大地そのもののように頼もしい。
ルシェルはその勢いに少々圧倒されながらも、ヴェルディアの騎士たちが彼から多くを学んでいるのを嬉しく見守った。
彼の豪放な性格は外交の潤滑油となり、夜ごとに酒を酌み交わしては互いの忠誠と悩みを分かち合った。
藍がルシェルのもとを訪れる回数は、いつのまにか日常の一部になっていた。
午前の書翰読み、午後の来客応対の合間──藍は必ず、静かに茶を差し出し、さりげない話題を投げる。
「今回は私が調合した茶葉で紅茶を入れてみました。お口に合うといいのですが」
「ありがとう、丁香様。とても美味しいわ。なんだか体の中から暖かくなる紅茶ね」
「ええ、血液の巡りをよくする効果があるものです。体を芯から温めることは健康に良いですからね」
「そういえば、今回の光華祭でのあなたの舞は本当に素敵だったわ。商売の方もうまくいったのかしら?」
「光栄ですが、なんだか…恥ずかしいですね…。ええ、今回ヴェルディアの貴族から多くから仕入れの申し出を受けました」
「そう、それは良かったわ。実は、宮殿内でも茶葉の仕入れをお願いしたいの。陛下にお話ししてみるつもりよ。これまでは私が個人的に仕入れていたものだから、これからは宮殿全体でこの茶葉を出せたらと思っているの」
「それはとてもありがたいお話しです。陛下のお許しが出ると良いのですが…」
「璃州国の茶葉は一級品だもの。きっと問題ないはずよ」
ルシェルと藍が話に花を咲かせていると、エミリアがルシェルにそっと声をかける。
「皇后陛下、アンダルシアの王子殿下がお見えになっております」
藍の顔が一気に引き攣る。
「…では、ルシェル様、私はこれで失礼しますね…」
「ええ、あなたにきちんと謝罪を受けたこと、王子殿下に話しておくから安心してちょうだい」
「ありがとうございます」
藍が部屋を出ると、ゼノンが部屋の外で訝しげな顔をしていた。
「これは、藍様…皇后陛下に何かようでも?」
「ええ、少しお話をしていただけです…。では、私はこれで…」
藍は逃げるようにその場を後にした。
ゼノンは、去っていく藍の背をしばらく見つめた。
「彼は……よく訪れているようですね」
低く抑えた声で問われ、ルシェルは微笑んで応じる。
「ええ、藍様はとても聡明で、気遣いのできる方です。お茶に詳しくて、いつも珍しいものを淹れてくださるのですよ」
「そうですか…」
「ゼノン様が…藍様に謝罪をするようにと言ってくださったそうですね…」
「…はい。差し出がましいことをしてしまい、申し訳ありません…」
ゼノンは少し反省したように言う。
「いいえ、嬉しかったです。ありがとうございます」
ゼノンは驚いた様子でルシェルを見て、微笑んだ。
「ところで…彼とはどんなお話を?」
「そうですね…ただ一緒にお茶を飲んでいただけなので…特に話というのはないですよ」
「そうなのですね」
「ええ。ところで、ゼノン様は何かご用ですか?」
ルシェルが不思議そうに見つめる。
「私は用がないとルシェル様のところに来てはいけないのでしょうか…?」
「いえ…そういう意味では…」
「…すいません!今のは…忘れて下さい…」
ゼノンは恥ずかしそうにして下を向いた。
(まるで、子供みたいね…)
ルシェルはゼノンの様子を微笑ましく見ていた。
だが宮殿の奥、執務室にひとり残るノアは、その賑わいから切り離された場所にいた。
机に広げられた文書へ視線を落としながらも、指先は紙に触れるたびにわずかに震える。
(……なんだこの感覚は)
不意に頭痛に襲われる。
いつかの記憶が頭の中にぼんやり浮かんでは消えるーー。
それはまるで封じられているかのような感覚だ。
自分の意志ではなく、細やかな花弁の香りが、記憶の底を叩いている。
これはーー庭園のライラックの香り。
ーーそして突然、柔らかな光景が頭の中に広がった。
記憶の中の少女は緊張でこわばりながら、ぎこちなく庭園を歩いていた。
春の風に揺れる白い裾。小鳥の声を追うようにふと立ち止まったとき、枝先の薄紫の花に目を留めた。
「これは……?」
問いかけられた自分は、とっさに言葉を返した。
「君のために植えたんだ」
それだけで済ませればよかった。
だが、花を指先で撫でる少女の横顔を見て、口が勝手に続けてしまった。
「……花言葉は、初恋なんだって」
恥ずかしくて身体中の血液が一気に顔に集まった気がした。
「初恋……」
風に流れるようなその声は、ただ花を愛でる少女の無垢な響きだったのに、自分の胸には強く焼き付いた。
――その記憶が、今、蘇っている。
(なんだこれは…彼女は一体…まさか…皇后なのか…?)
失われたはずのものが、ひとつの香りで揺り戻される。
額に手を当て、ノアは小さく息を吐いた。
脳裏に焼きついたのは、ライラックの淡い香りと”初恋”という花言葉。
美しい少女の無垢な声。
机に広げた文書は、もう何も頭に入らなかった。
ふと、気づけば視線は扉の方へ向いている。
(……なぜ、来るはずもないのに)
ルシェルが来るのを待っている自分に気づき、ノアはかすかに笑った。
彼女は自ら近づいてくるような人ではない。
皇后としての立場を守り、常に一歩引いている。
だが、果たして彼女は元からそういう人だったのだろうかーー?
(いや…今見た記憶はきっと幻だ)
そう言い聞かせるほどに、胸のざわめきは大きくなっていく。
「くだらん」と小さく吐き捨てた。
夜が明けても、ノアはほとんど眠れなかった。
机に突っ伏したまま、瞼を閉じてもライラックの花影が消えない。
あの声も、あの香りも、何度追い払おうとしても蘇ってくる。
ノアは、あの夜から自分の内側にできた小さな亀裂を、どう折り合いをつけるべきか分からずにいた。
記憶が完全に戻ったわけではない。
断片が断続的に、まるで潮の満ち引きのように押し寄せるだけだ。
しかしその断片は、確かな熱を伴って彼の身体に伝わる。
ライラックの香り。少女のはにかんだ笑み。
囁きめいた”初恋”という言葉――それらは、彼の硬い鎧をじわじわと溶かし始めていた。
***
光華祭が幕を閉じてから数日、宮廷の空気はいつもより柔らかい熱を帯びていた。
大広間に飾られていた花々はすでに片付けられたはずなのに、床や壁の隅々からまだ祭の匂いが残っているように感じられる。
光華祭の後も、各国の使節団はしばらく宮廷に滞在していた。国王が彼らを正式に歓待し、次の条約や交流を取り決めるためである。
その日常は、ルシェルにとっても新鮮なものであった。
ルクレルは、毎朝のように武具を手入れしては、訓練場で兵士たちを相手に模擬戦を挑んでいた。
「皇后陛下、いかがです! そちらの兵どもも骨はありますが、まだまだ鍛え甲斐がありますな!」
汗を拭いながら豪快に笑う姿は、まるで大地そのもののように頼もしい。
ルシェルはその勢いに少々圧倒されながらも、ヴェルディアの騎士たちが彼から多くを学んでいるのを嬉しく見守った。
彼の豪放な性格は外交の潤滑油となり、夜ごとに酒を酌み交わしては互いの忠誠と悩みを分かち合った。
藍がルシェルのもとを訪れる回数は、いつのまにか日常の一部になっていた。
午前の書翰読み、午後の来客応対の合間──藍は必ず、静かに茶を差し出し、さりげない話題を投げる。
「今回は私が調合した茶葉で紅茶を入れてみました。お口に合うといいのですが」
「ありがとう、丁香様。とても美味しいわ。なんだか体の中から暖かくなる紅茶ね」
「ええ、血液の巡りをよくする効果があるものです。体を芯から温めることは健康に良いですからね」
「そういえば、今回の光華祭でのあなたの舞は本当に素敵だったわ。商売の方もうまくいったのかしら?」
「光栄ですが、なんだか…恥ずかしいですね…。ええ、今回ヴェルディアの貴族から多くから仕入れの申し出を受けました」
「そう、それは良かったわ。実は、宮殿内でも茶葉の仕入れをお願いしたいの。陛下にお話ししてみるつもりよ。これまでは私が個人的に仕入れていたものだから、これからは宮殿全体でこの茶葉を出せたらと思っているの」
「それはとてもありがたいお話しです。陛下のお許しが出ると良いのですが…」
「璃州国の茶葉は一級品だもの。きっと問題ないはずよ」
ルシェルと藍が話に花を咲かせていると、エミリアがルシェルにそっと声をかける。
「皇后陛下、アンダルシアの王子殿下がお見えになっております」
藍の顔が一気に引き攣る。
「…では、ルシェル様、私はこれで失礼しますね…」
「ええ、あなたにきちんと謝罪を受けたこと、王子殿下に話しておくから安心してちょうだい」
「ありがとうございます」
藍が部屋を出ると、ゼノンが部屋の外で訝しげな顔をしていた。
「これは、藍様…皇后陛下に何かようでも?」
「ええ、少しお話をしていただけです…。では、私はこれで…」
藍は逃げるようにその場を後にした。
ゼノンは、去っていく藍の背をしばらく見つめた。
「彼は……よく訪れているようですね」
低く抑えた声で問われ、ルシェルは微笑んで応じる。
「ええ、藍様はとても聡明で、気遣いのできる方です。お茶に詳しくて、いつも珍しいものを淹れてくださるのですよ」
「そうですか…」
「ゼノン様が…藍様に謝罪をするようにと言ってくださったそうですね…」
「…はい。差し出がましいことをしてしまい、申し訳ありません…」
ゼノンは少し反省したように言う。
「いいえ、嬉しかったです。ありがとうございます」
ゼノンは驚いた様子でルシェルを見て、微笑んだ。
「ところで…彼とはどんなお話を?」
「そうですね…ただ一緒にお茶を飲んでいただけなので…特に話というのはないですよ」
「そうなのですね」
「ええ。ところで、ゼノン様は何かご用ですか?」
ルシェルが不思議そうに見つめる。
「私は用がないとルシェル様のところに来てはいけないのでしょうか…?」
「いえ…そういう意味では…」
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