私たちの離婚幸福論

桔梗

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036 別れの挨拶

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ーー春の風がまだ冷たさを残す夕刻。



庭園のライラックの花が咲き誇る小径に、ルシェルの姿があった。

夕刻の空は淡く朱に染まり、ライラックの花々が淡い香りを漂わせていた。



数日のあいだ、ルシェルは意図的にゼノンを避けていた。



ノアとの関係を立て直すと決めた以上、ゼノンに心を傾けることは許されない。

だが、避けることでかえってゼノンの存在が濃くなっている気がした。



彼の言葉や視線が思い出され、胸の奥で静かに疼き続けていた。



「……ルシェル様」



背後から呼びかける声に、ルシェルは思わず足を止めた。



振り返ると、ゼノンが立っている。



(本当に綺麗な瞳。あぁ、なんだか出会ったばかりの頃にもこんなことがよくあったわね……)



いつもと同じ整った所作、けれど瞳の奥に消えない揺らぎを宿していた。



「……ゼノン様」



声音は自然を装ったが、ほんの僅かに硬さが混じる。



二人の間に、風が白い花弁を舞い落とす。

沈黙が数呼吸続き、先に口を開いたのはゼノンだった。



「皇帝陛下がお倒れになって以来……あまりお話しできませんでしたね」



「……ええ」



ゼノンはその微妙な距離を感じ取った。



「皇帝陛下のお加減はいかがですか?」



「まだ本調子ではありませんが……快方に向かっています」



「……そうですか」と短い応答。



安堵の色が浮かぶが、その影には抑えきれぬ痛みもある。



ルシェルは気づいていた。

彼の沈黙の奥に、言葉にならない感情が渦巻いていることを。

けれど、自ら踏み込むことはできない。



「……ゼノン様」



ためらいながらも、彼女は言葉を探す。



「あなたにはいつも感謝しています…本当に…心から」



「礼など……」



ゼノンの声は低く、けれど静かに震えていた。



「私は、あなたが幸せでいられるのなら……それでいいのです」



ルシェルの胸が微かに軋んだ。

だが彼女は視線を逸らさず、むしろ真っ直ぐに彼を見た。



「……ゼノン様、私はノアを…皇帝陛下を…これからも支えていきます」



その一言は、やさしくも冷たい刃のようだった。



ゼノンは目を伏せ、拳を握りしめる。



「……そうですか」



ゼノンは引き攣った笑顔を見せた。

その笑顔がとても痛々しく見えて、ルシェルも苦しくなった。



「私は……まもなく国に戻ろうと思います」



心臓が跳ねる音が、自分の耳にまで響いた。



引き止めたい――けれど、ルシェルの口から出たのはわずかな息だけだった。



「……そう…ですか。きっと…寂しくなりますね」



風が再び吹き抜け、庭園に咲き誇る花の花弁が二人の間を舞った。



ほんの少しの沈黙が、永遠の隔たりのように広がっていく。

ルシェルは胸の奥に刺さった痛みを抱えたまま、ゆっくりと頭を下げた。



「…どうか、これからもお身体にお気をつけて…」



その言葉に、ゼノンはわずかに顔を上げ、唇に寂しげな笑みを刻む。



「……ええ、ありがとうございます」



だがその『ありがとう』という言葉が、別れを意味する言葉であることをルシェルは痛いほど分かってしまった。



ーーゼノンが客殿に戻っていく後ろ姿を見送り、ルシェルは庭園にひとり佇んでいた。



つい先ほどまで、ここでゼノンと向かい合っていた。

彼は国へ帰ってしまうーー引き止める言葉が喉まで来て、なんとか堪えた。



花弁が、一人佇むルシェルの頬をひとひらとかすめていく。



いくら待っても、もう足音は戻ってこない。



これからはもう彼と庭園で会うことはない。

あの瞳を見ることもーーあの声を聞くこともーー。



やがて冷えが衣に沁みはじめ、ルシェルは静かに歩を返した。



***



ルシェルはその夜、なかなか寝付けずにいた。

エミリアが用意したハーブティーを飲み、しばらく天蓋越しに灯が揺れるのを眺めていたが、やがてゆっくりと眠りについた。



ーー美しい花々が咲き誇ってる。



神殿のような場所に、光り輝く銀色の蝶たちが舞っている。

そして、目の前にひざまずく騎士の影がひとつ——顔は見えない。

ただ、低く澄んだ声だけが胸に刺さる。



《この花は…あなたの瞳の色と同じですね》

《…あなたはこの花よりもずっと美しいです》

《…私はこれからもあなたのおそばにいます》



顔は相変わらず霞んで見えない。

けれど、その言葉は甘く、そして切なかった。

胸の奥に懐かしい痛みが広がり、ルシェルは夢の中で涙を堪えた。



ーー翌朝。



(また同じ夢だわ…でも前に見た時よりなんだかもっとはっきりしていたような…)



途切れ途切れに場面が見えたが、どの場面でも騎士らしき男の顔はどこか靄がかかって見えなかった。

だが夢の中の彼を見ていると、ゼノンと話している時のような…温かな気持ちになったことだけはわかった。
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