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037 別れの挨拶
ーー璃州国の使節団が滞在している客殿では、璃州の使節が荷駄をまとめていた。
藍は最後の箱を閉じ、ルシェルの前で深く頭を垂れた。
「ルシェル様ーーこちらまできていただかなくても、私が出向きましたのに……」
藍がソワソワと落ち着かない様子でルシェルに言う。
「あなたは帰国の準備で忙しいでしょう?それに、丁香様にお話があって来たのです」
ルシェルは藍に優しく微笑む。
「お話ですか?」
「ええ。実は、以前から私の父ーーアストレア公爵に、貴国との交易の際に支援してもらえるように話していたのだけれど、無事に許可が降りたのです。陛下からもすでに、交易の許可はいただいています。皇室を通せば政治色が濃くなりますが、アストレア公爵家を介せば“商業取引”として進められるから、璃州国にとっても、より柔軟な交渉ができるはずです」
ルシェルは少し言葉を区切り、声を落とす。
「こちらからは、ヴェルディアで産出される鉄や銀を。貴国からは茶葉や絹を。この交易が、お互いの不足を補い、長く続く信頼の礎になると考えています。……丁香様、私はあなたを“対等な取引相手”と見ています。どうでしょうか?」
藍は静かに瞳を細め、沈黙ののちに口を開いた。
「……なるほど。皇室ではなく、公爵家を通す……ですか。それなら確かに、璃州国内での反発は抑えられそうです。皇室の権威を背にした取引は、時に“従属”の証と映ってしまうことがありますから…」
藍が少し気まずそうに話す。
アストレア家はこれまで、外交においても”宮廷の橋渡し役”として機能してきた。
皇室を通すよりも、公爵家を介した方が商業的な取引として扱いやすく、国同士のしがらみも少ない。
その強みを今回も発揮する形となったのだ。
「最高のお話です!ありがとうございます、ルシェル様」
「気に入ってもらえてよかった。そんなに畏まらないでちょうだい。私と丁香様の仲でしょう?」
「ええ、その通りですね」
二人は見つめ合い微笑みあった。
「短い滞在でしたが、ルシェル様と友人になれたことは、私の生涯の誇りです」
「そんな大袈裟ですよ。こちらこそ、丁香様と友人でいられて光栄です」
ルシェルは微笑み、彼女の手を取った。
「今度は、あなたの国に行きたいわ。その時は是非案内してくださいね?」
「ええ、必ず」
そういうと、藍は袖の内から小さな箱を差し出す。
「これは、璃州の職人が作った翡翠の簪です。友情の証にどうか受け取ってください」
「こんなに素敵なものを……いいの?」
「もちろんです。一般的に翡翠は緑色が主なのですが、こちらの簪はラベンダー翡翠と言って、ルシェル様の瞳の色と同じもので作らせた特別なものなのです。なので、これはあなたにしか似合いません」
そう言って藍は無邪気に微笑む。
「本当に素敵だわ、ありがとう。とても嬉しい」
簪を胸に抱き、ルシェルは息を整える。
「私からも、あなたに贈り物があるの」
ルシェルはそっと銀糸の刺繍がはいったハンカチをてわたした。
「私が針を通した物です。実は、宮殿内の庭園に銀色の美しい蝶がよく現れるのですが……その蝶はなぜかいつも私を見守ってくれているようなーー不思議な蝶なんです。私は何度も何度も、その蝶に救われて来ました。なので、あなたのそばにもいつも私がいるということを伝えたくてーー」
言葉に重さが乗らないように、声をやわらげる。
「まるで、アンダルシアに伝わる伝承の蝶のようですね…」
「…ええ、そうね」
「…あ、いえ…失言でした。決して変な意味ではなく…!その…申し訳ありません…」
藍は宴での失言を再びしてしまったと思ったようだ。
ルシェルはクスッと笑い、「いいのよ。もう気にしないでちょうだい」と言った。
「……ありがとうございます。一生大切にします」
藍はほっとしたように、感謝を伝えた。
「道中、どうか無事で。手紙を書きますね」
「ええ。私もルシェル様に手紙を書きます」
藍は目を伏せ、そっとルシェルの手を取りささやいた。
「月の光が、いつもあなたを照らし、永遠の幸福をもたらしますように」
ルシェルは微かな頷きで返した。
***
ーー春の風がまだ冷たさを残す夕刻。
庭園のライラックの花が咲き誇る木陰に、ルシェルの姿があった。
夕刻の空は淡く朱に染まり、ライラックの花々が淡い香りを漂わせていた。
数日のあいだ、ルシェルは意図的にゼノンを避けていた。
ノアとの関係を立て直すと決めた以上、ゼノンに心を傾けることは許されない。
だが、避けることでかえってゼノンの存在が濃くなっている気がした。
彼の言葉や視線が思い出され、胸の奥で静かに疼き続けていた。
「……ルシェル様」
背後から呼びかける声に、ルシェルは思わず足を止めた。
振り返ると、ゼノンが立っている。
(本当に綺麗な瞳。あぁ、なんだか出会ったばかりの頃にも、こんなことがよくあったわね……)
いつもと同じ整った所作、けれど瞳の奥に消えない揺らぎを宿していた。
「……ゼノン様」
声音は自然を装ったが、ほんの僅かに硬さが混じる。
二人の間に、風が白い花弁を舞い落とす。
沈黙が数呼吸続き、先に口を開いたのはゼノンだった。
「皇帝陛下がお倒れになって以来……あまりお話しできませんでしたね……」
「……ええ……」
ゼノンはその微妙な距離を感じ取った。
「その後、皇帝陛下のお加減はいかがですか?」
「まだ、本調子ではありませんが……快方に向かっています」
「……そうですか」とゼノンの短い応答。
安堵の色が浮かぶが、その影には抑えきれぬ痛みもある。
ルシェルは気づいていた。
彼の沈黙の奥に、言葉にならない感情が渦巻いていることを。
けれど、そこに自ら踏み込むことはできない。
「……ゼノン様」
ためらいながらも、彼女は言葉を探す。
「あなたにはいつも感謝しています…本当に…心から」
「礼など……」
ゼノンの声は低く、けれど静かに震えていた。
「私は、あなたが幸せでいられるのなら……それでいいのです」
ルシェルの胸が微かに軋んだ。
だが彼女は視線を逸らさず、むしろ真っ直ぐに彼を見た。
「……ゼノン様。私は、ノアを……陛下を……これからも支えていきます。なので、どうか心配しないでください」
その一言は、やさしくも冷たい刃のようだった。
ゼノンは目を伏せ、拳を握りしめる。
「……そうですか」
ゼノンは引き攣った笑顔を見せた。
その笑顔がとても痛々しく見えて、ルシェルも苦しくなった。
「私は……まもなく、国に戻ろうと思います」
心臓が跳ねる音が、自分の耳にまで響いた。
引き止めたい――けれど、ルシェルの口から出たのはわずかな息だけだった。
「……そう……ですか。寂しくなりますね……」
風が再び吹き抜け、庭園に咲き誇る花の花弁が二人の間を舞った。
ほんの少しの沈黙が、永遠の隔たりのように広がっていく。
ルシェルは胸の奥に刺さった痛みを抱えたまま、ゆっくりと口を開いた。
「……どうか、お身体にお気をつけてくださいね…」
その言葉に、ゼノンはわずかに顔を上げ、唇に寂しげな笑みを刻む。
「ええ、ありがとうございます。ルシェル様もどうか、お体に気をつけて」
だがその『ありがとう』という言葉が、別れを意味する言葉であることをルシェルは痛いほど分かってしまった。
ーーゼノンが客殿に戻っていく後ろ姿を見送り、ルシェルは庭園にひとり佇んでいた。
つい先ほどまで、ここでゼノンと向かい合っていた。
彼は国へ帰ってしまうーー引き止める言葉が喉まで来て、なんとか堪えた。
花弁が、一人佇むルシェルの頬をひとひらとかすめていく。
いくら待っても、もう足音は戻ってこない。
これからはもう彼と庭園で会うことはない。
あの瞳を見ることも、あの声を聞くこともーー。
やがて冷えが衣に沁みはじめ、ルシェルは静かに歩を返した。
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