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第5章 健吾side
第三話
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卒業式を目前にした放課後、薄い藍が窓の外からじわりと侵入してくる。
印刷機の余熱で生温くなった紙の匂いと、僅かな埃の匂いが混在する生徒会室で、健吾と尚は最後の仕上げに取りかかっていた。
新役員が実務を担い、卒業を控えた三年生には引き継ぎと確認作業が数点残るのみだった。
「これで最後の仕事だね」
尚が静かに呟く。その声音には、終焉を受け入れる穏やかな寂寥が宿っていた。
「本当に寂しいな。生徒会での日々は充実していた」
「本当にね」
室内は早い黄昏に沈み、他のメンバーの姿はもうない。
コピー機が最後の束を排出し、尚がそれを受け取る。
いつもの整然とした手つき。しかし頬に淡い紅潮が見られ、呼吸のリズムが一拍分浅くなっている。
「これで印刷物の準備は終わりかな」
尚の声は落ち着いているが、机の端にそっと手をついた仕草が、微かな異変を告げていた。
「尚、体調に問題はない?」
「うん、大丈夫」
即座の返答。しかし立ったままの姿勢を支える重心の角度がぎこちない。
「本当? 今日は早めに切り上げたら? 締め切りにはまだ余裕があるし」
「でも、この作業だけは完了させておきたくて」
平静を保とうとする気配は、次の瞬間、机にもたれかかる苦悶の表情によって破綻した。
「尚!」
駆け寄った腕に、異様な熱が伝わってくる。
室内の空気が一変する。甘く粘性を帯びた香り――オメガのフェロモンが閉じられた部屋に充満し始めていた。
(危険な状況だ)
理解は瞬時だった。
予期せぬヒート。
夕刻の生徒会室。二人きりという状況。
抑制剤を服用してはいるものの、これほどの至近距離での曝露は未経験だった。理性は踏み留まろうとし、身体は原始的な回路を辿ろうとする。
「保健室に、いや、抑制剤はある?」
肩を支えた途端、尚の指が健吾の手首を強く掴む。
「健吾……」
潤んだ瞳。いつもの理知的な光は揺らぎ、助けを求める熱だけが残っている。
「大丈夫、落ち着いて」
言い聞かせるのは尚にではなく、自分自身にだった。呼吸を整えようとするたび、芳香が肺の奥深くに張りついてくる。
保健室に行かねば。
いや、その前に尚に、いや、自分が抑制剤を――。
「お願い、助けて」
身を寄せられ、白い項から立ち昇る気配に視界が霞む。
精密な歯車の一つが噛み合わず、それでも回転を続けるように、理性の制動機能が僅かに遅延する。
気がついた時には、健吾は尚の項に歯を立てていた。
刹那、世界の質感が変容する。
見えない糸が互いを結び、深層で結着する感覚。番の成立。取り返しのつかなさが、遅れて胸に沈んだ。
慌てて身を引くと、尚は健吾の腕の中でゆっくりと呼吸を整え始めている。熱は確実に引きつつあった。代わりに、もはや解くことのできない現実だけが残される。
「尚」
名を呼ぶと、まぶたが震え、いつもの穏やかな光が戻ってくる。
状況を理解したのだろう。
尚の表情から血の気が失われていく。
「ごめん、僕のせいで……」
「いや、俺の責任だ。もっと早く異変に気づき、距離を置くべきだった」
どちらがどれほど自分を責めても、起きた事実は変わらない。
二人で無言のまま後片付けを行い、生徒会室を後にした。
その瞬間から、関係性は静かに別のものへと変質した。
翌週、医師の診断が「番成立」を淡々と告げる。診断書に印字された活字は、妙に黒々と映った。
それ以降の尚は、いつも少し申し訳なさげに視線を落とすようになり、健吾は庇護すべき相手を抱えたという感覚から逃れられなくなった。
対等であったはずの友人関係は輪郭を失い、義務感と罪責感に形を与えられた別の関係が開始される。
それが七年間継続している。
意識を現在に引き戻す。目の前には、あの日と変わらず、どこか謝罪の影を宿した尚がいる。
七年間、二人とも互いにこの関係性の中で苦悶し続けているのではないだろうか。
その後の会話は重苦しい空気に包まれた。
健吾は尚との過去を思い出したことで、現在の関係がいかに不自然なものかを改めて実感していた。尚もまた、何かを言いたげな表情を浮かべては、結局口をつぐんでしまう。
「そろそろ時間だね」
尚が腕時計を見て言った。
「そうだな」
健吾は立ち上がりながら答える。二人とも、この場にいることの居心地の悪さを感じていた。
店を出る時、健吾はふと蛍のことを思い出した。
蛍も映画が好きだと言っていて、まるで高校時代に戻ったかのように語り合うことがある。
そんなことを考えながら振り返ると、尚の顔色が悪いことに気がついた。
先ほどまで気づかなかったが、唇に血の気がなく、額に薄っすらと汗が浮かんでいる。
「尚、本当に大丈夫か? 顔色が良くないように見えるけど」
健吾の言葉に、尚は慌てたように手で額を拭った。
「ちょっと疲れているだけ。最近、仕事が忙しくて」
そう答える尚の声にも、いつもの張りがない。
「無理しないでくれ。何かあったら連絡して」
健吾は心配そうに言った。番としての絆があるからこそ、相手の体調の変化が気になる。それが義務感なのか、それとも純粋な心配なのか、健吾にも判然としなかった。
「ありがとう。気をつける」
尚は小さく頷いて、駅の改札へと向かっていく。
その小さな後ろ姿は、どこか頼りなげに見えた。
印刷機の余熱で生温くなった紙の匂いと、僅かな埃の匂いが混在する生徒会室で、健吾と尚は最後の仕上げに取りかかっていた。
新役員が実務を担い、卒業を控えた三年生には引き継ぎと確認作業が数点残るのみだった。
「これで最後の仕事だね」
尚が静かに呟く。その声音には、終焉を受け入れる穏やかな寂寥が宿っていた。
「本当に寂しいな。生徒会での日々は充実していた」
「本当にね」
室内は早い黄昏に沈み、他のメンバーの姿はもうない。
コピー機が最後の束を排出し、尚がそれを受け取る。
いつもの整然とした手つき。しかし頬に淡い紅潮が見られ、呼吸のリズムが一拍分浅くなっている。
「これで印刷物の準備は終わりかな」
尚の声は落ち着いているが、机の端にそっと手をついた仕草が、微かな異変を告げていた。
「尚、体調に問題はない?」
「うん、大丈夫」
即座の返答。しかし立ったままの姿勢を支える重心の角度がぎこちない。
「本当? 今日は早めに切り上げたら? 締め切りにはまだ余裕があるし」
「でも、この作業だけは完了させておきたくて」
平静を保とうとする気配は、次の瞬間、机にもたれかかる苦悶の表情によって破綻した。
「尚!」
駆け寄った腕に、異様な熱が伝わってくる。
室内の空気が一変する。甘く粘性を帯びた香り――オメガのフェロモンが閉じられた部屋に充満し始めていた。
(危険な状況だ)
理解は瞬時だった。
予期せぬヒート。
夕刻の生徒会室。二人きりという状況。
抑制剤を服用してはいるものの、これほどの至近距離での曝露は未経験だった。理性は踏み留まろうとし、身体は原始的な回路を辿ろうとする。
「保健室に、いや、抑制剤はある?」
肩を支えた途端、尚の指が健吾の手首を強く掴む。
「健吾……」
潤んだ瞳。いつもの理知的な光は揺らぎ、助けを求める熱だけが残っている。
「大丈夫、落ち着いて」
言い聞かせるのは尚にではなく、自分自身にだった。呼吸を整えようとするたび、芳香が肺の奥深くに張りついてくる。
保健室に行かねば。
いや、その前に尚に、いや、自分が抑制剤を――。
「お願い、助けて」
身を寄せられ、白い項から立ち昇る気配に視界が霞む。
精密な歯車の一つが噛み合わず、それでも回転を続けるように、理性の制動機能が僅かに遅延する。
気がついた時には、健吾は尚の項に歯を立てていた。
刹那、世界の質感が変容する。
見えない糸が互いを結び、深層で結着する感覚。番の成立。取り返しのつかなさが、遅れて胸に沈んだ。
慌てて身を引くと、尚は健吾の腕の中でゆっくりと呼吸を整え始めている。熱は確実に引きつつあった。代わりに、もはや解くことのできない現実だけが残される。
「尚」
名を呼ぶと、まぶたが震え、いつもの穏やかな光が戻ってくる。
状況を理解したのだろう。
尚の表情から血の気が失われていく。
「ごめん、僕のせいで……」
「いや、俺の責任だ。もっと早く異変に気づき、距離を置くべきだった」
どちらがどれほど自分を責めても、起きた事実は変わらない。
二人で無言のまま後片付けを行い、生徒会室を後にした。
その瞬間から、関係性は静かに別のものへと変質した。
翌週、医師の診断が「番成立」を淡々と告げる。診断書に印字された活字は、妙に黒々と映った。
それ以降の尚は、いつも少し申し訳なさげに視線を落とすようになり、健吾は庇護すべき相手を抱えたという感覚から逃れられなくなった。
対等であったはずの友人関係は輪郭を失い、義務感と罪責感に形を与えられた別の関係が開始される。
それが七年間継続している。
意識を現在に引き戻す。目の前には、あの日と変わらず、どこか謝罪の影を宿した尚がいる。
七年間、二人とも互いにこの関係性の中で苦悶し続けているのではないだろうか。
その後の会話は重苦しい空気に包まれた。
健吾は尚との過去を思い出したことで、現在の関係がいかに不自然なものかを改めて実感していた。尚もまた、何かを言いたげな表情を浮かべては、結局口をつぐんでしまう。
「そろそろ時間だね」
尚が腕時計を見て言った。
「そうだな」
健吾は立ち上がりながら答える。二人とも、この場にいることの居心地の悪さを感じていた。
店を出る時、健吾はふと蛍のことを思い出した。
蛍も映画が好きだと言っていて、まるで高校時代に戻ったかのように語り合うことがある。
そんなことを考えながら振り返ると、尚の顔色が悪いことに気がついた。
先ほどまで気づかなかったが、唇に血の気がなく、額に薄っすらと汗が浮かんでいる。
「尚、本当に大丈夫か? 顔色が良くないように見えるけど」
健吾の言葉に、尚は慌てたように手で額を拭った。
「ちょっと疲れているだけ。最近、仕事が忙しくて」
そう答える尚の声にも、いつもの張りがない。
「無理しないでくれ。何かあったら連絡して」
健吾は心配そうに言った。番としての絆があるからこそ、相手の体調の変化が気になる。それが義務感なのか、それとも純粋な心配なのか、健吾にも判然としなかった。
「ありがとう。気をつける」
尚は小さく頷いて、駅の改札へと向かっていく。
その小さな後ろ姿は、どこか頼りなげに見えた。
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