6 / 19
第一章 団地に来ちゃった見習い管理人⑥
しおりを挟む
夜の管理人棟は、昼間よりも広く感じた。天井の影が深くなり、部屋の隅々まで薄暗い。畳の居間に、ちゃぶ台が二つ並べて置かれ、その上には煮物や唐揚げ、きんぴら、ポテトサラダなど、完全に「普通の家庭料理」がずらりと並んでいる。湯気が立ち上り、醤油の香りが漂う。
「す、すごい……ごちそう」
凛は思わずつぶやく。こんなにたくさんの料理を、いつの間に作ったのだろう。
「余りものをうまく組み合わせただけよ。さ、こっち来て」
お千代に促され、凛がちゃぶ台の端に座ると——。
「おーい、新入り来たぞー!」
襖がバンッと開いた。凛は思わず身を縮める。
最初に目に飛び込んできたのは、ふわふわと宙に浮かぶ、透明なガラス玉のようなもの。中に小さな風鈴が入っていて、チリン、と音を立てた。涼しげな、夏の音。
「……え」
凛は呆然と見上げる。これが、風鈴の精?
「どもどもー、新しい管理人さん? よろしくー」
次に入ってきたのは、人間の中学生ぐらいの背丈の、狐耳のついた青年——らしきもの。いや、輪郭は人間なのだが、顔が半分、エレベーターの階数表示板でできている。片目が「3」で、もう片方が「4」だ。デジタル表示が、ピカピカと光っている。
「初めまして。階表示盤の狐と申します。当団地エレベーターの安全と快適を担当しております」
丁寧な口調。けれど、その目は値踏みするように凛を見ている。
「た、担当……」
「口は悪いけど腕はいいのよ、あの子」
お千代がひそひそ耳打ちする。凛の耳元で囁く声が、妙に生々しい。
その後ろから、何かがバサバサと紙の音を立てて飛び込んできた。広告チラシを何十枚も重ねたようなシルエット。顔には「期間限定セール」の文字が踊っている。「本日特売」「お買い得」の文字も見える。
「ポスティング妖怪で~す……あっ、新人さん……! ようこそ、情報過多の世界へ……!」
紙の束が、ひらひらと舞う。まるで生きているかのように。
「あ、あの、凛と申します。せ、瀬川凛です……」
気づけば、自己紹介していた。就活以来の、自分の名前の発声だ。声が震えている。けれど、ちゃんと言葉になっている。
「へぇ、りんちゃんか。音の響きは九十七点だな。エレベーターのアナウンスにしても映える」
狐が勝手に評価してくる。その口調は、どこか上から目線だ。
「名前に点数つけないでください!?」
凛のツッコミは、自分史上最速だったかもしれない。驚くほど自然に、言葉が出た。面接では絶対に出せなかった声量で。
さらに、ちゃぶ台の反対側には、いつの間にか腰の曲がったおじいさんが座っている。頭にはハンチング帽。膝の上には、色あせた紙芝居の束。ボロボロになった紙芝居。表紙には「桃太郎」の文字が見える。
「あ……」
なぜか、懐かしい匂いがした。紙と、日なたと、遠い拍手の匂い。子どもの頃、どこかで嗅いだことのある匂い。記憶の底に沈んでいた匂い。
「紙芝居おじさんよ。今は集会所の管理人も兼務してるの」
お千代がさらりと紹介する。
「おう、新入りか。おじさん、昔はここで毎週紙芝居やってたんだがなぁ。今じゃ誰も集まらん」
おじさんは、くしゃっと笑って凛を見た。深いしわが、顔いっぱいに刻まれている。優しい目だ。人生の重みを感じさせる目だ。
「そのうち、またやるさ。アンタも、見においで」
「は、はい……」
よく分からないまま返事をすると、風鈴の精がチリンチリンと笑った。涼しげな音が、部屋に響く。
「ねぇねぇ、お名前、凛ちゃん? りんりん、って呼んでもいい?」
「いや、それじゃまるで昭和のアイドルみたいだから、もう少し普通に……」
「じゃあ、りん」
「一文字減った!」
ツッコミどころが多すぎて、凛の脳内リソースが限界に近づいていた。けれど、不思議と嫌な感じはしない。
そんな騒ぎの中、お千代は慣れた手つきで料理をよそい、皆の前に置いていく。エレベーター狐にはきんぴら、ポスティング妖怪には唐揚げ、風鈴の精には——。
「お千代さん、ぼく、これ食べられないよ。落ちるもん」
風鈴の精が、困ったように揺れる。チリン、と小さな音。
「見て楽しみなさい」
「ひどい!」
騒がしい。けれど、うるさいだけじゃない。不思議と、嫌な感じがしない音の渦だった。就活の面接会場の、あの息の詰まるような静寂とは真逆の空気。ここには、生活の音がある。笑い声がある。
「す、すごい……ごちそう」
凛は思わずつぶやく。こんなにたくさんの料理を、いつの間に作ったのだろう。
「余りものをうまく組み合わせただけよ。さ、こっち来て」
お千代に促され、凛がちゃぶ台の端に座ると——。
「おーい、新入り来たぞー!」
襖がバンッと開いた。凛は思わず身を縮める。
最初に目に飛び込んできたのは、ふわふわと宙に浮かぶ、透明なガラス玉のようなもの。中に小さな風鈴が入っていて、チリン、と音を立てた。涼しげな、夏の音。
「……え」
凛は呆然と見上げる。これが、風鈴の精?
「どもどもー、新しい管理人さん? よろしくー」
次に入ってきたのは、人間の中学生ぐらいの背丈の、狐耳のついた青年——らしきもの。いや、輪郭は人間なのだが、顔が半分、エレベーターの階数表示板でできている。片目が「3」で、もう片方が「4」だ。デジタル表示が、ピカピカと光っている。
「初めまして。階表示盤の狐と申します。当団地エレベーターの安全と快適を担当しております」
丁寧な口調。けれど、その目は値踏みするように凛を見ている。
「た、担当……」
「口は悪いけど腕はいいのよ、あの子」
お千代がひそひそ耳打ちする。凛の耳元で囁く声が、妙に生々しい。
その後ろから、何かがバサバサと紙の音を立てて飛び込んできた。広告チラシを何十枚も重ねたようなシルエット。顔には「期間限定セール」の文字が踊っている。「本日特売」「お買い得」の文字も見える。
「ポスティング妖怪で~す……あっ、新人さん……! ようこそ、情報過多の世界へ……!」
紙の束が、ひらひらと舞う。まるで生きているかのように。
「あ、あの、凛と申します。せ、瀬川凛です……」
気づけば、自己紹介していた。就活以来の、自分の名前の発声だ。声が震えている。けれど、ちゃんと言葉になっている。
「へぇ、りんちゃんか。音の響きは九十七点だな。エレベーターのアナウンスにしても映える」
狐が勝手に評価してくる。その口調は、どこか上から目線だ。
「名前に点数つけないでください!?」
凛のツッコミは、自分史上最速だったかもしれない。驚くほど自然に、言葉が出た。面接では絶対に出せなかった声量で。
さらに、ちゃぶ台の反対側には、いつの間にか腰の曲がったおじいさんが座っている。頭にはハンチング帽。膝の上には、色あせた紙芝居の束。ボロボロになった紙芝居。表紙には「桃太郎」の文字が見える。
「あ……」
なぜか、懐かしい匂いがした。紙と、日なたと、遠い拍手の匂い。子どもの頃、どこかで嗅いだことのある匂い。記憶の底に沈んでいた匂い。
「紙芝居おじさんよ。今は集会所の管理人も兼務してるの」
お千代がさらりと紹介する。
「おう、新入りか。おじさん、昔はここで毎週紙芝居やってたんだがなぁ。今じゃ誰も集まらん」
おじさんは、くしゃっと笑って凛を見た。深いしわが、顔いっぱいに刻まれている。優しい目だ。人生の重みを感じさせる目だ。
「そのうち、またやるさ。アンタも、見においで」
「は、はい……」
よく分からないまま返事をすると、風鈴の精がチリンチリンと笑った。涼しげな音が、部屋に響く。
「ねぇねぇ、お名前、凛ちゃん? りんりん、って呼んでもいい?」
「いや、それじゃまるで昭和のアイドルみたいだから、もう少し普通に……」
「じゃあ、りん」
「一文字減った!」
ツッコミどころが多すぎて、凛の脳内リソースが限界に近づいていた。けれど、不思議と嫌な感じはしない。
そんな騒ぎの中、お千代は慣れた手つきで料理をよそい、皆の前に置いていく。エレベーター狐にはきんぴら、ポスティング妖怪には唐揚げ、風鈴の精には——。
「お千代さん、ぼく、これ食べられないよ。落ちるもん」
風鈴の精が、困ったように揺れる。チリン、と小さな音。
「見て楽しみなさい」
「ひどい!」
騒がしい。けれど、うるさいだけじゃない。不思議と、嫌な感じがしない音の渦だった。就活の面接会場の、あの息の詰まるような静寂とは真逆の空気。ここには、生活の音がある。笑い声がある。
0
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜
二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。
そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。
その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。
どうも美華には不思議な力があるようで…?
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる