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第一章 団地に来ちゃった見習い管理人⑤
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「まず、あなたの仕事ね」
ちゃぶ台に二人で向かい合い、湯のみを手にする。古い陶器の湯のみ。緑茶の湯気がふわりと立ち昇った。
「管理人見習い、という名の、何でも屋です。清掃、巡回、住民からの相談受付、簡単な事務、ゴミ捨て場チェック。あとは——」
お千代は一拍置いて、凛を見た。その瞳に、何か深いものが宿っている。
「ここの『住民』たちの、ちょっとしたもめ事の仲裁ね」
「住民……ですか?」
凛は湯のみを持つ手に力を込めた。熱い
。
「ええ。人間と、そうじゃないほう、どっちも」
どっちも。
聞かなかったことにするには、あまりにもはっきりした言い方だった。お千代の声には、一片の迷いもない。
「あ、あの、そうじゃないほうっていうのは……」
凛は恐る恐る尋ねる。声が震える。
「靴鳴らしに、階表示盤の狐、風鈴の精、ポスティング妖怪。それから、まだまだ」
さらっと列挙されていく固有名詞に、凛の脳が追いつかない。狐? 風鈴? 妖怪? どれも、普通の就職活動では聞いたことのない単語ばかりだ。
「ま、待ってください。狐? エレベーターの……?」
「そう。エレベーターの階数表示のところに住みついてる狐。あの子、ちょっと口が悪いのよね。でも根は悪くないの。後で挨拶しておきなさい」
後で挨拶。
「管理組合長にも挨拶しなさいね」と同レベルのノリである。凛の常識が、音を立てて崩れていく。
凛は湯のみを両手で持ったまま、小さな声でつぶやいた。
「……あの、ここって、そういう、何かが、見える人じゃないとダメだったり……?」
もし、そうだとしたら。自分には無理だ。見えない。感じない。そもそも、信じてすらいない。
「ううん、むしろ。見えるのに放っとく人より、見えるかどうか分からなくても話を聞こうとする人のほうが、向いてるわ」
お千代は、少しだけ柔らかい目で凛を見た。その視線には、優しさと、何か諦めに似たものが混じっている。
「就活で苦労したって聞いたけど」
「えっ、なんで」
心臓が跳ねる。そんなこと、誰にも言ってないのに。
「電話で花咲さんから聞いたのよ。『うちの子、自信なくしちゃって~』って」
お千代は、凛にこの団地を紹介してくれた「おばさん」の名を口にした。ことん、と音を立てて湯のみを置く。
「でもね、落ちたのは、その会社と、あなたの相性が悪かっただけ。団地には、合う人と合わない人がいるのと同じ」
「団地にも、相性があるんですか」
「あるわよ。これを見なさい」
お千代は、団地の見取り図を引っ張り出してきた。古い図面をコピーしたもののようだ。A棟、B棟、中庭、商店街、と几帳面な手書きの文字で書かれている。ワープロやパソコンが発明されていなかった時代の公的文書にありがちな達筆だ。
そこに、赤いペンで小さな丸がいくつも付けられている。まるで、病巣を示すレントゲン写真のように。
「この丸が、いま『機嫌が悪いところ』。空き部屋だったり、長く住んでる人が孤立してたり。そういう場所には、あやかしも人間も、似たような顔が集まるの」
凛は思わず身を乗り出していた。気づけば、怖さよりも好奇心が少し勝っている。不思議だ。さっきまであんなに怯えていたのに。
「あなたには、その丸を小さくしてもらいたいの。掃除をして、話を聞いて、ちょっとした不具合を直して」
「わ、私が……?」
自分を指さす。信じられない。就活で何十社も落ちた自分が、そんな大切な仕事を。
「そう。あなた、団地をこわがってるわりには、さっき中庭でちゃんと頭を下げてたでしょう」
心臓が止まりかけた。全身から血の気が引く。
「み、見てたんですか!?」
「まぁ、ここにいると、だいたいのことは見えるのよ。靴鳴らし、喜んでたわ。『久しぶりに礼儀正しい子が来た』って」
「そんな評価、いらない……!」
情けない叫びが、ちゃぶ台の上で転がった。顔が熱い。恥ずかしさで死にそうだ。
けれど、胸の奥で何かが、ほんの少しだけ温かくなった気もした。「礼儀正しい」というのは、就活中、どこからも言われなかった言葉だからだ。面接官は誰も、褒め言葉など出してはくれなかった。
「で、でも、私、本当に人付き合いが苦手で……。団地って、人付き合いの塊みたいな場所ですよね……」
凛はうつむく。自分の膝を見つめる。
「うん、わかるわ。そういう顔してるもの」
「ひどくないですか!?」
「褒めてるのよ。こわがってるってことは、ちゃんと見てるってことだから。何も感じないふりをして、適当にやり過ごす人のほうが危ないの」
お千代は立ち上がった。膝を叩いて、勢いよく。
「まぁ、言葉で説明するより、実物を見せたほうが早いわね。ちょうど、今夜は夕食会だし」
「え、夕食会?」
「人間と、あやかしと、管理人と。……あなたも、見習いとして参加してもらうわ」
まるで「歓迎会があるからスケジュール空けておいて」と言われたみたいなノリで、凛はそのまま、人生初の「種族混合会合」に参加させられることになった。断る隙も、逃げる隙も、まったくなかった。
ちゃぶ台に二人で向かい合い、湯のみを手にする。古い陶器の湯のみ。緑茶の湯気がふわりと立ち昇った。
「管理人見習い、という名の、何でも屋です。清掃、巡回、住民からの相談受付、簡単な事務、ゴミ捨て場チェック。あとは——」
お千代は一拍置いて、凛を見た。その瞳に、何か深いものが宿っている。
「ここの『住民』たちの、ちょっとしたもめ事の仲裁ね」
「住民……ですか?」
凛は湯のみを持つ手に力を込めた。熱い
。
「ええ。人間と、そうじゃないほう、どっちも」
どっちも。
聞かなかったことにするには、あまりにもはっきりした言い方だった。お千代の声には、一片の迷いもない。
「あ、あの、そうじゃないほうっていうのは……」
凛は恐る恐る尋ねる。声が震える。
「靴鳴らしに、階表示盤の狐、風鈴の精、ポスティング妖怪。それから、まだまだ」
さらっと列挙されていく固有名詞に、凛の脳が追いつかない。狐? 風鈴? 妖怪? どれも、普通の就職活動では聞いたことのない単語ばかりだ。
「ま、待ってください。狐? エレベーターの……?」
「そう。エレベーターの階数表示のところに住みついてる狐。あの子、ちょっと口が悪いのよね。でも根は悪くないの。後で挨拶しておきなさい」
後で挨拶。
「管理組合長にも挨拶しなさいね」と同レベルのノリである。凛の常識が、音を立てて崩れていく。
凛は湯のみを両手で持ったまま、小さな声でつぶやいた。
「……あの、ここって、そういう、何かが、見える人じゃないとダメだったり……?」
もし、そうだとしたら。自分には無理だ。見えない。感じない。そもそも、信じてすらいない。
「ううん、むしろ。見えるのに放っとく人より、見えるかどうか分からなくても話を聞こうとする人のほうが、向いてるわ」
お千代は、少しだけ柔らかい目で凛を見た。その視線には、優しさと、何か諦めに似たものが混じっている。
「就活で苦労したって聞いたけど」
「えっ、なんで」
心臓が跳ねる。そんなこと、誰にも言ってないのに。
「電話で花咲さんから聞いたのよ。『うちの子、自信なくしちゃって~』って」
お千代は、凛にこの団地を紹介してくれた「おばさん」の名を口にした。ことん、と音を立てて湯のみを置く。
「でもね、落ちたのは、その会社と、あなたの相性が悪かっただけ。団地には、合う人と合わない人がいるのと同じ」
「団地にも、相性があるんですか」
「あるわよ。これを見なさい」
お千代は、団地の見取り図を引っ張り出してきた。古い図面をコピーしたもののようだ。A棟、B棟、中庭、商店街、と几帳面な手書きの文字で書かれている。ワープロやパソコンが発明されていなかった時代の公的文書にありがちな達筆だ。
そこに、赤いペンで小さな丸がいくつも付けられている。まるで、病巣を示すレントゲン写真のように。
「この丸が、いま『機嫌が悪いところ』。空き部屋だったり、長く住んでる人が孤立してたり。そういう場所には、あやかしも人間も、似たような顔が集まるの」
凛は思わず身を乗り出していた。気づけば、怖さよりも好奇心が少し勝っている。不思議だ。さっきまであんなに怯えていたのに。
「あなたには、その丸を小さくしてもらいたいの。掃除をして、話を聞いて、ちょっとした不具合を直して」
「わ、私が……?」
自分を指さす。信じられない。就活で何十社も落ちた自分が、そんな大切な仕事を。
「そう。あなた、団地をこわがってるわりには、さっき中庭でちゃんと頭を下げてたでしょう」
心臓が止まりかけた。全身から血の気が引く。
「み、見てたんですか!?」
「まぁ、ここにいると、だいたいのことは見えるのよ。靴鳴らし、喜んでたわ。『久しぶりに礼儀正しい子が来た』って」
「そんな評価、いらない……!」
情けない叫びが、ちゃぶ台の上で転がった。顔が熱い。恥ずかしさで死にそうだ。
けれど、胸の奥で何かが、ほんの少しだけ温かくなった気もした。「礼儀正しい」というのは、就活中、どこからも言われなかった言葉だからだ。面接官は誰も、褒め言葉など出してはくれなかった。
「で、でも、私、本当に人付き合いが苦手で……。団地って、人付き合いの塊みたいな場所ですよね……」
凛はうつむく。自分の膝を見つめる。
「うん、わかるわ。そういう顔してるもの」
「ひどくないですか!?」
「褒めてるのよ。こわがってるってことは、ちゃんと見てるってことだから。何も感じないふりをして、適当にやり過ごす人のほうが危ないの」
お千代は立ち上がった。膝を叩いて、勢いよく。
「まぁ、言葉で説明するより、実物を見せたほうが早いわね。ちょうど、今夜は夕食会だし」
「え、夕食会?」
「人間と、あやかしと、管理人と。……あなたも、見習いとして参加してもらうわ」
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