あやかし団地 管理人見習い日誌

双月ねむる

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第一章 団地に来ちゃった見習い管理人⑦

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「はい、凛ちゃんの分」
「……ありがとうございます」

 ちゃぶ台の上の煮物を見下ろした瞬間、凛は気づいた。湯気が立ち上る。醤油の匂い。

 ——あ、この感じ、知ってる。

 子どもの頃、同じ団地のどこかの家で、たまたま呼ばれて食べた晩ごはん。知らない大人の笑い声と、同じ年頃の子どもの視線と、自分だけ浮いているような椅子の高さ。箸の持ち方を間違えて、笑われた記憶。「この子、箸も持てないの?」という囁き声。

 あのときの居心地の悪さがフラッシュバックし、体が一瞬こわばる。背筋が凍る。

(また……浮いたらどうしよう)

 ここにいるのは、人間と、あやかしと、団地の主。明らかに自分だけ異物だ。就活と同じように、「すみません、やっぱり向いてないです」と言って帰ってもいいのかもしれない。今ならまだ間に合う。逃げられる。
 そんな考えが、きゅっと胸を締め付ける。息が苦しい。

 ——そのとき。

「はい、かんぱーい!」

 風鈴の精が、ちゃぶ台の真ん中でくるっと回った。チリン、と音を立てて、全員の視線を集める。その動きは、まるで踊っているようだ。

「何の乾杯だよ」

 エレベーター狐が、きんぴらをつまみながら言う。

「新入りさん歓迎に決まってるでしょ。あと、今日も団地がなんとか無事だった記念!」
「『なんとか』って付けないでほしいわね」

 お千代が苦笑する。その顔には、疲れと安堵が混じっている。

「じゃ、凛ちゃんも湯のみ持って」
「え、あ、はい」
 凛は慌てて湯のみ
を持ち上げた。温かい陶器の感触。輪の中に入る。その感触だけで、胸の奥の何かが少しほどける。固く結ばれていた糸が、ふわりとゆるむ。

「よーし、せーの!」
「「「かんぱーい!」」」

 湯のみと、風鈴と、どこからか現れた炭酸飲料のペットボトルが、ちゃぶ台の上でカチンと当たる。音が重なって、畳の部屋に響いた。不揃いな音。けれど、それが心地よい。

 さっきまで団地という言葉だけで胃が痛かったのに。今は、自分の名前がここで呼ばれることに、ほんの少しだけ、誇らしさを感じている。不思議だ。自分でも信じられない。

「ねぇ凛ちゃん」

 きんぴらをつまみながら、階表示盤の狐が言った。その目が「3」から「5」に変わる。

「人間ってさ、団地に来ると、『社会性』のリハビリを始めるのが多いんだよ」
「リハビリ、ですか」

 凛は煮物を箸でつつきながら尋ねる。

「うん。いろんな家庭の生活音聞いてさ、ゴミ出しのルール覚えてさ、管理人さんに文句言ったり、感謝したり。そういうの、全部まとめて『社会性』でしょ?」
「そんなざっくりしたものなんですか、社会性」

 就活で何度も問われた「社会性」。エントリーシートに書いた「協調性」。面接で聞かれた「コミュニケーション能力」。それらが、こんなにざっくりした言葉で片付けられるなんて。

「ざっくりだよ。ざっくりでいいの。細かいことはエレベーターが上下してるあいだに考えればいい」

 狐は、どこか飄々としている。けれど、その言葉は妙にリアルだった。面接官の誰も教えてくれなかった、本当の答えのような気がした。
 お千代が、お茶のおかわりを注ぎながら口を挟む。湯気が立ち上る。

「ここはね、いろんな人が『やり直し』に来るところなのよ。人も、あやかしも」
「やり直し……」

 その言葉が、胸に刺さる。鋭く、けれど優しく。

「うまくいってる人ばかりが住む団地なんて、気味が悪いでしょう? ちょっと失敗した人も、途中で疲れちゃった人もいるから、ふつうの場所になるのよ」

 それは、就活サイトにも会社説明会でも、一度も聞かなかった言葉だった。「失敗」を認める言葉。「疲れ」を受け入れる言葉。企業のパンフレットには、成功者の笑顔ばかりが並んでいた。

 凛の胸に、じんわりと何かが染み込んでいく。温かいものが、ゆっくりと広がっていく。

(……団地って、『ふつう』の場所、なんだろうか)

 子どもの頃の自分が、「団地=こわい場所」と決めつけていた。あの冷たい視線。あの孤独。でも今、ここにいるのは、ちょっと変なあやかしたちと、地味なおばさんと、煮物の匂いだ。笑い声があって、ツッコミがあって、温かい料理がある。
 こわいというより、なんというか——。

「……にぎやか、ですね」

 思わずこぼした言葉に、お千代が微笑む。深いしわが、目尻に刻まれる。

「そうね。にぎやかで、うるさくて、面倒で、たまにうんざりするけど。だからこそ、管理人が必要なの」
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