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第一章 団地に来ちゃった見習い管理人⑧
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お千代は、凛をまっすぐ見つめた。その瞳は、何かを見抜いているようだ。
「瀬川凛さん。今日からあなたは、このさくらヶ丘第一団地の『あやかし管理人見習い』よ」
「……あやかし管理人見習い」
口に出すと、ものすごくブラック企業の肩書きみたいだ。怪しすぎる。履歴書に書けない。
「残業……あります?」
思わず聞いてしまう。就活で身についた、条件反射のような質問。
「季節によるわねぇ」
お千代は、まるで天気予報を語るような口調で答える。
「社会保険は……」
「ここに住んでる時点で、ある意味最大限の保障よ」
「ざっくりすぎます!」
ツッコミを入れながらも、凛はふと気づいた。
さっきから、自分は何度も声を出している。笑ったり、驚いたり、文句を言ったり。それを誰かがちゃんと受け止めて、返してくれている。会話が成立している。言葉が通じている。
就活中、静かな面接室で、頭の中の言葉が全部喉に詰まってしまったあの日々とは違う。あの息苦しさとは違う。ここでは、ちゃんと会話が成立している。自分の声が、空気の中に溶けていく。
「……あの」
少しだけ勇気を出して、凛は言った。心臓がドキドキする。
「私、ほんとにコミュ障で。なんかうまくやれる自信ないですけど……走るのだけは、たぶん得意です」
情けない自己PRだ。面接官が聞いたら、即不採用だろう。
「さっき見たわ」
お千代がくすりと笑う。優しい笑い声だ。
「充分よ。最初の管理人見習いの仕事は、『逃げずに走ること』だから」
「え、走るの前提なんですか」
「走りながら考えるの。団地の管理人って、そういうものよ」
風鈴の精がチリン、と賛同の音を鳴らした。まるで拍手のように。
「りん、さっきの走り、けっこう速かったよー。靴鳴らし、必死でついてってたもん」
「ついてこなくていいんですけどその子!」
笑いが起きる。畳の上に転がる笑い声の中で、凛はようやく、肩の力を抜いた。こわばっていた体が、ふっと緩む。
ポスティング妖怪が、バサバサと紙を揺らしながら言う。
「凛さん……明日から、いっぱい情報、届けますね……! 団地の、お得情報……!」
「いや、そういうのいいです!」
「遠慮しないで……! 『本日特売』『タイムセール』『ポイント二倍』……!」
「本当にいらないです!」
またツッコミが起きる。紙芝居おじさんが、くしゃっと笑った。
「にぎやかでいいねぇ。昔の団地は、もっとこんな感じだったんだがなぁ」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。懐かしさと、寂しさが混じったような空気。
けれど、それも一瞬のことだ。すぐにまた、騒がしい会話が始まる。
凛は煮物を口に運んだ。温かい。優しい味がする。誰かが作ってくれた料理の味。一人で食べるコンビニ弁当とは違う、手作りの温もり。
これが、居場所というものかもしれない。
完璧じゃなくて、うるさくて、ちょっと変で。でも、確かにそこにある場所。自分の声が届く場所。自分の名前が呼ばれる場所。
凛は、小さく息を吐いた。ずっと張り詰めていた何かが、ようやくゆるんだ気がした。
* * *
——その夜。
布団に入った凛は、天井を見つめながら考えた。古い木造の天井。シミのような模様が、いくつも浮かび上がっている。
(あやかし管理人見習い、ね……)
肩書きとしては、ものすごく怪しい。履歴書には絶対書けない。「趣味・特技」の欄にも書けない。けれど、不思議と悪い気はしなかった。
(でも……ちょっと、面白そうかも)
心のどこかで、そう思っている自分に気づく。あの頃、自分を孤立させた「団地」という場所は、もう昔のままではないのかもしれない。時間が流れて、人が変わって、空気も変わった。
窓の外から、かすかな風の音が聞こえた。涼しい夜風。どこかのベランダの風鈴が鳴っているのだろう。チリン、チリン、と規則正しい音。
凛は目を閉じ——そして、ふと、何かの気配を感じて窓のほうを振り向いた。
カーテンの隙間。その向こう。右側の棟のベランダに、誰かが立っていた。
細身のシルエット。長い髪が、夜風に揺れている。どうやら女性のようだ。街灯の光に照らされて、その姿がぼんやりと浮かび上がる。こちらを見ているのかどうかはわからない。けれど、その姿には、不思議と凛の記憶を刺激するものがあった。
凛の心臓が、ドクンと跳ねる。
(……気のせい、だよね)
自分に言い聞かせながら、凛はカーテンをそっと閉めた。手が震える。理由は自分でもわからない。
布団の中で、凛は小さく丸まった。子どもの頃のように。
今日一日のどたばたを頭の中で反芻する。靴鳴らしの足音。お千代さんの優しい目。あやかしたちの騒がしい声。温かい煮物の味。
「……あやかし管理人見習い、走る、かぁ」
そうつぶやいて、苦笑する。
団地の夜風は、想像していたよりも少しだけ優しく、そして、やっぱりちょっとだけ騒がしかった。どこかで誰かが笑う声。テレビの音。生活の音。
そんな音に包まれて、凛はゆっくりと眠りに落ちていった。
前途に待ち受ける驚きの数々を、まだ知ることもなく。
「瀬川凛さん。今日からあなたは、このさくらヶ丘第一団地の『あやかし管理人見習い』よ」
「……あやかし管理人見習い」
口に出すと、ものすごくブラック企業の肩書きみたいだ。怪しすぎる。履歴書に書けない。
「残業……あります?」
思わず聞いてしまう。就活で身についた、条件反射のような質問。
「季節によるわねぇ」
お千代は、まるで天気予報を語るような口調で答える。
「社会保険は……」
「ここに住んでる時点で、ある意味最大限の保障よ」
「ざっくりすぎます!」
ツッコミを入れながらも、凛はふと気づいた。
さっきから、自分は何度も声を出している。笑ったり、驚いたり、文句を言ったり。それを誰かがちゃんと受け止めて、返してくれている。会話が成立している。言葉が通じている。
就活中、静かな面接室で、頭の中の言葉が全部喉に詰まってしまったあの日々とは違う。あの息苦しさとは違う。ここでは、ちゃんと会話が成立している。自分の声が、空気の中に溶けていく。
「……あの」
少しだけ勇気を出して、凛は言った。心臓がドキドキする。
「私、ほんとにコミュ障で。なんかうまくやれる自信ないですけど……走るのだけは、たぶん得意です」
情けない自己PRだ。面接官が聞いたら、即不採用だろう。
「さっき見たわ」
お千代がくすりと笑う。優しい笑い声だ。
「充分よ。最初の管理人見習いの仕事は、『逃げずに走ること』だから」
「え、走るの前提なんですか」
「走りながら考えるの。団地の管理人って、そういうものよ」
風鈴の精がチリン、と賛同の音を鳴らした。まるで拍手のように。
「りん、さっきの走り、けっこう速かったよー。靴鳴らし、必死でついてってたもん」
「ついてこなくていいんですけどその子!」
笑いが起きる。畳の上に転がる笑い声の中で、凛はようやく、肩の力を抜いた。こわばっていた体が、ふっと緩む。
ポスティング妖怪が、バサバサと紙を揺らしながら言う。
「凛さん……明日から、いっぱい情報、届けますね……! 団地の、お得情報……!」
「いや、そういうのいいです!」
「遠慮しないで……! 『本日特売』『タイムセール』『ポイント二倍』……!」
「本当にいらないです!」
またツッコミが起きる。紙芝居おじさんが、くしゃっと笑った。
「にぎやかでいいねぇ。昔の団地は、もっとこんな感じだったんだがなぁ」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ変わった気がした。懐かしさと、寂しさが混じったような空気。
けれど、それも一瞬のことだ。すぐにまた、騒がしい会話が始まる。
凛は煮物を口に運んだ。温かい。優しい味がする。誰かが作ってくれた料理の味。一人で食べるコンビニ弁当とは違う、手作りの温もり。
これが、居場所というものかもしれない。
完璧じゃなくて、うるさくて、ちょっと変で。でも、確かにそこにある場所。自分の声が届く場所。自分の名前が呼ばれる場所。
凛は、小さく息を吐いた。ずっと張り詰めていた何かが、ようやくゆるんだ気がした。
* * *
——その夜。
布団に入った凛は、天井を見つめながら考えた。古い木造の天井。シミのような模様が、いくつも浮かび上がっている。
(あやかし管理人見習い、ね……)
肩書きとしては、ものすごく怪しい。履歴書には絶対書けない。「趣味・特技」の欄にも書けない。けれど、不思議と悪い気はしなかった。
(でも……ちょっと、面白そうかも)
心のどこかで、そう思っている自分に気づく。あの頃、自分を孤立させた「団地」という場所は、もう昔のままではないのかもしれない。時間が流れて、人が変わって、空気も変わった。
窓の外から、かすかな風の音が聞こえた。涼しい夜風。どこかのベランダの風鈴が鳴っているのだろう。チリン、チリン、と規則正しい音。
凛は目を閉じ——そして、ふと、何かの気配を感じて窓のほうを振り向いた。
カーテンの隙間。その向こう。右側の棟のベランダに、誰かが立っていた。
細身のシルエット。長い髪が、夜風に揺れている。どうやら女性のようだ。街灯の光に照らされて、その姿がぼんやりと浮かび上がる。こちらを見ているのかどうかはわからない。けれど、その姿には、不思議と凛の記憶を刺激するものがあった。
凛の心臓が、ドクンと跳ねる。
(……気のせい、だよね)
自分に言い聞かせながら、凛はカーテンをそっと閉めた。手が震える。理由は自分でもわからない。
布団の中で、凛は小さく丸まった。子どもの頃のように。
今日一日のどたばたを頭の中で反芻する。靴鳴らしの足音。お千代さんの優しい目。あやかしたちの騒がしい声。温かい煮物の味。
「……あやかし管理人見習い、走る、かぁ」
そうつぶやいて、苦笑する。
団地の夜風は、想像していたよりも少しだけ優しく、そして、やっぱりちょっとだけ騒がしかった。どこかで誰かが笑う声。テレビの音。生活の音。
そんな音に包まれて、凛はゆっくりと眠りに落ちていった。
前途に待ち受ける驚きの数々を、まだ知ることもなく。
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