17 / 19
第三章 ベランダのSOS①
しおりを挟む
その朝、さくらヶ丘第一団地は、いつものように「ちょっとだけうるさい平和」に包まれていた。
A棟とB棟のあいだに広がる中庭では、幼稚園のバス待ちらしい子どもが鉄棒にぶら下がって、元気な声を上げている。ベランダというベランダには、色とりどりの洗濯物がひらひらと風に揺れていた。レトロな商店街からは、コロッケでも揚げているのか、食欲をそそる匂いが漂ってくる。「いらっしゃいませー」という威勢のいい声も聞こえた。銭湯の煙突からは、薄く湯気がのぼっている。午前中から営業の準備をしているらしい。
そんな平和な団地の風景を背景に、二人の人影が、ほうきとチリトリを手に駆け回っていた。まるで何かに追われているかのような慌ただしさだ。
「由梨、そっちの階段終わった?」
凛の声が、団地の廊下に響いた。
「まだ! なんか三階の踊り場、靴鳴らしが舞ってて掃きにくい!」
由梨の返事が、階段の上から返ってくる。
「踊るなって言ってー!」
「無理! めっちゃノリノリ!」
人間二人と目に見えないあやかし一匹による、カオスな朝の掃除風景である。
凛は、ジャージの上に紺色の管理人ジャケットという、完全に体育会系な出で立ちで階段を上がっていく。髪を後ろでひとつに束ねた彼女の額には、すでに薄く汗が浮かんでいた。頭上から、コツコツコツ、と軽快なステップ音が聞こえてくる。その音はまるで、誰かがタップダンスでも踊っているかのようだ。
「靴鳴らしさん! ダンスはいいから、せめて端っこ寄ってください! ゴミが集まらない!」
凛が声をかけると、足音がすーっと隅のほうへ移動した。フリーダムなくせに、いちおう協力はするあたりが団地あやかしらしい。凛は小さく息をついた。慣れたものである。
「りーん、見て、クモの巣でハートできてる」
別の階段から、由梨の声がした。興奮したような口調だ。
すぐに凛のスマホが震えた。由梨が写真を送ってきたのだ。
踊り場の角に張ったクモの巣が、妙にきれいなハート型になっている。まるで誰かが意図的に作ったかのような、完璧な形だった。
「可愛いけど、掃除的にはアウトなのよね……」
凛が苦笑する。
「SNSに上げたらバズるかな」
「バズったらまずいよ。見物人が来たらどうするの」
そんな軽口を叩けるようになって、もう数日が経った。
思えば不思議な関係だった。昔、団地で顔を合わせれば胃が縮こまっていた相手。今は一緒に「管理人見習いコンビ」としてあやかしに振り回されているのだから、人生というのは本当にわからない。
ようやく階段の掃除を終えた二人は、掃除道具とごみ袋を手に、中庭で合流した。
「にしてもさぁ……団地って、こんなに『動いて』たんだね」
由梨がしみじみとつぶやいた。
「ほら。人の話し声とか、テレビの音とか、洗濯機の音とかさ。前に住んでたときは、自分の家のことでいっぱいいっぱいで、こんなに響きわたってるって意識してなかった」
由梨の言葉に、凛はハッとした。
「……わかるかも」
凛も、耳を澄ます。
どこかの部屋で、誰かの笑い声。別の階では、誰かと大声で会話しているらしい声。遠くからは、レコード屋の店主がかけている古い歌謡曲が、かすかに流れてきていた。昭和の香りがする、懐かしい旋律だ。
団地は、常に何かしら喋っている。生きている。呼吸している。
「でも、その割に、『誰が困ってるか』が見えにくいよね」
由梨の言葉が、核心を突いた。
「それがあたしたちの仕事でしょ、管理人見習いの」
凛が言うと、由梨が不満そうな顔をする。
「いちいち『見習い』ってつけるの、やめない?」
「権限が欲しいの?」
「せめて有給が欲しい」
「ここに有給って概念があると思う?」
「ないねぇ!」
二人の笑い声が重なったそのときだった。
「りーん! まただよー!」
A棟の中層から、風鈴の精の声が響いた。チリンチリンとやたら騒がしい。その音には、明らかな焦りが含まれていた。
凛と由梨は顔を見合わせる。二人の表情が、同時に曇った。
「……またって、何回目?」
「この三日でたぶん五回」
「多くない?」
「うん、多い」
二人が見上げた先、三階のベランダから、Tシャツがひらりと落ちてきた。
「わ、落ちた!」
由梨が声を上げる。
「今日は無風だよね!? なんで!? あの高さだけ風が吹いてるの!?」
混乱を口にしながら、凛はTシャツを拾い上げる。手に取ると、まだ洗剤の香りがした。
頭上から、洗濯バサミやタオルがはらはらと降ってくる。地面に散らばったそれらは、まるで小さな事件現場のようだった。
A棟とB棟のあいだに広がる中庭では、幼稚園のバス待ちらしい子どもが鉄棒にぶら下がって、元気な声を上げている。ベランダというベランダには、色とりどりの洗濯物がひらひらと風に揺れていた。レトロな商店街からは、コロッケでも揚げているのか、食欲をそそる匂いが漂ってくる。「いらっしゃいませー」という威勢のいい声も聞こえた。銭湯の煙突からは、薄く湯気がのぼっている。午前中から営業の準備をしているらしい。
そんな平和な団地の風景を背景に、二人の人影が、ほうきとチリトリを手に駆け回っていた。まるで何かに追われているかのような慌ただしさだ。
「由梨、そっちの階段終わった?」
凛の声が、団地の廊下に響いた。
「まだ! なんか三階の踊り場、靴鳴らしが舞ってて掃きにくい!」
由梨の返事が、階段の上から返ってくる。
「踊るなって言ってー!」
「無理! めっちゃノリノリ!」
人間二人と目に見えないあやかし一匹による、カオスな朝の掃除風景である。
凛は、ジャージの上に紺色の管理人ジャケットという、完全に体育会系な出で立ちで階段を上がっていく。髪を後ろでひとつに束ねた彼女の額には、すでに薄く汗が浮かんでいた。頭上から、コツコツコツ、と軽快なステップ音が聞こえてくる。その音はまるで、誰かがタップダンスでも踊っているかのようだ。
「靴鳴らしさん! ダンスはいいから、せめて端っこ寄ってください! ゴミが集まらない!」
凛が声をかけると、足音がすーっと隅のほうへ移動した。フリーダムなくせに、いちおう協力はするあたりが団地あやかしらしい。凛は小さく息をついた。慣れたものである。
「りーん、見て、クモの巣でハートできてる」
別の階段から、由梨の声がした。興奮したような口調だ。
すぐに凛のスマホが震えた。由梨が写真を送ってきたのだ。
踊り場の角に張ったクモの巣が、妙にきれいなハート型になっている。まるで誰かが意図的に作ったかのような、完璧な形だった。
「可愛いけど、掃除的にはアウトなのよね……」
凛が苦笑する。
「SNSに上げたらバズるかな」
「バズったらまずいよ。見物人が来たらどうするの」
そんな軽口を叩けるようになって、もう数日が経った。
思えば不思議な関係だった。昔、団地で顔を合わせれば胃が縮こまっていた相手。今は一緒に「管理人見習いコンビ」としてあやかしに振り回されているのだから、人生というのは本当にわからない。
ようやく階段の掃除を終えた二人は、掃除道具とごみ袋を手に、中庭で合流した。
「にしてもさぁ……団地って、こんなに『動いて』たんだね」
由梨がしみじみとつぶやいた。
「ほら。人の話し声とか、テレビの音とか、洗濯機の音とかさ。前に住んでたときは、自分の家のことでいっぱいいっぱいで、こんなに響きわたってるって意識してなかった」
由梨の言葉に、凛はハッとした。
「……わかるかも」
凛も、耳を澄ます。
どこかの部屋で、誰かの笑い声。別の階では、誰かと大声で会話しているらしい声。遠くからは、レコード屋の店主がかけている古い歌謡曲が、かすかに流れてきていた。昭和の香りがする、懐かしい旋律だ。
団地は、常に何かしら喋っている。生きている。呼吸している。
「でも、その割に、『誰が困ってるか』が見えにくいよね」
由梨の言葉が、核心を突いた。
「それがあたしたちの仕事でしょ、管理人見習いの」
凛が言うと、由梨が不満そうな顔をする。
「いちいち『見習い』ってつけるの、やめない?」
「権限が欲しいの?」
「せめて有給が欲しい」
「ここに有給って概念があると思う?」
「ないねぇ!」
二人の笑い声が重なったそのときだった。
「りーん! まただよー!」
A棟の中層から、風鈴の精の声が響いた。チリンチリンとやたら騒がしい。その音には、明らかな焦りが含まれていた。
凛と由梨は顔を見合わせる。二人の表情が、同時に曇った。
「……またって、何回目?」
「この三日でたぶん五回」
「多くない?」
「うん、多い」
二人が見上げた先、三階のベランダから、Tシャツがひらりと落ちてきた。
「わ、落ちた!」
由梨が声を上げる。
「今日は無風だよね!? なんで!? あの高さだけ風が吹いてるの!?」
混乱を口にしながら、凛はTシャツを拾い上げる。手に取ると、まだ洗剤の香りがした。
頭上から、洗濯バサミやタオルがはらはらと降ってくる。地面に散らばったそれらは、まるで小さな事件現場のようだった。
0
あなたにおすすめの小説
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
遡ったのは君だけじゃない。離縁状を置いて出ていった妻ーー始まりは、そこからだった。
沼野 花
恋愛
夫と子供たちに、選ばれなかったイネス。
すべてを愛人に奪われ、彼女は限界を迎え、屋敷を去る。
だが、その先に待っていたのは、救いではなかった。
イネスを襲った、取り返しのつかない出来事。
変わり果てた現実を前に、
夫はようやく、自分が何を失ったのかを思い知る。
深い後悔と悲しみに苛まれながら、
失ったイネスの心を取り戻そうとする夫。
しかし、彼女の心はすでに、外の世界へと向かっていた。
贖罪を背負いながらもイネスを求め続ける夫。
そして、母の心を知っていく子供たち。
イネスが求める愛とは、
そして、幸せとは――。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
後宮の手かざし皇后〜盲目のお飾り皇后が持つ波動の力〜
二位関りをん
キャラ文芸
龍の国の若き皇帝・浩明に5大名家の娘である美華が皇后として嫁いできた。しかし美華は病により目が見えなくなっていた。
そんな美華を冷たくあしらう浩明。婚儀の夜、美華の目の前で彼女付きの女官が心臓発作に倒れてしまう。
その時。美華は慌てること無く駆け寄り、女官に手をかざすと女官は元気になる。
どうも美華には不思議な力があるようで…?
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
俺様上司に今宵も激しく求められる。
美凪ましろ
恋愛
鉄面皮。無表情。一ミリも笑わない男。
蒔田一臣、あたしのひとつうえの上司。
ことあるごとに厳しくあたしを指導する、目の上のたんこぶみたいな男――だったはずが。
「おまえの顔、えっろい」
神様仏様どうしてあたしはこの男に今宵も激しく愛しこまれているのでしょう。
――2000年代初頭、IT系企業で懸命に働く新卒女子×厳しめの俺様男子との恋物語。
身代わりで呪いの公爵に嫁ぎましたが、聖女の力で浄化したら離縁どころか国一番の溺愛妻になりました〜実家が泣きついてももう遅い〜
しょくぱん
恋愛
「お前のような無能は、死神の生贄にでもなっていろ」
魔力なしの無能と蔑まれ、家族に虐げられてきた伯爵令嬢レティシア。 彼女に命じられたのは、近づく者すべてを病ませるという『呪いの公爵』アレクシスへの身代わり結婚だった。
鉄格子の馬車で運ばれ、たどり着いたのは瘴気に満ちた死の城。 恐ろしい怪物のような男に殺される――。 そう覚悟していたレティシアだったが、目の前の光景に絶望よりも先に別の感情が湧き上がる。
(な、何これ……汚すぎるわ! 雑巾とブラシはどこ!?)
実は、彼女が「無能」と言われていたのは、その力が『洗浄』と『浄化』に特化した特殊な聖女の魔力だったから。
レティシアが掃除をすれば、呪いの瘴気は消え去り、枯れた大地には花が咲き、不気味だった公爵城はまたたく間にピカピカの聖域に塗り替えられていく。 さらには、呪いで苦しんでいたアレクシスの素顔は、見惚れるほどの美青年で――。
「レティシア、君は一体何者なんだ……? 体が、こんなに軽いのは初めてだ」
冷酷だったはずの公爵様から、まさかの執着と溺愛。 さらには、呪いが解けたことで領地は国一番の豊かさを取り戻していく。
一方で、レティシアを捨てた実家は、彼女の『浄化』を失ったことで災厄に見舞われ、今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくるが……。
「私は今、お城の掃除と旦那様のお世話で忙しいんです。お引き取りくださいませ」
これは、掃除を愛する薄幸令嬢が、その愛と魔力で死神公爵を救い、最高に幸せな居場所を手に入れるまでのお話。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる