東京ナイトスパロウ

狗嵜ネムリ

文字の大きさ
18 / 23

東京ナイトスパロウ・18

しおりを挟む
 耳元でアラームが鳴っている。
 朦朧とした意識の中で瞼を開けた俺は、そこが自分の家のベッドの中だということを知った。結局あの後、ちゃんと帰ることができたのか。よく覚えてないけど、路上で寝ることにならなくて良かった。
 携帯のアラームを止めて、眠気を振り切ってベッドを抜けなければいけないのは分かっている。だけど、どうしても起き上がれない。
「う……」
 体が重い。朝が弱いのはいつものことなのに、どうして……手足が言うことを聞いてくれない。頭の奥がズキズキと痛む。脳天に釘を刺されたみたいだ。
「起きなきゃ……」
 意思とは裏腹に、力が全く入らない。異常な事態に焦らなきゃいけないのに、その気力すらも沸き上がってこないのはどうしてなのか。頭の中で葛藤を続けているうちに、何か巨大な力に引き寄せられるようにして再び意識が遠のいてゆくのを感じた。
 まるで泥水の中で喘ぎ泳いでいる気分だ。息苦しいのに、どこか心地好い。
 次第にふわふわと体が浮かんでいくような錯覚に陥った。雲の上まで体が浮上し、それが次の瞬間、猛烈な勢いで急降下してゆく。耳元で高度計がうるさく警戒音を放っている。
 ───。
 スッと落ちるような感覚があって、俺は目を覚ました。
「あ……」
 耳元で鳴り響いていた電子音は、着信を受けたスマホが放つ音だった。慌てて時計を確認すると、時刻は既に昼過ぎになっていた。
 着信──きっと事務所からだ。俺が無断欠席したから……どうしよう。
 雀夜や松岡さんと顔を合わせるのが気まずい。出ようか迷っているうちに着信音が途絶え、部屋の中が静寂に包まれた。画面を見ると、不在着信が十件以上きている。登録されていない番号──やっぱり事務所からだろう。
「やばいな……。ちゃんと連絡しないと」
 ほんの一瞬、このままフェードアウトしてしまおうかなんて考えも浮かんだけれど、すぐに打ち消した。それは許されることじゃない。何より、雀夜に一生会えなくなってしまう……。
 俺は心の中で覚悟を決め、一つ深呼吸してから着信履歴の番号を選択し、ボタンを押した。
「………」
 三コールもしないうちに、相手が出た。
〈もしもし……〉
 松岡さんの声じゃない。低くてしわがれた男の声だ。
「あ、ええと。桃陽ですけど……ごめんなさい、仕事……」
〈は? 何言ってんだお前〉
「えっ?」
 間違えた? 事務所からじゃ、なかった?
「……あの、どちらさんですか。番号登録してなくて、ちょっと分かんないんですけど」
 多少警戒しながら問いかけると、携帯の向こう側でヒヒヒ、と男の笑い声がした。
 耳障りで、汚らわしくて、大嫌いな笑い声──その声の主の顔が脳裏に浮かんだ瞬間、俺は慌てて片手で口を塞いだ。胃液が逆流してくる。脳が沸騰しそうになる。腕にも背中にもびっしりと鳥肌が立ち、目に涙まで浮かんできた。
〈冷てぇなぁ、玲司は。父親の声を忘れちまったのかよ〉
 奥田正一。俺の、「新しい父親」だった男──。
「……お、お父さん、じゃないです、その……あなたは、母さんと離婚した、訳だし」
 どもりながらも拒絶を込めて言うと、一気に過去の記憶が蘇ってきた。殴られるのが怖くて、「新しい父親」の言うことを何でもしていた少年時代。臆病で内気で病的だった、あの頃の「玲司」の記憶が──。
〈それでもお前の面倒は見てやってただろ。色々とな〉
「な、なんの用ですか。どうして今更……。あ、俺の番号、どうして……」
 俺はベッドの中に潜り込み、震えて仕方ない体を少しでも温めようとした。あまりの恐怖と動揺で、歯の根が合わなくなる。その音を聞いて、携帯越しに奥田正一が笑う──。
〈久々に玲司に会いたくなってよう、お前の母ちゃんに携帯の番号聞いたのさ。ちょっと嘘泣きして『今まで悪かった、玲司にも直接謝りたい』なんて言ったらすぐに教えてくれたぜ? 相変わらず甘いな、お前の母ちゃんは〉
 何も言えないでいると、奥田が続けた。
〈インターネットで見たぜ、玲司。お前、今あんな仕事してんのか……。桃陽、って良い名前じゃねえか〉
「あ……」
〈それでお前のことを思い出したって訳だ。昔は俺にもよくしてくれたよなぁ……?〉
「……、う……」
 怖くて体の震えが止まらない。なのに、身体中からどっと汗が噴き出てくる。
 電話を切れ。そして二度と出なければ大丈夫。家の場所までは母さんも言ってないだろうし、これからも絶対に教えないようにしてもらえれば、この男が俺と連絡を取るのは不可能になる。だから一刻も早く、切れ。──切れってば!
〈玲司?〉
「………」
〈お前の母ちゃん、また再婚したんだな。しかも相手の男の子どもが三人も付いてきた。一気に大家族だな……。上の娘は今、女子高生だってなぁ……?〉
 俺は唇を噛みしめて、片手で涙を拭った。
〈下の子は中三と中一だ。写真見せてもらったけど、三人ともお前みたいに可愛い顔してんなぁ……。どう思うよ、お兄ちゃんとしては〉
「……な、何が言いたいんですか。あんたまさか……」
〈お兄ちゃんが可愛い妹達を守りたいって言うなら、守らせてやってもいいんだけどな〉
「………」
 義理の妹達の顔が頭に浮かんだ。一緒に暮らしていた頃、俺によく懐いてくれていた、明るくて元気な三姉妹。恋愛相談に乗ったり一緒に買い物に出かけたり、母さんの誕生日には美味しいケーキを作ってくれた、優しい妹達──。
 彼女達が、こんな男に。
 想像しただけで嘔吐しそうになり、俺はベッドの中でうずくまった。
「やめ、てください……。妹達は、俺の大事な……家族なんだから」
 俺が最初からそう言うと分かっていたんだろう、電話越しに奥田が満足げに笑った。
〈じゃあ、玲司。これから言う場所に今から来い。……来なかったら俺は、お前の母ちゃんが住んでる町への新幹線に乗ることになる〉
「……はい」
 通話が終わった後、俺は這うようにしてベッドから出た。
 今から三十分後、駅前の、カラオケボックスの、裏。
 頭の中で何度も反芻させる。
「ていうかあいつ、三十分で来れる距離の場所にいるんだ……」
 ゾッとした。もしかして、俺の住む部屋の場所も既に知られているのかもしれない。もたもたしてたらあいつがこの部屋に押し掛けてくる気がして、俺は服を脱ぎながら立ち上がった。
「駅前カラオケボックスの裏、駅前、カラオケ、裏……」
 着替えてから部屋を出て、早足で駅に向かう。肌を切りつけるような冷たい空気が、熱くなった俺の頭を少しだけ冷ましてくれた気がした。
 無意味な呟きに適当な節をつけ、口ずさむ。
「また地獄に逆戻りだ……俺はこの体に価値がなくなるまでヤッてヤられて……若さを失った時にきっと、このループから解放されるんだ。でもその時、俺は独りぼっち……」
 完全な大凶。しかも今度は、凶の後にやって来た凄まじく禍々しい大凶。
 仕事も恋愛も人生も、今この瞬間、全部が悪い方へ向かっているのだ。
「………」
 やがて見えてきた駅前。カラオケボックス。
 賑やかなクリスマスソングを避けるようにして、俺は小路からカラオケボックスの裏手側に回った。
「よう。大人っぽくなったな」
 ガクガクと膝が震える。握り締めた手に汗が滲む。
「お……お父さんは、そんなに変わらないね」
 約五年振りの対面。奥田は本当にあの頃のままだった。卑猥な笑い方も、俺を見る目付きも。変わったところと言えば、長年飲んできた酒のせいで顔色が赤黒く不健康そうで、髪が若干薄くなっているところだろうか。あの頃より俺の身長が伸びたせいか、やけに体が小さくなってるとも感じた。
「お父さんて呼んでくれんのか。嬉しいねえ」
「だって、他になんて呼べば……」
 震えながらもこうしてかつての父親と相対してるなんて、信じられない思いだった。俺の人生を狂わせた元凶。幼かった俺を自分の欲望のままに弄んだ、最低最悪の男。
 どうしても目が合わせられなくて、俺は俯いたままで乾いた唇を開いた。
「……妹達には絶対、この先も何もしないって、約束して」
「当然だろ。俺もこの歳で刑務所なんか入りたくねえしよ」
「……そっか、僕なら捕まる心配ないしね。あの頃の僕ならともかく」
「そういうことだ、じゃあ行くぞ」
 肩を並べ、だけど少し距離をおいて歩き出す。楽しげなジングルベルが、今の俺には後戻りできない地獄への行進曲のように思えた。
 逃げ出したいのに逃げないのは、逃げても無駄だと分かってるからか。あれから五年の歳月が流れたというのに、俺は既に「桃陽」から「玲司」に戻っていた。挙動不審になり、父親の顔色を伺い、喋るのにも、物音を立てるのにも気を遣う、あの頃の少年に……。
 今の俺は、悲しいほどに「玲司」だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

BL 男達の性事情

蔵屋
BL
 漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。 漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。  漁師の仕事は多岐にわたる。 例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。  陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、 多彩だ。  漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。  漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。  養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。  陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。  漁業の種類と言われる仕事がある。 漁師の仕事だ。  仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。  沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。  日本の漁師の多くがこの形態なのだ。  沖合(近海)漁業という仕事もある。 沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。  遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。  内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。  漁師の働き方は、さまざま。 漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。  出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。  休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。  個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。  漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。  専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。  資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。  漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。  食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。  地域との連携も必要である。 沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。  この物語の主人公は極楽翔太。18歳。 翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。  もう一人の主人公は木下英二。28歳。 地元で料理旅館を経営するオーナー。  翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。 この物語の始まりである。  この物語はフィクションです。 この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。

伝説のS級おじさん、俺の「匂い」がないと発狂して国を滅ぼすらしいい

マンスーン
BL
ギルドの事務職員・三上薫は、ある日、ギルドロビーで発作を起こしかけていた英雄ガルド・ベルンシュタインから抱きしめられ、首筋を猛烈に吸引。「見つけた……俺の酸素……!」と叫び、離れなくなってしまう。 最強おじさん(変態)×ギルドの事務職員(平凡) 世界観が現代日本、異世界ごちゃ混ぜ設定になっております。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

騙されて快楽地獄

てけてとん
BL
友人におすすめされたマッサージ店で快楽地獄に落とされる話です。長すぎたので2話に分けています。

吊るされた少年は惨めな絶頂を繰り返す

五月雨時雨
BL
ブログに掲載した短編です。

身代わり召喚された俺は四人の支配者に溺愛される〜囲い込まれて逃げられません〜

たら昆布
BL
間違って異世界召喚された青年が4人の男に愛される話

臣下が王の乳首を吸って服従の意を示す儀式の話

八億児
BL
架空の国と儀式の、真面目騎士×どスケベビッチ王。 古代アイルランドには臣下が王の乳首を吸って服従の意を示す儀式があったそうで、それはよいものだと思いましたので古代アイルランドとは特に関係なく王の乳首を吸ってもらいました。

久々に幼なじみの家に遊びに行ったら、寝ている間に…

しゅうじつ
BL
俺の隣の家に住んでいる有沢は幼なじみだ。 高校に入ってからは、学校で話したり遊んだりするくらいの仲だったが、今日数人の友達と彼の家に遊びに行くことになった。 数年ぶりの幼なじみの家を懐かしんでいる中、いつの間にか友人たちは帰っており、幼なじみと2人きりに。 そこで俺は彼の部屋であるものを見つけてしまい、部屋に来た有沢に咄嗟に寝たフリをするが…

処理中です...